第1-18話 たった一つの選択

 あかりは、人に触れられるのが苦手だ。過去の嫌な記憶が蘇り、全身をムカデが這いずり回っているような不快感に襲われるらしい。おそらく、触れても大丈夫なのは私くらいではないだろうか。


 そうして、痛みとは無関係に、青い顔で震えるあかりに、エトスは食いしばっていた歯から力を抜き、忌々いまいましげに言い放つ。


「背中を見せてみろ」


 その一言に、あかりが表情を大きく歪めるのが分かった。滅多めったに見せない、心からの拒絶だ。それを見て、私は二人の間に割って入る。


「やめてください、お兄様」

「……まだ消していないのか」

「消していないのではなく、消せないんです。それに、これは、あかりさんの意思で入れたものではありません。それを、無理やりさらさせて、一体、何がしたいんですか」

「守られてばかりだな、榎下朱里。恥ずかしいと、そうは思わないのか」


 その発言に、エトスを睨みつけていると、肩に手が置かれて、私はあかりを振り返る。


 立ち上がったあかりは、躊躇ためらいながらも衣服を脱いで、鍛え上げられた上半身を晒し、龍の宿った背中をエトスに向ける。初めて見るのだろう、トイスとモノカは目を見張っていた。


「ドラゴンの刺青などと、罰当たりもいいところだな──っ!」

「がはっ!」


 あかりは容赦なく背を蹴られて、その場にくずおれ、上手く息ができずに咳き込む。そんな彼の背をさすり、落ち着いたら服を着るよう指示して、私はエトスに向き直る。


「なぜこんなことをするんですか!?」

「──その質問に答える義理はない」


 沸々と湧き上がる怒りを、どのようにしてぶつけてやろうかと考えていると、


「すみません」


 と、あかりは素直に謝罪を口にして、頭を下げた。刺青のことに関しては、彼は何も悪くないのに。どうして、そのことを責められなくてはならないのか。


 私は、彼ほど、大人にはなれない。それでも、その謝罪を無駄にしないように、怒りを拳の内で収める。すると、エトスはため息をついて、口を開いた。


「貴様は大罪人だ。滅びた国と国交の深かった国々が、我々に向かって無謀な戦争を起こし、自滅することのないよう。そして、争いの火種が広がり世界大戦が起こらぬよう。女王と私がいかに苦心したか、貴様に分かるか」

「……すみません」

「何より、貴様は、マナを深く傷つけた。それが、一番、重い罪だ」


 ──結局のところ、エトスは妹である私が可愛くて、だから、振られたことに対して激怒しているのだ。シスコンここに極まれり、と言ったところか。そもそも、私の色恋一つで世界大戦が起こるというのも、おかしな話だが。


「なぜ、婚約を破棄した。答えろ」

「それは……言えません」


 再び、殴りかかろうとするエトスを私は押さえる。


「──座れ、マナ」

「お兄様が座ってくださるのでしたら、私も座ります」


 力で私に勝てる者など、そうは存在しない。エトスと言えど、私の拘束から逃れるのは不可能だ。それを悟ったエトスは、苦渋くじゅうの表情を浮かべて座った。


「……お前は、なぜそんなに強いんだ」

「そういう星の元に生まれたからです」


 私はエトスが静かになったのを見て、ひりつく空気を落ち着かせようと、冷蔵庫から取り出した茶を全員に差し出す。パック緑茶だが、安物とはいえ、十分、美味しい。私の得意料理だ。まあ、以前そう言ったら、あかりに馬鹿にされたのだが。ちなみに、全員一口ずつ啜る中、トイスだけは、美味いと言ってくれた。


「……婚約を破棄したことが知れ渡ったら、一度は鎮静化した争いが再発しかねない」

「そうですね。ついでに、私の評価もどん底に落ちてくれればいいのですが」

「榎下朱里が世界中からうとまれることはあっても、お前の評価が落ちることはまずない」


 世界は私を持ち上げるようにできており、なぜか、何をしてもいい捉え方をされる。必ず、私の敵ばかりが酷い目に合う。それでも、婚約だけは認められない。


 しかし、これを理不尽だと嘆くことは、私にはできなかった。むしろ、嘆くべきなのは敵の方で、私はいつだって幸せになるようにできているのだから。


 そして、あかりと婚約することは、きっと、幸せなことではない。辛いことの方が、間違いなく多いだろうことは分かっていた。──それでも。


「争いが起こったとしたら、私自らが赴いて、戦火をしずめます。たとえ、一国が相手でも、それがルスファでない限り、私一人で十分制圧できるでしょう。また、無用な争いを起こさぬよう、抑止力となります」

「では、国内の反乱はどうする? 最悪、有史以前から王位を継いできた我がゴールスファ家が、失墜しっついさせられる可能性もあるんだぞ」


 反乱が起きて、ゴールスファの家系が終わることまで私のせいにされては、たまったものではない。だが、事実、私が王位を継がないことが原因なので、突っぱねるわけにも──、


「いや、国内の反乱とか、王家の権威失墜とか、そもそも、世界大戦が起こるとか、そんなことまでマナのせいにするとか、わけ分かんないんですけど?」


 口を挟んだのは、ついに我慢の限界を迎えたらしいあかりだった。話が理解できていることに、私は素直に驚く。やればできるというのは知っていたが。


「そもそも、エトス──お兄さんがちゃんと王様やれてれば、反乱とか起きませんよね。その辺りどうなんです? まさか、全部マナに押しつけるつもりじゃありませんよね? ねえ?」


 そして、彼は人を不快な気持ちにさせる天才だ。それを聞いたエトスは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。正直、的を射ているので、エトス本人の口からは何も言い返せないのだろう。だが、相手はエトス一人ではない。


「──実はですね。お兄様も最近、信頼を獲得しつつあるんですよ」


 モノカ──私の姉がそう告げる。どんな状況でも絶やすことのない笑顔が特徴的な女性だ。私の自慢の姉であり、上品な赤色の髪を三つ編みとお団子でまとめ、私とおそろいの黄色の瞳をしている。


「お兄様は自分にはこれしかないからと、どのような状況においても、真面目、という姿勢を貫いてきました。即位してから、たった一年ではありますが、その真面目さだけは評価されているんですよ」

「融通が効かないとか、馬鹿真面目とかって言われそうだけど?」

「そうですね。最初はそういう声の方が多かったです。ただ、他国同士の関係が悪化した際、数百年前の同盟に従って仲介役を担い、国交を回復させた頃からですかね。評価が少しずつ上がり始めたのですよ」

「この国に何の利益もなくない? その辺り、みんなどうなのさ?」

「意見は割れています。ですが、もともと、恵まれない子どもたちや、戦争や自然災害の復興、自立が困難となった方々の社会復帰の支援などに尽力していたこと。それから、各地で起こる小さな紛争でさえ、自国が一因であると知れば、それを一つ一つ解決して回ったことなどが、今になって認められ始めているようです。お兄様を国王に押し上げようという動きもあるくらいで」


 直接、国益を得ることにはならないが、信頼というのは積み重ねでしか得られない大きな力だ。一年で少しずつ評価されてきたというのなら、この先、長く王位につくほど、その信頼は強固なものとなり、ルスファの国力はさらに、底知れないものとなるだろう。


 モノカの返答に隙を見出だせず、あかりは口をつぐむ。すべてが事実とは限らないが、それを見抜くすべをあかりは持ち合わせていない。


 そして私は、兄と違って感情に流されていない様子のモノカに問いかける。


「それでも、各地の反乱は抑えられませんか」

「はい。まだ、即位してから、一年しか経っていないということと、やはり、あなたへの期待が想像以上に大きいのでしょうね」


 こちらは、私が戦場に出て行って、どうこうできる話ではない。私の婚約話でのいざこざとは違い、即位することは、私が生まれたときからの使命だからだ。下手に私が関わってもろくなことにならない。


 とはいえ、いくつか策は思いついているのだが──、


「そもそも、姉さんは女王になりたいのか?」


 そう、核心をついてきたのは、弟のトイスだ。トイスまでこの話し合いについてきたことに、私は少しばかり感心した。まだ、いささか幼すぎるような気がしたからだ。


 ただ、よくよく考えてみれば、彼ももう十四になる。私がいない一年の間に大きく成長したのだろう。今回は話し合いに参加するというよりも、その成り行きを見守るため、また、記録するために来たようだが。


「いずれ、なるつもりではいます。ただ、今は──」

「今は、じゃなくて、今決めることだろ」

「……まったく、その通りです」


 心はすでに決まっていたが、それを口に出してもいいものかどうか。私のこの一言に、一体、どれだけの重荷が乗っているのか。


 それらを想像すると、恐ろしくなる。そして、私は、喉に蓋をされたように、本心を言えなくなる。こういうことは、今までに何度もあった。


 ──一人の選択一つで国が滅びるなんて、そんな馬鹿な話が一体、この世のどこにあるというのか。おかしくて、本当におかしくて、笑ってしまいそうだ。


「何の説明もなく王都を去ったのは軽率だったと、反省しています」

「マナ。話を誤魔化そうとするな」


 エトスの指摘を受け、私は口をつぐむ。誤魔化したいわけではなかったが、先伸ばしにしたいのは確かだった。このとき、私にはおそらく、この場の誰よりも先の未来が見えていたから。


 このときばかりは、大賢者であるれなと同じくらい、先が見通せていたと思う。だからこそ、勇気が出なかった。本当に意気地いくじ無しだ。


「あのー……」

「なんだ、榎下朱里」


 あかりがおずおずと手を挙げたのを見て、エトスが不機嫌そうな態度を隠すこともなく名前を呼ぶ。いつの間にか、普通に話してもいいことになったらしい。


「ちょっとだけ、二人にさせてもらえないかなあ……なんて」


 そんな要望が聞き届けられるものか、と内心で呟く。私だってそれを望んでいるが、あかりには、私を城から連れ出した前科もある。だから、それをエトスが聞いてくれるとは、到底思えなかった。


「──逃げるなよ」

「さすがにもう逃げませんって」


 しかし、意外にも、エトスはあかりの要望をすんなりと受け入れた。念押しはしていたが、それだけだった。

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