第0-4話
──知っていることと、受け入れることとの間には、大きな溝がある。
私は自分が席を立つことができないことに、気がついていた。魔法で動きを封じられているのだ。
「テルム様。別々に帰りましょう」
「どうしてだい?」
「あなたのような人に、私は道を踏み外してほしくない。それだけです」
「君は、どこまでも、優しい。きっと、いい女王になるだろうね──」
瞬間、振り下ろされたハンマーを、座ったまま、素手で受け止め、掴む。勇者の力と魔力で向かってこられては、さすがの私も──、
「やはり、これでも駄目か」
手の骨は砕け、地面にはヒビが入っているが、それで駄目だというのなら、そうなのだろう。
「あなたに、私を殺すことはできません。それから、私は優しくありませんよ」
骨を魔法で再生させ、私は掴んでいたハンマーを、素手で粉砕する。勇者ごときに、私が負けるはずがない。世界で一番強いのだから。
「元の世界に戻る方法は、存在しません。この世界の人間は、別の世界に行くことなどできない」
「君を殺せば、元の世界に戻してやる。そう言われてねぇ。もちろん、知っているさ、そんなのは嘘だって。──ただ、分かっていても、そのわずかな可能性に懸けてみたいと、そう、願ってしまったんだ」
レイに知らせなかったのは、危険に巻き込むと分かっていたから。そう、先日、彼と話した時点で、彼が私の命を狙っていることには勘づいていた。瞳を見れば、それくらいは感じ取れる。何度も、そうして謀られてきたから。だから、あえて、人気のない場所に誘い出したのだ。
「それは、勇者の召喚を恐れる、魔王の手のものの指示ですね」
「きっとそうだろうねぇ。だけど、ただ純粋に、君の瞳が欲しかったのもある。その、美しい瞳がね」
私は目を閉じ、少しだけ、愚かなことを考える。だが、やはり、
「──できません。私は私が持つものを、少しも他人に与えることはできないのです」
「ずいぶんと、欲張りだねぇ」
「恥じてはいます。それでも、私は何一つ、失いたくない」
この両手から、こぼれそうなくらい、私は多くのものを持っている。それを、一つも落とさないようにしながら、私は今まで生きてきたのだ。
「もう一度言います。あなたに、私を殺すことは、できない。できることなら、死んで差し上げたいのですが、まだ、死ぬには早すぎます」
「口先だけなら、なんとでも言えるさ」
「おっしゃる通りです」
しかし、皆が死んでほしいと望むなら、私は、喜んで首を差し出すだろう。もし、私が魔王であったなら、きっと、ここにはいない。
でも、私は、王女なのだ。
「あなたは旅に出た。城の誰にも告げることなく。そして、私はあなたに追いつけなかった。だから、私とあなたは、ここで出会わなかった」
毒入りと思われるカップの中身を、草むらにぶちまけると、すぐに草たちは枯れていった。椅子にかけられた魔法を解除し、動けるようになった体で、先ほど取り出したものを空間に収納する。そして、動けなくした彼を置き去りに、私は城へと向かう。
「待ってくれないか。依頼を失敗したと知れば、私の愛する家族は──」
態度を変え、彼は私に手を伸ばす。本当に、彼に、この国のために戦っていた時代があるとは思えない。だが、これが現実だ。
質問をされれば返答をする。それが常識であり、求められる姿だ。だから、私は振り返って、とびきりの笑顔で、優しい声で、告げる。
彼の家族と私の命。どちらが大事かなんて、考えるまでもない。それだけ多くの人から、私は必要とされている自覚があるのだから。
「あなたの家族がどうなろうと、私には関係がありません。私自身を天秤にかければ、必ず私に傾きます。たとえ、それが、世界であっても」
「色々と、話をしたじゃないか?」
「紅茶に毒を盛ったこと、私の綺麗な手に傷をつけたこと、私を殺そうと画策していたこと。それで相殺されていると思いますよ。あなたは、道を踏み外した。もう、元には戻れない」
私は深々とお辞儀をして、城へと踵を返した。
「ああ、そうか。──貴様は、魔王と同じだ」
青色の瞳は、雲に覆われた空のように、すっかり濁りきっていた。それでも彼は、美しいその
その言葉と瞳が、私の心に深く突き刺さった。
***
勝手に外出したことを、レイにこっぴどく叱られたのも、一ヶ月前。今日は儀式の日だ。さすがに、ふざけるわけにもいかないので、使用人たちの手を借り、私はいつもより念入りに支度をした。
「町を見てきても、いいでしょうか」
召喚の際には、多くの兵士、国王、女王、他国の王や大賢者なんて偉そうな人までもが立ち会う。決められた時刻までは、あと三十分ほどしかない。幸い、支度は済んでいるけれど、そんな勝手が許されるはずがないことくらい、私にも分かった。
ただ、ずっと押し込めていた感情が、本番前の今になって、急に、膨れ上がってきて、とても、耐えられそうになかった。
「──くれぐれも、遅刻しないようにしてくださいね」
しかし、それを、レイはあっさりと許してくれた。他の使用人たちの驚きようを見ていれば、いかに、常識からかけ離れた判断であるかすぐに分かった。
「ありがとうございます!」
私は、身なりが崩れないようにして、しかし、できるだけ速く走った。あの場所までは、歩いて十分程度。なんとか、戻ってこられそうだ。
「廊下が長い! 走りづらい!」
不満を隠すこともなく、叫びながら、私は走っていた。
しかし、町に出れば、そうはいかない。いつものように、愛する民たちへ、笑みを向け、挨拶を交わさなければならない。嫌なわけじゃない。ただ、時間がないという焦り。レイとの約束が、私の心をかきむしる。誰も、私の内心には気づかない。隠しているのだから、当然だ。私もそうして、何も知らないふりをすることは多い。だから、自分だけ助けてもらおうというのは、勝手が良すぎる。
そうして、普通に歩くより長い時間をかけ、私は扉を開けた。
「いらっしゃーい。座って、と言いたいところだけど、急いでるみたいだね」
女性は扇子で風を送ってくれた。そうして、熱を冷ましながら、何から話そうかと、言葉を探し、
「私は、勇者になりたかった」
自然とその言葉が口をついて出ていた。
そこからは、
「でも、私は、勇者にはなれない。それは、自分が一番、よく分かってる。魔王を倒すには、勇者が必要で、だから、異世界から勇者を呼び出すしかない。今は平和な時代で、魔王を倒す必要なんて、ほとんどないけど、時計塔の記述は絶対だから、呼び出すしかない。でも、彼らを故郷に戻すことはできない。彼らの意思を問うこともできない。私たちの世界の都合で、勝手に召喚される……」
そうして、不満は爆発した。
「どうして、見ず知らずの土地のために、違う世界の方たちが、傷つかなければならないの!? 友人を、恋人を、家族を、財産を、仕事を、故郷を、思い出を捨てさせてまで、どうして、命を危険に晒さなければならないの!? どうして、私は、勇者になれないの!? どうして、どうして、どうして……っ!」
こんなに弱い姿は、この場所でしか見せられない。息苦しさの中では、泣くことすらも自由にできない。私には、国民を安心させ、笑顔を守り、信頼される義務がある。
だから、どんなに辛くても、決して、人前にそれを出すことはできない。これほど恵まれた環境にいるのに、さらに切望し、欲張り、世の中を嘆くことなど、誰の前でだって、できるはずがない。そうすればきっと、誰かを困らせる。私の願いを叶えようと、大勢が動く。私が望んでいなくても。
「……人を殺すほどの罪を背負ってでも、元の世界に戻りたいと。そう、願わせると分かっていて、どうして、勇者を、呼ばなければ、ならないの……っ!」
人々に愛され、頼られ、必要とされる私は、天秤の上で、ある意味で、世界よりも重みを持つ。だが、本当は、命の重さに違いなどないはずなのだ。
それでも、誰にも事情を話せない以上、私がテルムたちを守ることはできない。話せば、テルムの首が飛ぶ。私が誰にも内緒で、直接助けるとなれば、魔の国の住民を皆殺しにするか、付きっきりで彼らを守るか。どちらも、不可能だ。
テルムは、自分の首と引き換えにでも、家族を守りたいとは言い出さなかった。ならば、私はそれを尊重する。罪のない人間が死ぬことになるとしても、私の話を聞いてくれた彼が、それを望むのだから。私が、勝手な同情で、私情で、主観で、彼の生死を決めるわけにはいかない。
「本当に、お姫ちゃんは優しいねえ」
「優しく、ない、です。全く。だって、口先でこんなことを言いながら、数分後には勇者を召喚しようと、それに──」
彼女に抱きしめられ、私は言葉を詰まらせる。そして、
「頑張ったね、お姫ちゃん。その決意を、あたしは誇らしく思うよ。友人としてね」
これでいいのだと、彼女はそう思わせてくれた。この選択が正しいかどうか、その答えはきっと、出ない。それでも、私がどれほど悩んで決意したのか、彼女だけは知ってくれている。本当に、私は幸せだ。
「一つ、助言をしよう。お姫ちゃんがどれだけ悲しんでも、それは、お姫ちゃんにしか分からない。だから、伝わるように行動しなきゃ。思い出も、人間関係も、居場所も、財産も、この世界で作っていけばいいんだからさ、ね?」
──そう。私にはこれ以上、立ち止まっている暇などない。儀式を成功させ、勇者を召喚し、世界を救ってもらわなければならないのだ。
私は彼女から離れ、手袋と指輪を外し、涙を手の甲で雑に拭う。まだ、苦しさは残っていたけれど、それを全部、吐き出す時間は残されていない。すぐに、手袋と指輪をつけ直す。
「さて、お姫ちゃん。そのお顔、どうするつもり?」
「大丈夫です。これしきのことで、私の美貌は崩れません。──ませんが、魔法で何とかします」
「でも、時間は? あと、少ししかないよ?」
時間に関しては、どうしようもない。最悪、レイが暇を与えられてしまうかもしれない。急いで戻らねば。しかし、国民を無視して走るわけにも──、
「実はここに、お城に繋がる地下道がありまーす!」
「隠し扉?」
「お姫ちゃんから奪ったお金で作りましたー! いえーい!」
簡素な石造りの壁が、回転扉になっていようなどと、一体、誰が思うだろうか。さすがの私でも、その可能性は考えていなかった。
「勝手に……」
「ほら、走って走って!」
彼女に続き、私は薄暗い地下道を駆け抜ける。一体、彼女は、いつからこうなることを見越して、こんなものを作っていたのだろう。
「うん、なんとか間に合いそうだね!」
「それより、どこまでついてくるおつもりですか?」
城に招かれていないものを、城内に入れるわけにはいかない。加えて、一本道なので、間違えようがなく、ついてくる必要がない。
「あれ? 言ってなかったっけ? ──あたし、結構偉い人なんだよ?」
辺りが明るくなり始めると、彼女が珍しく整った格好をしていることが分かった。フードのせいで台無しだが。
階段を上がり、上に開く扉をくぐると、そこは、私の部屋の床だった。
「いつの間に床下にこんなものが……」
「うん、間に合った。よし、行こう──って、うわあっ!?」
歩きかけた彼女が、使用人たちに身柄を捕らえられる。予想通りの光景だ。
「ち、違う違う! 怪しい者じゃないって! あたしだよ、あたし!」
すると、彼女はフードを取り、緑髪と赤い瞳を衆目に晒した。なかなかに整った顔立ちだと見とれていると、
「床下に通路を作るなと、あれほど言いましたよね?」
レイが不気味な笑みを浮かべて、彼女に迫った。二人は知り合いなのだろうか。しかも、そんなにピンポイントで注意されるほど、問題行動ばかり起こしているのだろうか、この人は。
「えー、間に合ったんだからいいじゃん。それにそれにー、この子の部屋を一階にしない方がいいよって、前に言ったしー?」
「地下牢に行きたいのですか?」
「えー、やだ。あそこつまんないもーん」
どうやら、前科があるらしい。本当にこんなのに頼ってよかったのだろうかと、少しだけ不安になった。
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