見慣れた彼女と始める新生活と新習慣

祥之るう子

見慣れた彼女と始める新生活と新習慣

 久しぶりに少し気温が下がって、肌寒い朝。

 引っ越してまだ三日のアパートのドアを開けて、専用のゴミ捨て場まで、上着を羽織って歩く。


 腰辺りまでの高さのゴミ捨て場まで来て、私はゴミ袋を足元に置いた。

 今日から初出勤。着ているスーツのせいで少し動きにくい。

 膝にこすれるボックススカートの感触。まだ慣れないなあ。

 髪も、耳より下の高さ、後ろで小さくお団子にまとめて、おくれ毛もなし。

 こういうカッチリした服装は、ゆるふわなワンピースを愛用してきた私には、とても窮屈だった。


 ゴミ袋を置いて、うん、と伸びをする。

 朝陽に照らされた街の風景。

 三日前に越してきたとは言え、実は三日前までもここのすぐ近くの、学生専用アパートに住んでいたので、見慣れた景色だ。


 さて、蓋を閉じて一旦部屋に戻ろうと振り向いたところで、視界の隅に、これまた見慣れた存在が見えた。


 黒にピンクのラインが入った、ジャージ姿のお姉さん。

 毎朝この町内でジョギングしている。

 私が大学に進学して、この街に引っ越してきた日から、ずっとずっと、この時間にジョギングをしている。


 ――ああ、ここもあの人のジョギングコースだったんだ。


 なんて考えてたら、うっかり、目が合ってしまった。

 わわ。こんなに真正面から顔見たの初めて! すごい美人!


 お姉さんは、長いまつげにモデルみたいな体型で(きっとジョギングの賜物なんだろうな)、髪型はキャップをかぶっているから解らないけれど、顔はちょっと釣り気味の目の、気の強そうな美人だった。

 思わずドキドキしながら、慌てて会釈をした。


 お姉さんは一瞬、不思議そうな顔をした。

 私が勝手に、四年以上毎朝のように見かけてるから、顔見知りだって思い込んでただけ。お姉さんからしたらきっと初対面だ。


 恥ずかしい!


 と思ったとき、お姉さんは、驚いたように目を見開いて、それから軽く会釈をして、そのまま立ち止まらずにアパートの前を通過していった。


 今の驚いた顔は何だろう?



 そんな小さな疑問が頭に残ったけれど、初出勤のプレッシャーで、電車に乗る頃には今朝の出来事は通勤ラッシュの人混みに流されていってしまった。


 私の就職先は中小企業の金属加工会社。地元ではちょっと有名だけれど、全国規模で見ると無名。そんな会社だ。

 建物は一応郊外の工業地帯にあって、事務や営業の人たちが働く本社と、その隣に工場がある。他にも県内数カ所に工場があるらしい。

 新卒採用で入社した人数は十五名。他にも中途採用が数人。遠くの工場勤務の人も集めて、本社で入社式が行われた。


 慌ただしく終わった初日。

 私は案内されたロッカーで、明日から着る制服をハンガーにかけていた。


「お疲れ様。初日は疲れたでしょう?」

「あ、はい。緊張しました」


 隣のロッカーは、ベテランの佐々木さん。総務で私の教育係になった先輩だ。


「ここのロッカールーム広いでしょ? 工場の人たちもみんなここだから。迷わないようにね?」

「は、はい、気をつけます」

「ふふ、ちゃんと自分の番号を覚えてれば大丈夫よ。鍵にも番号ついてるでしょ?」


 確かに、ロッカーの鍵についたキーホルダーには、ロッカーに書かれているのと同じ番号が印刷されたシールが貼ってある。


「鍵はなくさないでね? できるだけ。まあ、失くしちゃっても予備が……あ!」


 佐々木さんは説明しながら器用に着替えをしていたが、ふと私の後ろを見て声を上げた。

 反射的に振り向くと、そこには、長い黒髪のきれいなお姉さんが立っていた。

 背も高いし、モデルみたい。

 水色の作業着が、他の工場勤務の人たちと同じものを着てるとは思えないくらいスタイリッシュに見える。


中谷なかたにさん! お疲れ様! 鍵、もうなくさないでね?」


 佐々木さんが、からかうような声で言った。


「へ?」


「こちら、うちの新人さん。かわいいでしょ? 今、ロッカーの鍵、なくさないように話してたところなのよ!」


「はあ、そうですか」


 中谷さんと呼ばれた美女は、そっけなくそう言うと、ポケットに手を突っ込んで、私の、佐々木さんとは逆隣のロッカーの前に立った。


 お、おとなり様……!


「あのねえ、中谷さんったら入社してから二ヶ月で三回もロッカーの鍵を失くして……」

「佐々木さん、お子さんの保育園のお迎え、大丈夫なんですか?」


「あら、もうそんな時間?」

「ええ、私、ちょっと作業してから着たので、もう四十五分ですよ」

「やだ大変! 早く行かなきゃ! うちのこの保育園、六時一分でも過ぎたら延長料金なの~! じゃあね!」


 そう言うと、佐々木さんはすごい速さで着替えと片付けを終えてロッカールームから出ていってしまった。


 私は誰もいない空間に向かって、力なく「おつかれさまです」と呟いた。



「あの」


「ハッ! ハイ!」



 背後から突然聞こえたクールなハスキーボイスに、動揺しながら振り向くと、中谷さんがロッカーを開いたまま、顔だけこちらを見ていた。


「今朝は、どうも」


「え? 今朝?」


 ハッ! しまった! 他部署とは言え先輩になんていう間の抜けた返答を!

 ていうか、今朝? もしかして、入社式にいたのかな? やばい、気付かなかったし、今のアホな返答のせいで、もうごまかしようもないじゃない!


「あの、アパートの、前で」


「あぱーと……」



 !!



 脳天に雷がおちた。


 このスレンダーバディといい、美しい釣り気味の目といい、中谷さんは、まさか、ずっとずっと毎朝見かけていた、あの――


「ジョギングのお姉さん……!」


「おねえさんって……」


「ハッ! あッ! ごご、ごめんなさい!」


 しまった! 無礼の上塗り! 私のバカ!


「ふふ、ううん。新人さん、おもしろいですね」


 あ、笑った。

 めっちゃかわいい……!


「じゃあ、お疲れ様」


 私が呆然と見とれているうちに、なんと中谷さんは着替えを終えて出ていってしまった。

 この会社のひと、みんな着替え早くない?


 でも、あの美人のお姉さんとこんな形でお近づきになるなんて……!

 と、外からにぎやかな声が響いてきた。

 勤務時間を終えた人が数人、一気にやってきたのだ。

 いかんいかん、初日からロッカーで一人でニヤケる不審者と思われたら最悪だわ!


 私はあわてて荷物を持って、出口に向かった。

 と、何かを踏んだ。


 足元をみると、なんともシュールな顔つきの、私の片手より大きいクマのマスコットが落ちていた。

 マスコットと言っていいのか、キーホルダーとして使うにはいささか大きいそのぬいぐるみには、ロッカーの鍵と番号付きキーホルダーが着いていた。


「落とし物かな……?」


 番号を見ると、私の隣。


「あ、中谷さんのだ!」


 ええっ、こんな大きいの着けてて、落としたことに気付かないんだ……?


 やだちょっと、ギャップがかわいい。


 そうだ!


 私は名案をひらめいてしまった!

 くまをそっと壊れ物のように鞄にしまうと、私は家路についた。



 翌朝。

 うん! 良い青空。ジョギング日和!

 今日から私服で出社していいので、私はいつものワンピースを着て早朝からアパートの前に立っていた。

 もちろん。中谷さんを待っているのである。

 中谷さんは十分くらいして、昨日と同じように走ってきた。

 スレンダーな長身。ジャージもまるでパリコレのようだわ。


「あ、あの、おはようございます!」


 勇気を出して声をかけると、中谷さんは一瞬驚いてから、頬を赤くして「おはよう」と答えてくれた。


「どうしたの? もう出社するの?」


 中谷さんは、私の横にくると、その場で足踏みをして話しかけてくれる。


「いえ、あの、実は、昨日これ、ロッカーの前に落ちてて」


 そっと、小さな紙袋に入れた中谷さんのくま、もとい鍵を手渡す。

 中谷さんは不思議そうに紙袋の中を覗き込んで、目を見開いた。


「やだ、また落としてたの、私。もう落とさないように、こんな大きいクマつけたのに」


 顔が真っ赤だ。かわいい……!


「あ、ありがとう。その、ごめんね」

「いいえ!」


 中谷さんはうつむいて、立ち止まると、ぼそりと呟いた。


「ずっと走ってると、良いことあるんだね」


「えっ?」


「実はさ、私五年前に今の会社に入って、工場の先輩たちに体力がないって笑われて、悔しくてジョギング始めたの」


「そ、そうだったんですか」


「で、すぐに、あの学生専用アパートの前で、いつもあなたを見かけるようになった」


 へ? い、今なんて?


「私も、あのアパートに住んでたことがあって。大学生の時。それで、こう、ついつい前を通るたびに見ちゃって。何かストーカーみたいでごめん」


「いいいいいいえ! わ、私も、実は、ずっと、毎朝走ってるお姉さんがいるなって、その、思ってましたので」


 ほっぺが熱い!

 中谷さんも顔が真っ赤で、ずっとうつむいてる。


 今、私たち他から見たらどんな風に見えてるんだろ?


「でも、ちょっと前に、空き部屋が増えて、あなたを見なくなった」


 あ。ここに引っ越したから。


「それで、寂しいなって思ってたの。何となく。でも仕方ないなって割り切ろうとした。そしたら、ここの前で、昨日、会えた。

 それに、新人を迎えに行った入社式の会場の会議室に、ついさっき見たあなたがいて。しかもロッカーが隣だし」


「す、すごい偶然ですよね」


「本当、こんなこと、あるんだね」


 中谷さんは、ぎゅっと鍵が入った紙袋を抱きしめた。


「本当に、ありがとう。また鍵をなくしたら、佐々木さんにたっぷり嫌味言われちゃうとこだった。何かお礼させて」


「そんな、悪いですよ」


「そういうわけにはいかないよ」


「じゃあ、一つだけ……」


「何?」


「今度、お休みの日に、私も一緒に走っていいですか?」


 中谷さんは、目をまんまるにして、そして嬉しそうに、くしゃっと笑った。


「もちろん!」


 新社会人の新生活、新新新って新しいことだらけでお腹いっぱいって思ってたけど。


 もうひとつ、新習慣を増やそうかなと思った。

 新しいジャージと、スニーカーを買って。

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