第5話 鉄道も、電波も止まった日曜日 1
2018年7月8日(日)。
気が付けばすでに、夜は明けていた。
当然、日付も変わっている。
時計の針は、午前の6時。
雨が降っているとはいえ、あたりはもう明るい。
彼は、起きてまず、携帯電話の電波をシャットアウトした。それは、8時30分から30分間の番組を集中してみるためだけに行う、彼ならではの「儀式」である。
起きだした彼は、とりあえず出かける準備を始めた。
テレビは相も変わらず、電波が入らない。
この日、彼は結局、携帯電話に付属しているワンセグのテレビで、目的の番組を見た。番組名は、彼の名誉のために伏せておこう。もしここで明かしてしまえば、彼の名誉は大きく棄損される可能性がある。
その番組は日曜日の朝8時30分から、ある民放で30分間放映されているものである。毎年2月第1週から1月第4週までを1サイクルとして、今年で15年目という長寿番組。通例この番組はこの時期、主人公の追加を含めて、エンディングテーマを変えてくる。
毎年の例にもれず、この日をもって、エンディングテーマが後半のものへと変わった。これまでテンションの高い曲が多かったが、少し抑え気味の曲になったようだ。
その番組が終わるや否や、彼は自宅を飛び出し、地元の大手デパートである天満屋付近の宇野バスセンター近くまで、バスで行った。そのあと、バスセンターに出向き、ICカードに今日の運賃分をチャージし、児島行きのバスを待った。
リクライニングシートもなく、ましてトイレもない、何の変哲もない、市内の路線バスに利用されているようなバスが、目的の乗り場にはすでに来ていた。
彼が乗り場に到着してしばらくすると、そのドアが開いた。
彼は、運転席のすぐ後ろの一人席に陣取った。
これから約90分、大学の講義が始まって終わる間に相当する時間を、彼はこの椅子に座って過ごすことになる。
バスには続々、客が乗ってきた。
立ち客が出るほどではないが、いささか、普段よりは多いような気もする。といっても、彼はこの路線のバスに乗るのは実質初めてなのだが。
彼は高校生の頃、下津井電鉄の電車に乗るべく、ここから児島まで、児島ボート開催日に運転される無料バスで往復したことが何度かある。当時はまだ瀬戸大橋が開通しておらず、岡山から児島に向かうには、バスしかなかった。しかも、高速道路さえなかったために、渋滞や遅れは日常茶飯事だったという。瀬戸大橋開通後は、バスはその本数を順次減らし、現在では平日・休日ともに1日3本か4本しかない。
中年男は、48歳になって初めて、岡山から児島まで、正規の運賃を払って移動することになった。
運賃は、JRの2倍以上の1010円、所要時間は、約4倍の約90分。
大雨の影響とはいえ、そこまでして、散髪に行くというのも、ある意味、得難い経験ではある。もっとも、30年以上前は、これが当たり前だったのだから、その「追体験」という意味合いもなくはない。
バスは天満屋バスステーションを定刻で出発し、街中をくぐり抜け、岡山駅前バスターミナルに到着。
ここではすでに、行列ができていた。立客も十人ほど出た模様。
このバスに乗り合わせた人が皆、児島まで行くとは限らない。だが、中にはそういう人もいるに違いない。普段なら、列車で移動しているはずだ。
行列は消え、バスの中にすべて吸収された。
立ち客は幾分あるが「ギュウギュウ詰め」というほどでもない。
中年男の横にも、休日出勤と思われるスマホを持った年配の男性が立った。まさか彼も、児島まで行くのだろうか?
やがてバスは、岡山駅前を出発し、岡山市役所方面へと向かう。途中のバス停で、時に人を乗せ、時に人を降ろし、児島へと向かう。先ほどの年配の男性は、岡山市役所前のバス停で、スマホケースに入れているであろうICカードを使って精算し、降りて行った。
大元駅前の下津井電鉄株式会社の本社前を過ぎ、しない南西部へと、バスは進んでいく。乗降車のないバス停は順次通過していく。道路は特に混んでいない。大福、内尾、そして興除へと、宇野線と並行しているような、そうでもないようなルートをたどり、一路児島へと向かう。途中の乗降はいくらかあるが、極度に遅れそうな様子はなく、ほぼ定刻で、バスは淡々と、南へ向かう。大通りよりもむしろ、上下1車線の細い道を、バスはゆっくりと進んでいく。
この一帯は、干拓地だ。道路に沿って住宅地があり、店舗も立ち並んでいる。この地域に住むの人たちの主たる交通機関は、自家用車だろう。
やがて、立ち客はほとんどいなくなった。かくして、ほぼすべての客に、移動をいささか楽にするための「ベンチ」があてがわれた。
高梁川はじめ周辺の川や用水路は、確かに増水している。だが、あふれ出すほどでもないようだ。ときどき、宇野線や本四備讃線と交わるが、このバスルートには、線路と真横で並行する区間は、まったくといっていいほどない。
内尾のあたりで、彼は携帯電話の時刻を確認した。
10時43分。
10時12分発のマリンライナーに乗れば、とっくに児島に到着している時間だ。だが、児島への道は、今日に限ってはまだ半分ほど。
新幹線を思わせる高架が、バスの窓に映る。本四備讃線だ。しかし、この高架上を、一昨日から今日に至るまで、列車は走っていない。おそらく、開業以来初のことではなかろうか。バスはその後も、淡々と、南へ、南へと向かう。時計を見ると、11時過ぎ。あと20分ほどで児島だ。
やがてバスは、本四備讃線の高架下に停車した。
その上は、JR本四備讃線(瀬戸大橋線)「上之町駅」。
列車が来なくなって3日目の駅前のバス停。
そこで、おそらくは岡山駅で乗車した女性客が1名、降りて行った。列車なら500円程度の区間が、バスだと900円。よほどバスでないと困る地域の人か、「バスマニア」でもない限り、ここまで岡山からやってくる(帰って来る)人は、まずいないだろう。
倉敷市立短大の横をすり抜け、やがてバスは、児島の市街地に入り込んだ。下之町のバス停では、何人かが降りる。
赤いスーツケースを転がしつつ、SUICAをタッチして、おそらくは遠方からの女性客が降りて行った。彼女は普段なら、児島駅まで来て、そこから市内循環のバスか 何かでこのあたりの目的地まで来るのだろう(あるいは、里帰り?)。
バスはしばらく、市街地の大通りを進み、乗降を繰り返しながら、児島駅へと向かう。
駅から少し離れたところで右折したバスは、市街地中心部をこまめに停車し、客を降ろす。小さな川を渡り、中心部の商業施設などの前をこまめに停車して、ようやく、JR児島駅前へ到着。
最後の最後で、運賃メーターが上がった。
バス運賃、〆て1010円也。
中年男は、ICカードをタッチし、バスを降りた。
児島駅の高架下をくぐると、散髪屋のおにいさんが、クルマで迎えに来てくれていた。
中年男は、我ながら薄汚くなった髪を刈り上げ、無精ひげもさっぱり剃り落してもらい、児島駅前から再び、バスに乗って岡山へと戻る。
児島から岡山行きのバスの本数は、休日は4本。
散髪を終えた彼が時刻表を確認すると、あと10分ほどで出発する便があるという。バス停にはすでに、おそらく岡山まで乗車すると思われる何人かが、並ぶともなくバスを待っていた。
ほどなく、岡山行きのバスが入ってきた。
中年男は、来た時と同じ運転席の後ろの一人席に陣取った。
帰りの道路も、市役所から岡山駅までの大通りを除いては、電車ではないから「電車道」というほどではないにしても、それほど混雑しておらず、ほぼ定刻の運転。
ただでさえ倍以上の運賃に4倍以上の時間がかかるバスではあるが、渋滞や無駄な赤信号に引っかからずに岡山まで戻れたことは、彼にとって、せめてもの救いであっただろう。
行きは天満屋から乗車した中年男だが、帰りは、岡山駅前の大商業施設・イオン岡山前のバス停で降車した。
バスを後ろから撮影し、彼は、イオンへと入っていった。
バス停の上には、幾分雲はあるものの青空が広がり、太陽の光も照り付けている。
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