第3話 大雨の金曜日
さて、かの日の話に戻ろう。
中年男は、朝10時前、自宅を出て、バス乗り場に向かった。岡山駅前に移動するためだ。しばらくの間駅前の大型スーパー・言わずと知れたあの「イオン岡山」の中に出店している喫茶店で時間をつぶし、その後、散髪に行くためだ。帰ってきたら、いつもの居酒屋で一杯飲む予定。
だがこの日は、いつもと勝手が違った。
岡山県内のJR路線はほぼ運転「見合わせ」。
児島まで行こうにも、茶屋町から先が「不通」だから、どうしようもない。
岡山駅の案内に電話しても、やはり、茶屋町から先が「不通」だという。
そこで彼は、バスで行こうとした。瀬戸大橋線こと本四備讃線が開業する前は、岡山と児島の間には、下津井電鉄バスが運行するバスしか公共交通機関がなかった。
30年前で750円ほどの運賃で、しかも、1時間以上かかっていた。
だが、こんな大雨の中、道路は大丈夫なのだろうか?
彼にはそんなことを考える余裕さえ、なかったのかもしれない。
瀬戸大橋開通後は、JRのマリンライナーで約20分少々、運賃は現在で片道500円。これでも30年前よりは、少し値上がりしている。ただし、途中の茶屋町で切符を切って買えば、片道約20円安くなる。金券ショップで岡山と茶屋町の間を買っておけば、それよりさらに20円は安くなる。
彼はいつも、そうして児島に行く。
彼はその喫茶店で、電話連絡をした。
散髪屋のK氏に電話をかけると、児島方面もかなりの雨だという。「髪を切れない」もどかしさか、ただでさえ大きい地声が、さらに幾分大きくなってしまったようだ。従業員の若い男性から、注意を受けてしまった。
結局、中年男は「児島行き」を断念した。
彼はその喫茶店を出て、地下通路をたどって、岡山駅前の地上に出た後、金券ショップであるギフトカードを買い込み、そのギフトカードが使える中華料理チェーン店で一杯飲み、バスで自宅へと帰った。
よせばいいのに、帰りには近くのインド料理店のカレーまで食べた。
これで「食いだめ」した彼は、雨の中、傘をさして自宅へと歩いた。
帰ってきたら、まず、水シャワーで汗を流す。先ほどのカレーは、激辛。彼は、辛いカレーが大好きだ。その汗を、水でさっと流す。水シャワーで汗を流したはずの彼だが、カレーのスパイスが効いているのか、体中がぽかぽかして、むしろ汗ばむほど。その「ぽかぽか」感は、夜になっても彼の身体をほてらせた。
とはいえ、水シャワーを浴びて当面の汗を流し、さっぱりした彼は、冷房をつけ、パソコンのメールをチェックした。ほどほどに用件を済ませ、彼はベッド上に横になって休んだ。目をつぶったり、あけたり、考え事をしてみたり、何も考えずに過ごしてみたり。それでも十分、肉体の疲れはいやせる。心の疲れも。
彼はこの後、水分補給でいくらか水を飲んだものの、何も食べず、ベッドの上にじっと、中肉中背の身体をひたすら横たえていた。
外は相変わらず、雨だ。
数十年に一度の、記録的豪雨だという。
ようやく、あたりが暗くなってきた。
だがなかなか、暗くならない。
彼は、相も変わらず、その身体をベッドに横たえていた。
特に電話も、かかってこない。
何の情報も、入ってこない。
アイデアも、浮かんでこない。
前回の散髪からわずか3週間。
短髪だからこそ、それだけの期間があれば、「伸びた」気になってしまうもの。
この日散髪していれば剃られているはずのひげは、さらに、伸びている。
そろそろ、無精ひげになる頃だ。
彼は散髪に行くまでの数日間、あえてひげを剃らずにいることがある。
今回はそんなつもりはなかったが、結果的に、散髪まで剃らないことになりそうだ。ただ、来週の火曜日以降にとなれば、仕事もあるので、そんなことを度々するわけにもいかない。
ようやく、夏至を過ぎて間もない時期ならではの長い「昼」が終わった。
夏の夜には違いないが、今夜、彼の身の回りで、色っぽい話が展開する兆候は、何一つとして見られない。
48歳にして独身、結婚歴もない上に女性から言い寄られたり言い寄ったりしたためしもない彼は、時々、18禁のサイトやその筋の店のサイトを見て、自らのやもめ暮らしを慰めることもあるようだ。だがこの日は、そんな心理的余裕もない。
時として、雨音が激しくなる。
だが、のべつ激しいわけでもない。
静かな、雨の日の夜。
思い立った彼は、パソコンの電源を入れ、テレビもつけた。
数十年に一度の、記録的豪雨である。
隣の広島県では、かなりの被害が出ている模様。
災害の少ないと言われる岡山県も、油断できない。
民放は相も変わらずいつもの番組の「垂れ流し」。
だが、NHKだけは、のべつ、災害情報を流している。
時々、この日執行されたオウム真理教関係の死刑囚の死刑執行のニュースが流れる。 この雨の中、「号外」も配られたようだ。
NHKのニュースの画面左と上のテロップには、近県の災害状況と、JRや高速道路の通行止め記事がこれでもかと流される。
彼は、メールとSNSのチェックをした。
すでにSNS上では、災害の話題で持ちきりである。
今日のオウム関係者7名の死刑執行と、数十年に一度ともいわれる、「集中豪雨」という言葉の範疇さえも、もはや超えてしまった、この度の大雨と、それに伴う洪水、土砂崩れ。
来年の「改元」は、すでに既定路線となっている。
ひとつの時代の終わりが、もうそこまで来ている。
そのことが、中年男の胸を、ますます重苦しくさせる。
この雨を思い、この雨に祈る。
中年男は、面識もある、某女性地方議員の書込みを見た。
思うところあって、何やら書き込みをした。
彼女から、こんな趣旨の言葉が入ったリツイートが書き込まれていた。
彼は、何かをひらめいた。
そう、彼には、文字を駆使して「書く」ことによって、人に何かを伝える力がある。別にそれは彼だけの特殊能力ではなく、およそ幼少時より読み書きを教わったものなら、誰もができる能力である。彼はその能力において、お世辞にも力のある方だとは思わない。だが、彼でしか書けない、また、彼ゆえに書ける「何か」が、確かに、ある。そこを突くしか、彼には生き残る道はない。
彼は、直ちにそのパソコンのワードを立ち上げ、何やら、書き始めた。
ある程度書けたところで、彼は再び横になり、寝ようとした。
電気も、消した。
しかしこの日、彼は、なかなか眠れなかった。
22時ごろ、電気を消して横になっている彼のアパートのベランダのドアが、揺れた。震度2程度の地震が起きたのかと、思った。
彼のアパートやその周辺に特に特筆すべき実害があったわけではない。しかし、それまでにない「何か」を、彼は感じた。
起きだしてしばらくテレビをつけて見るともなく見ていると、岡山県総社市で、アルミニウムの工場が爆発したのだとか。その爆風の影響は、そこから10キロ以上離れた倉敷市内や岡山市内でも見られたそうだ。
彼の自宅アパートにも、その爆風がいささか影響を与えたとみられる。
だが、彼がその「原因」に気づかされたのは、翌朝のことだった。
彼を眠らせなかったのは、謎の「爆風」だけではない。
携帯電話の災害情報が、夜中の3時あたりまで、数十分おきに入ってきては、騒がしい音を立てる。マナーモードにしても、電源を切っていても、決して、容赦ない。
それでも、彼の住んでいる場所に関係していたのは、かろうじて1件のみ。
彼自身が避難をはじめ何らかの「動き」を求められる情報は、何一つなかった。
確かにこれは、彼やその周辺に住む人たちにとって、決して悪い話ではない。
とはいえ、彼の機嫌が、それでよいはずもない。
鳴るたびに、彼は携帯をチェックした。
それまで彼は、部屋の電気を切り、横になって、ひたすら、眠るともなく眠らずともなく、短い夏の夜をやり過ごしていた。
外はのべつ、雨が降っていた。
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