走ル?

まっく

走ル?

 まるで僕の不安を煽るかのように、カラスが無言でこちらを見つめている。

 その雑居ビルめいた建物には、テナントも住人も入っていないようで、最早、人を寄せ付けない雰囲気まで醸し出している。

 おおよそ、まともな会社の面接会場とは思えない。それで高額アルバイトをうたっているのだからもう、どうか犯罪絡みの仕事ではありませんようにと祈るより他はない。

 それでも、そんな怪しさしかない場所に足を踏み入れざるを得ないのは、今の僕が、それだけ切羽詰まった状況に追い込まれているということだ。


 指定された四階へエレベーターで上がると、会場は意外にも清潔感があり、既に二十人程の人が、思い思いの席に座っている状況だった。なんか、免許更新の時の講習会場の雰囲気に似ているなと思った。


 予定時刻きっかりに、スーツ姿の三十歳前後の男が会場に入って来た。


「今から面接というか、説明会ですね。えー、説明会を始めたいと思います。席は前から詰めて下さい。移動お願いします」


 その男は、どこにでもいそうな平凡な青年と形容するのがピッタリのような見た目で、特徴が無さ過ぎて、逆にどこにもいないんじゃないかと思うくらいだ。明日街で会っても分からない自信がある。


「移動ありがとうございます。えー、まず皆さんが一番心配なさってるのは、犯罪に関わる仕事ではないのか。ということだと思いますが、安心して下さい。全くそんなことはありません」


 男は、そこで言葉を区切り、全員と目を合わすかのように、ゆっくりとこちらを見渡す。

 どこともなく「本当かよ」との呟きが聞こえる。


「まあ、言葉だけでは信用出来ないと思います。私もそうでしたし。知らず知らずのうちに犯罪の片棒を担いでるんじゃないかとか」


 男はそう言って、また一同を見渡す。


「ですから、日当や仕事内容を聞いてから、各々で判断して下さい。この説明会も、いつ退席して下さっても構いません。もちろん、今でも」


 この時点で、席を立つものは誰もいなかった。ここに足を踏み入れるということは、ある程度の覚悟を持って来たやつか、底抜けの馬鹿か、どちらかなのだろう。


「では、説明に移ります」


 男がそう言うと、別の男がホワイトボードを会場に運び入れた。



 説明を全て聞いて、その印象は聞く前よりも遥かに怪しさが増したと言える。

 しかし、犯罪に関わる仕事ではないようだとは思った。ただ、それで何故高額な日当が発生するのかは、全く分からない。


 日当は、最低二万円から最高五万円。

 仕事は社員とアルバイトが二人一組で行い、その社員が最後に、仕事に見合った日当を手渡しするらしい。

「歩合制ってことですか」との誰かの質問には、「そう思ってもらって構わないが、評価の内容についての質問には答えられない」とのことだった。いまいち要領を得ない。


 そして、その仕事内容がさらに異質だった。


 ペアになった社員と色々な場所に出掛け、社員が指定した人や物などの対象物の『走ル走ラナイ』をアルバイトが予測し答えるというもの。

 しかし、その『走ル走ラナイ』は、指定された対象物が、一般的に認識されている『走る』という状態になるかならないかではないという。


 言葉の意味はよく分からないが、適当に答えても、最低二万円はもらえるのだから、僕はもう既にやってみようという気になっていた。

 今日、この後からすぐに働けるらしく、初日は特別に一律五万が支払われるとのことなので、当然のごとく参加することにした。


 履歴書は社員を目指したいと思った時に提出すればよく、アルバイトの間は不要らしい。

 出勤日や時間も服装も自由で、好きな時にこのビルに来て、その時にいる社員とペアで仕事に向かうという緩さ。

 本当にこんなことでお金をもらえるのかは疑問だが、今日やってみて、お金がもらえなかったら二度と来なければいいだけの話。身元を明かす必要がないので、リスクはないだろう。それに一日くらい無駄にしたって、どうってことはない。



 説明会が終了し、しばらく席に座って待っているとスーツを着た、社員と思われる人間がぞろぞろと入ってくる。説明会に来たやつらは全員が残っている。みんな僕と同じように考えたのだろう。


 社員連中は、みんなどこか感情が分からない顔をしていた。

「今日はよろしくお願いします」という挨拶に、僕も「よろしくお願いします」と返す。名前を教えてくれることも、聞かれることもなく、その社員は無表情のまま「ついて来てください」と言って、会場の出入口に向かって歩き出した。


 エレベーターに乗り込み、一階に着いた時に、「どこへ行くんですか」と聞いてみたが、「ついて来てください」と、さっきと全く同じトーンで返される。

 その後、目的の場所に到着するまで、いくつか質問をしてみたが、「答えられません」の一辺倒。まるでゲームのモブキャラと話してるようだ。心の中でモブ太郎先輩と呼ぶことにした。


 二十分程度は歩いただろうか、少し人通りが多い交差点に到着する。そして、その交差点が見渡せる歩道橋の上に上がると、その真ん中の辺りに立ち止まった。

 目線をあちらこちらにやったかと思うと、突然モブ太郎先輩が一点を指差した。


「赤い服の女性。走ル?」


 僕は一瞬何が起きたのか分からなかった。

 たくさんの雑音の中で、やけにクリアな言葉が耳に入ってきたからだ。いや、脳に直接叩き込まれたと言ったほうが正しいのかもしれない。

 とにかく冷静になって、その赤い服の女性を観察してみる。

 その服装の雰囲気からは、仕事中だという感じはしない。靴は結構高めのハイヒール履いているし、信号待ちの人の群れの後方に位置しているので、いきなり走り出すとは思えない。


 僕は「走らないと思います」と答えた。


 モブ太郎先輩は、それを聞くと内ポケットから、小さな手帳のようなものを取り出して、それをこれ以上なく小さく開きながら、何かを書き込んで、またすぐに内ポケットにしまった。


 信号が青に変わる。結果、その赤い服の女性は走り出さなかった。僕は心の中で軽くガッツポーズをする。

 モブ太郎先輩のほうをチラリと見ると、その結果に全く関心を示している様子はなく、もう次の対象物を物色しているようだった。

 そう言えば、説明会の時に「一般的に認識されている『走る』という状態になるかならないかではない」と言っていた。


 僕は思わず「今のはどっちだったんですか」と聞く。

 モブ太郎先輩は、こちらも見ずに「答えられません」と答える。

 そういえば、評価の内容は答えられない質問だったと思い出す。


「白いTシャツの男性。走ル?」


 モブ太郎先輩は、今、歩道橋の下を通過して行った男を指を差して、僕の脳に言葉を叩き込む。


 今度は「走ります」と答えた。

 特に理由はないが、たぶん考えても分からない。


「青い帽子の少年。走ル?」


「走ります」


「黄色いタクシー。走ル?」


「走りません」


「緑のトラック。走ル?」


「走ります」


「紫の髪のお婆さん。走ル?」


「走ります」


 どれくらいこんな不毛なやり取りが続いただろうか。長かったようにも短かったようにも感じる。

 突然、何の前触れもなくモブ太郎先輩が「今日はこれで終了です」と言い、手帳を入れているのとは逆の内ポケットから封筒を取り出して、僕に差し出した。

 モブ太郎先輩は「お疲れ様でした」と一礼し、僕が中身を確認するのを待たずに、足早に歩道橋を下りて、雑踏の中へと消えて行った。

 封筒には、きっちり五万円が入っていた。


 久し振りに一人焼肉を堪能して帰宅する。軽くシャワーを浴びて、ベッドに潜る。

 目を閉じると、モブ太郎先輩の『走ル?』の声がぐるぐると頭を廻る。

 とにかく特徴的な言い方で、うまく伝わるか分からないが、「走る」の『る』の部分が、カタカナのような感じというのだろうか。実際に聞いてもらえたら、この説明がしっくりくるはずだ。

 何度自分で発音してみても、モブ太郎先輩のようには言えなかった。


 それからも毎日休むことなく出勤を続けた。

『走ル走ラナイ』の対象物は、動く物だけではない。自然物や看板、家電製品、テレビ番組やスポーツの試合、概念や観念なども対象物になった。もちろん、言葉も。


 一度「走る」という言葉が『走ル走ラナイ』の対象物になった。


 僕は「走りません」と答えた。



 履歴書を提出してから、どれくらい経っただろうか。三か月くらいのような気もするし、何年も経ったようにも感じる。


 晴れて社員になれた僕も、この頃には他の社員と同じように無表情がすっかり定着していた。


 もちろん、あの言葉だって。




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