KAC20212 走る

第二話 相棒は手首の上に棲んでいる

 ゴールまでの数メートル。

 ちらりと見た左手首、最高のラップタイムが表示されている。

 ラストスパート中のラストスパート!

 結果、過去最高の記録を生み出した。


 いやあ、もうただ走るってだけじゃなく、距離や速度にこだわれるようになったとは、俺も成長した。


 弾む荒い息を整えるため、ゆっくりと周回コースを歩きながら、アームバンドのスマホで、高低差や1キロメートルのラップタイムを確認する。

 血糖値の改善を目的に、食事制限や運動によって体重減少を果たしていた頃は、最初に確認する数値は消費カロリーだった。

 今は違う。

 心肺機能や総距離、速度など、気分はいっぱしのランナーだ。


 それにしても、やっぱり外で思いっきり走るのは爽快だ。

 平日の夜はアパートに籠ってトランポリン三昧だが、休日の陽光の下でのランは、生きてる実感が段違いだ。

 ジムのランニングマシンも悪くないんだが、あれはどうもハムスターっぽさがぬぐえないからな。

 

 しかし、このランニングコースはいいな。

 総合公園の奥、トレイルランを想定してあるのか、アップダウンの量も種類も豊富で、何より、フィトンチッドだっけ? 木々がもたらす精気とでもいうか、魔法で言うならマナが豊富というか、心身共に癒されるのだ。

 スマホの検索結果で一番上にあるだけのことはある。

 

 なんでこんないいコースなのに他に人がいないんだろうな。

 そんな疑問をわずかに抱きながら、俺は別のランニングコースを選択し経験値を積み増ししたのだった。



「先輩、なんか大丈夫ッスか? 痩せてるってより、やつれてる感じなんスけど」


 隣の席から、ふくよかな高橋が恐々と問いかけてくる。


「過去最高に快調なんだが」


「……今、体重何キロくらいなんスか?」


「60キロだな」


「……この前まで75って言ってたッスよね?」


「ああ、そんなこともあったな」過去の俺を思い出させるんじゃない。


「……病気なんスよね?」


「もう病気じゃねーよ! お、異常心拍だ、ふ、俺を熱くさせんなよ」


 俺は深呼吸をしながら、先日から導入したスマホのライフコントロールアプリを見る。

 アバターから新着の案内があるのでタップすると、おすすめの新規メニューとメッセージが表示されていた。


『毎日お疲れ様です。継続して運動ができていてすばらしいです。次は基礎代謝の向上につながる筋肉量を増やしませんか? 合わせて骨密度なども上げて頑強な肉体を作り上げましょう!』


 おお、それはナイスな提案だ。

 実を言うと急激なダイエットで体重は落ちたが、脂肪と共に筋肉もごっそり落ちてしまい、貧弱な坊や状態が気になっていたのだ。


 さっそく、細マッチョイケイケコースってやつを選ぶ。

 そこには、食事のサンプルメニューや必須活動がずらりと並んでいた。

 なるほど、これを一つ一つクリアしていくわけだな? 食事はさすがに入力方式だが、トレーニング自体はスマートウォッチの活動ログが勝手に登録されるみたいだ。


 何も考えず、指示通りに動くだけで結果につながるんだ。

 努力は必ず報われる、なんて信じた事なかったけど、適切な指示と徹底した行動をしてなかっただけなんだ。

 俺はスマホとアプリとスマートウォッチの恩恵を一番理解している一人なのかも知れない。


 ものすごい多幸感が俺を支配していた。



「う~ん。食後血糖値も100を切って、血圧も、他の問題も何も無いんですが……医者としては、ほどほどにとしか言えませんね……あのね、何事もほどほどが一番なんですよ?」


「問題ないです先生! 俺は自分では何もできなかった意志の弱いヤツでしたが、俺を見守って叱って、励ましてくれるこいつのおかげで……」


「……ただのスマートウォッチですけどね……。ま、これで投薬もお終いでいいでしょう。でもいいですか? 少しでも異変を感じたら、すぐに来てくださいね」


 俺の主治医は心配性だなぁ。

 でも、長い付き合いである彼のアドバイスはもう必要ない。

 俺はもう。長らく通ったこの病院には来ないだろう。

 そう、他責にしていたことが本当に恥ずかしい。肥満も病気も全部俺の甘えだった。もっと早くコイツの声を聞いていさえすれば、俺は遠回りをせずに済んだのに。



 ベンチプレスを終え、今日のメニューが全て終了した。

 部屋の中を見渡すと、様々なトレーニングマシンで埋め尽くされているが、その光景は俺をどこまでも高みに登らせてくれる夢の世界に思える。

 そのままプロテイン飲料を飲み、多機能体重計に乗り、各種データをスマホに打ち込んでからシャワーを浴びる。


 シャワーを終えて浴室を出ると、スマートウォッチが震え、通知を知らせる。

 ライフコントロールアプリからの本日の成績だ。38点とある。

 俺はその数字を一瞥し、このところずっと下がり続けている数字が、俺にとってまるであてにならない数字だと笑った。

 まったく、これが機械の限界ってやつかな?

 お前は善し悪しなんて評価すんな。

 ただ目的のために俺をモニターしタイミングを指示してくれさえすればいい。

 

 俺はスマホからライフコントロールアプリを消去した。


 俺には俺の行動を見守るこいつだけいればいい。

 そう思いながら猛烈な眠気がやってきて、意識が途切れるまで、スマートウォッチを優しくなでる。



〝外に出かけませんか〟


 そんな文字がウォッチのディスプレイに浮かんでいた。

 気付けば昼を大幅に過ぎた午後の時間だ。

 昨夜からずっと寝ていたのだろうか……。

 寝落ちしたトレーニングマットから身を起こしディスプレイの表示をもう一度見る。

 俺が動かないもんだから、家の中でじっとしてるって思ったのか?

 こんな聞き方をしてくるんだから候補はあるんだろうな?


「どこに行けばいい?」ウォッチのサイドボタンを押してアシスタントに声をかける。


『栄養のある食事を摂った後、総合公園のランニングコースで散歩をお勧めします』


 抑揚の少ない電子音はそんな長文を話してくる。

 それにしてもやけに具体的な提案だな。


 意識すると猛烈な空腹を覚えるが、アパートの自室には、サプリメントや粉末状の高タンパク食品しか無いことに気付く。

 長い夢でも見ていたような非現実感を抱えながら、身支度を整えアパートを出る。


 車での移動途中、コンビニでおにぎりとお茶を買い、空腹を満たす。

 最後にまともに食事をしたのがいつか思い出せないくらい、久しぶりに食事をした気がする。


 訪れた総合公園のランニングコースは、今日も誰もいない。貸切状態だ。


 周回コースをゆっくりと歩きながら、以前走った時には気付かなかった匂いや木漏れ日の眩しさを堪能する。

 

 思えば、前回ここで走った時、確かに俺には意志があった。

 その後、ライフコントロールアプリを活用していた時は、ただアプリの指示に従っているだけだった。

 それをずっと見ていたコイツは、俺のカラダから送られるデータをどんな思いで見ていたんだろうな。


 俺は可笑しくなって苦笑する。

 どんな思いもへったくれもない。

 コイツに意志なんてない。

 すべてはパターンをプログラムされているだけだ。


 それでも、何かに気付かせてくれたコイツに感謝を伝えたい。


 ウォッチのサイドボタンを押して、アシスタントを呼び出し「ありがとうな」と声をかける。

 瞬間電源が落ち、ディスプレイに骸骨のような顔が浮かんだ。


 それが俺の今の顔と気付き、コイツが充電切れのタイミングでそれを教えてくれたんだと思った。

 バカバカしい妄想だ。

 でも、コイツに意志があろうとなかろうと、俺は確かにコイツに命を救われた気がしていたんだ。

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