御嶽

@hg_galapagos

第1話

 追いかけているアイドルのツアーが中止になった。

 このご時世、軒並み中止になっていくコンサートやイベントの情報を見て戦々恐々としていたけれど、やっぱりダメだった。お知らせのメールを見て、電車の中でグニャリと体の力が抜けていくのを感じる。つり革にぶら下がる左手と、混んでいて密接している隣の人に体重がかかるまま、ガタゴトと揺られる。ごめんね、隣の人。私もう自重を自分で支えられそうにないんだわ。

 あーあ。今日までこれのために生きてたのに。無駄に多い大学のレポートやら課題やらに追われながら、バイトを詰めに詰めてアイドルに捧げるお金と少しの生活費を稼ぐ日々。

 そりゃあ、学費も家賃も自分で賄ってるような子に比べれば、遊ぶ金欲しさに働いているように見えるかもしれないけれど、親の金で遊んでる訳ではないからそこは許してほしい。

 お知らせのメールの続きを眺める。ツアーは中止。グッズの販売は通販で。一公演だけ無観客の配信ライブを無料で敢行。金を取ってくれよー採算取れるの?グッズ買い込みたいけどCD以外の要らないものを積みたくないんだよなぁ。今回のツアーかなりチケット取れて遠征しまくろうと思ってたのに。北海道行きの飛行機のチケットキャンセルできるかなぁ。ホテルもキャンセルしなきゃ。

 浮くお金を頭の中でぼんやりと計算してたら、ポタリと無意識にスマホの画面に涙が落ちた。しまった。電車の中で泣き出す人になってしまった。不審者だ。慌ててスマホをポケットにしまって目元を抑える。

 会えない。会えない、んだな。今年、私の大好きなアイドル、真人まさとくんに会えないんだ。自分が思ったよりショックを受けていることに気が付いた。涙はボトボト止まらなくて、せめてアイラインは残りますようにと願いながらハンカチで押さえる。

 真人くんに会えないということは、これから次のコンサートまで真人くんに会えないまま生きていかなければいけないということだ。それは笑われるようなことかもしれないけれど、私にとっては途方もないことだった。

 頭は働かなくても家には帰れるようで、気が付いたら真っ暗なままの自宅のベッドに突っ伏していた。そして化粧が落ちるのも厭わず、ボロボロと泣いた。ポケットから取り出したスマホがぼぉっと光って、待受の真人くんの笑顔が見える。ああ、好き。会いたい。あのコンサートという空間で、あなたに会いたかった。心の芯が抜け落ちてしまったような喪失感。

 泣くだけ泣いたら、泣いてばかりもいられないので、とりあえず拭くだけコットンで涙でベシャベシャになった化粧を落とす。それから交通機関とホテルのキャンセルだ。幸い新幹線のチケットは取っていなかったからよし、ホテルの予約も今の時期なら余裕だ。宿泊予約サイトからキャンセル連絡をする。問題は飛行機だ。

 予約した航空会社のサイトにアクセスして自分のIDでログイン。キャンセル料の確認をする。見たところ、今の時期だと振り込んだ全額持っていかれるようだ。終わった。往復の安くない遠征費が持っていかれる。辛すぎる。

 諦めの気持ちで落ち込んでいるところに、「キャンセルをお考えのお客様へ」の案内の文字が飛び込んでくる。私のことか。とりあえずタップ。するとそこには、「航空券振替のご案内」とある。内容を読むと要するに、このご時世なので旅行の予定を延ばしたり、行き先を変える人のために飛行機の便の振り替えを行ってくれるらしい。元々予約していた便の距離に応じて、別の行き先も選べるそうだ。

 元々捨てるはずだったチケットだし。遠征費も浮くし、公演のチケット代も返金されるし。この機会だからどこか行ってみるか。正直埋まらない心の傷を埋めるためにどこかへ行きたい。どこか遠い、行ったことのないところへ。

 そう思いチケットの振り替え可能な行き先を調べてみる。北海道は遠征で何度も行っているから、別のところがいいな。段々風も冷たくなってきたし暖かいところ、南がいい。そう思ってスクロールの下の方に行けば、沖縄の離島、宮古空港が目に入る。

 宮古島。沖縄には修学旅行で行ったけれど、離島には行ったことがない。沖縄の離島の中では石垣島よりメジャー度が少し下がるイメージだから、そんなに人も多くなさそうだけど、都会の喧騒からは離れられそう。

 そういえば昔テレビ番組で民泊をやったり、食べるラー油を作って流行ったりしてたっけ。幼心に行ってみたいとは思ったんだ。

 ここだ。ここにしよう。元々休みを取っていたコンサートの日程に合わせて飛行機の便を振り替えようか。と、その前に。予約サイトでホテルの値段を見てみよう。お、思ったより安い。試しに予約金額を見てみると、ここから更に割引もきくらしい。普段の遠征では泊まらないようなリゾートって感じのホテルでも、思ったより手の届く値段で泊まれる。いいじゃん、宮古島。

 落ち込みまくっていたさっきとは打って変わって、気分がふわりと浮く。この感じ。アイドルの現場以外でこんな心地になるのは久しぶりだ。

 こうして、私の宮古島旅行が決まったのだった。

 

 暑い。宮古空港に降り立った私の最初の感想はそれだった。10月も半ばだというのにこの暑さはなんだ。暖かいなんてレベルじゃない。空調の効いていた機内や室内はまだしも、一歩外に出たら残暑なんて感じじゃない暑さだった。急いで東京で着てきたブルゾンを脱ぐ。インナーも長袖なのでまだ対応しきれていない感じだけれど。

 脱いだブルゾンを腰に巻いてキャリーバッグをガラガラ引きながら、空港前に止まってるタクシーに声をかける。この島は暑い。一刻も早く宿に辿り着いて荷物を解いて半袖のTシャツかワンピースを着たい。タイトなジーパンを履いている場合ではなかった。パンプスと靴下も脱ぎ捨てよう。持ってきたサンダルにさっさと履き替えたい。その一心でタクシーに乗り込んで行き先を告げた。

 

 数十分とかからず目的地に着き、お金を払ってタクシーを降りる。

 結局宿はホテルではなくゲストハウスにした。

 今見える外装も白塗りにネイビーが入ったまとまりのある新しめな印象を受けるし、思った以上に綺麗だ。サイトでは内装がポップで可愛くて、共有スペースがあるのが魅力だと書いてあった。

 もう会う人会う人に真人くんの話がしたい。知らない地で出会う、知らない人にどんな印象を持たれてもいいでしょという適当な価値観で生きている。なので旅の恥はかき捨て。今回はSNSで繋がっているフォロワーと一緒だったりもしないからもっとそう。何も気にせず、フラットな気持ちになってこの二泊三日を過ごすのだ。

 管理人さんに通されて、自分の個室に辿り着く。ポップな共有スペースとは対照的に、白い壁とネイビーの布団の色が基調になった、落ち着いた部屋。管理人さんから鍵を受け取り礼を言って、ドアを閉めたら早速キャリーバックを開いて着替えを始める。これ帰りまでに服足りるだろうか。共有スペースに確か洗濯機あったよね。借りれるか聞いてみよう。

 Tシャツにショートパンツ。そしてサンダル。さっきよりも気候に即した軽装になったので、心が軽い。もう日も落ちる時間だけど、夕日が綺麗だと有名なビーチが近くにあるので、覗きに行ってみよう。

 管理人さん(チエさんというらしい)に話をしてみると、「貸出用の自転車があるからそれでいくといいわよ。歩いて行ったら日が暮れちゃう!」と言われた。裏手に回ると確かに何台かの綺麗なママチャリが並んでいた。これはありがたい。お借りした鍵でロックを外して、財布の入ったサコッシュをカゴに突っ込んで、スマホの道案内を頼りに海へと走り出す。

 ビーチまでは自転車で10分もかからないらしい。道もそんなに難しくないし、車通りも多くない。そんな中をキイキイと自転車に乗りながら進んでいく。道を抜け、畑を抜けると、パッと見は港のような広い駐車場に着いた。遠くの方には島と長い橋が見える。あの橋、自転車で渡れるかなーなんて思いながら駐車場からビーチに出ると、圧倒された。

 傾いて辺りを橙に染める太陽に照らされた、真っ白な砂浜。白い細波の間に見える透明度の高い海の中で融け合う青と橙。それは、人生の中で今まで見た夕日の中で一番綺麗だった。

 サクサクと砂浜の中を歩みを進めると、足元の砂が本当に真っ白なことに気付く。九十九里浜や湘南の海も嫌いじゃないけど、こんな砂の色はしていなかった。沖縄本島はどうだったっけ。海の記憶はあるけど、砂がこんなに綺麗だと思ったのは初めてかもしれない。

 沈みゆく太陽のあまりの綺麗さに、気付いたらスマホのカメラを起動していた。パシャリ。シャッター音が鳴って手元に画像が残る。加工しなくてもこのままインスタに載せられるな。ビーチの奥に開かれた白いパラソルまで夕日に染まっているのがまた映える。あとで投稿しよう。友達に自慢する用に、何枚か夕日をバックにした自撮りも撮る。うん、映えてるし盛れてる。マジックアワーは偉大だ。

 スマホをサコッシュにしまって、サンダルを脱いでみた。直に触れる砂はサラサラとしいていて気持ちがいい。そのままパシャパシャと波に触れる。ほんの少し冷たい。ふくらはぎまで浸かっても海水が透明だから爪先まで透けて見える。

 港の方からは、Tシャツ姿で海に飛び込んで遊ぶ中学生のはしゃぎ声が聞こえてくる。ほのかに涼しい風が通り抜けていくけれど、ここには永遠に終わらない夏があるような気がした。

 夕日と海を満喫して、足を乾かしながらビーチを少し散歩して、日が沈む前に帰ろうとビーチを後にする。自転車で来た道を戻っていくと、途中に森というか、茂みというか、街中に不自然に木々が残されたところに入り口があるのを見つけた。

 なんだろう、これ。不思議と気持ちが惹かれて、自転車を止める。どこへ繋がっているんだろう。普段ならこんなところに入っていくなんて絶対しないけれど、虫除けもしてるし、なんかよくわからないけれど、気になる。旅行に来て開放的になった気分がそうさせるのかもしれない。なんだかトトロみたいだ。私は緑のアーチをくぐろうとした。

「ちょっと、何してるのー」

 間延びした大声が後ろから飛んできて、ビクリと肩を震わせて振り返る。見れば、路肩に停めた車から、近所のおばあさんだと思われる人が、車を降りてこちらへ歩いてくる。

「あ、えっと、ここ何かなーと思って覗いてみたくて」

 こう言ってみるとなんだか子どもの言い訳みたいだ。

「ここは神様の場所だから余所の人は入ったらダメさぁ」

「そうなんですか……すみません」

 怒られたみたいでバツが悪い。っていうかやんわりとだけど怒られてるなこれ。

「あんたナイチャーでしょ。観光の人?」

「そうです。今日来ました」

 ナイチャーってなんだ。よくわからないけど頷いておく。

「そう。気になったんなら、神様に呼ばれたのかもしれないねぇ」

 日が暮れるから、気を付けて帰りなさいね。そう言ってその人は車に乗って去っていた。

 なんだったんだ……。走りゆく車を見送ってから自転車に跨った。もう一度だけ振り返ると、やっぱり茂みの入り口は夕闇の中、私を誘うように佇んでいた。

 

 ゲストハウスでは夕飯のためにみんなが集まっていた。買い出しに行ってくれたグループに頭割りした金額を払い、私もその夕食に参加する。沖縄ではこういう感じを「ゆんたく」というらしい。よくわからないけど、楽しく食べたり飲んだりしながら話すのはいい文化だと思う。テーブルの上には管理人のチエさんが炊いたテビチを中心にスーパーで買ったらしいパックのお寿司や惣菜が並んでいる。紙皿と割り箸とビールの缶を受け取って、みんなで乾杯して食べ始めた。

 今日の宿泊客は3グループで、連泊しているダイビングが好きなおじさんと、私と同じ日程で泊まりに来ている3人組のお兄さん達、そして一人旅の私だ。チエさんによるとピークの時はこの倍は人が集まるらしいのでもっと賑やかなのだという。

 あれこれ食事をつつきながらビールを煽り、好き勝手真人くんのことを喋り散らす。男性陣はそんな私をにこやかに受け入れてくれて、特にダイビングのおじさんなんかは「姪っ子もそのアイドル好きだって言ってたなぁ」なんて言いながら、私の言葉にうんうんと相槌を打ってくれた。

 食事もひと段落して、チエさんのお茶を待ちながらみんなで共有スペースに残りワイワイとしているときに、ふとビーチからの帰り際のことを思い出して話題に出す。

「そういえば今日前浜からの帰りに、畑の脇に不思議な茂みを見つけたんですよ」

「茂み?」

「そう。なんか、小さな森というか、林というか、そこだけ不自然に木が茂ってて」

「あー、車で走っててもたまに見かけるね」

「えっ何それ俺知らない」

「お前はくっちゃべってばっかで外見てねぇだけだろ」

 何気にみんな話を聞いてくれる。相槌を打ってくれるダイビングおじさんに、自由に話すパリピお兄さん達。普段の生活では絶対に相容れないタイプの人間ばかりだけど、こういう交流は嫌いではない。

「そこに、なんかトトロに出てくるようなこう、緑のアーチの入り口があったんで入ってみようとしたんですよ」

「マジ⁉︎見た目によらず無茶するね」

「いや、実際には入る前に通りがかった地元の人に止められちゃって。なんか、神様の場所だから入っちゃダメなんだって」

「ああ、それは御嶽ね」

 お盆に人数分のコップとお茶の入った水差しを持って来てくれたチエさんが応えてくれた。

「ウタキ……って何ですか」

「簡単にいえば、地元の人の祈祷所みたいなものよ。基本的に男の人と余所の人は入っちゃいけないとこね」

「ああ、聞いたことある。この島の中に900箇所くらいあるんでしたっけ」

 チエさんが配ってくれたお茶に口を付けながら、ダイビングおじさんの受け答えを聞く。こんな狭い島に900も。そりゃああちこちにあるわけだ。

「でもよかったわね、止めてもらえて。知らずに入って行ったなら祟られてたかも」

「うーん、言い訳じゃないですけど、なんかこう、呼ばれた感じがしたっていうか……オカルトな話ですけどね」

 あはは、と笑いながらそんなことをいえば、チエさんは真剣に返した。

「呼ばれたならなおさらよ。神様のところへ連れてかれちゃってたかも」

「えー怖っ」

「私なんかが子どもの頃はよくオバアから言われたのよ。宮古に残ってる茂みとか御嶽とかは神様の場所だから、勝手に入ったら神様に怒られるって」

「宮古の人は今でも結構そういうの大切にするからね。観光しにくる以上はそういう地元の人が大切にしてるものを尊重しなきゃだよね」

 ダイビングおじさんが穏やかな笑顔で話を丸めてくれた。なんか、思ったよりまずいことをしようとしていたのかも。あの時止めてくれる人がいてよかったな。

「あなたが興味あるなら、観光客も行ける御嶽があるんだけど、行ってみる?」

「行きたいです!」

 考えるより先に口から言葉が出ていた。いや、別にスピリチュアルスポットとか神社とかそこまで好きな方でもないんだけど。でもなぜか、行きたいと思った。チエさんはニッコリ笑っていた。

「じゃあ明日車出してあげるから、一緒に行きましょ」

「よろしくお願いします」

 私達のそのやりとりを見届けて、話題は次のものへと移り変わっていった。みんなこの島が好きで、今日見た発見や体験、それ以外の日常のこと、とにかく話題は尽きないまま、夜は更けていった。

 

 日付が変わるまでずっと話し込んでしまったので、翌日は昼まで目が覚めなかった。ようやく起き出して身支度をしてから共有スペースに顔を覗かせると、チエさんが「おはよう!よく寝れた?」とハツラツと掃除をしながら迎えてくれた。聞くところによると、みんなはもうそれぞれ観光やダイビングに出かけていったようだ。みんな元気だな。

 支度ができたことを伝えると、早速御嶽へ連れていってもらえることになった。市街地の方へ向けて車で十五分程。大きな港の近くにその御嶽はあった。

 大通りの裏手、大きな木を背景に、小さな社があった。駐車場があるわけでもないので、近くに車を寄せて停める。石垣に囲まれていて、神社とは違う、なんだか不思議な赤瓦の社だった。

「ここは宮古を創った神様が祀られている御嶽で、観光客でも男の人でも誰でも来ていいの。あなたもきっと旅の安全を守ってもらえるわ」

 運転席から降りてきたチエさんは少し嬉しそうにそう話す。多分、御嶽とか神様のこととか、そういう信仰をきちんと持っている人なんだろうな、チエさんは。改めてそう思った。

「今更なんですけど、参拝の仕方?とか何かありますか?」

「そうね、神社と違って手を叩かないとかかしら。ただ手を合わせて、祈るの。」

 祈る時には、神様に自分の名前と干支を教えてあげるといいわよ。そう言うとチエさんは先立って社へ向かっていく。名前と干支か。神様は干支で人間を認識しているのかと思うと、なんだか面白いな。

 社の前には賽銭箱が置いてあるだけで、社の中は空っぽだった。御神体があるとか、そういうのではないみたいだ。お賽銭を入れて手を合わせるチエさんに倣って、私も十円玉をお賽銭箱にいれて、手を合わせて祈った。

 自分の名前。干支。それから願い事。私の願いはなんだろう。この旅が無事であるように。あと、真人くんが今日も明日も健康で元気にお仕事している姿が見れますように。それくらいかなぁ。そんなことを目を閉じて祈った。

 こんなふうに、何かに祈ったのはいつぶりだろうか。ふと、そんなことを考える。苦しい時の神頼みじゃないけれど、苦しい時に何かに縋りたくなると、私はスマホの待受にしている真人くんの顔を見たり、目を閉じて真人くんの顔を思い浮かべたりしていた。そうするとスッと心が柔らかくなって、もう少しだけ踏ん張る気持ちになれるのだ。それに近い穏やかさを、今手を合わせながら感じている。

 この心の穏やかな感じ、これはコンサートでソロのバラードを聞く時の思いに近いかもしれない。脳裏に広がるのはペンライトの真っ青な海。ひとつひとつの光にいろんな思いの込められたひとつの色のたくさんの光は、音楽に合わせて小さく揺れたり、大きく揺れたり、もしくは微動だにもしなかったり。それらが大きなうねりになって、アイドルの周りを包んでいる。温かな愛を歌い上げる真人くんを目の前に、私は手にしたうちわもペンライトも振れないまま、胸の前にギュッと握り締めた手を置く。ただ、つうと頬を涙が流れ落ちていく。心が、震える瞬間だ。

「今日の真人くんのパフォーマンスは神だった」なんて仲間内でよく言ったりしていたけれど、私の中でのアイドルはまさしくかみさまだったのだ。

 ぱちりと目を開くと、目の前には空っぽの社があるだけだった。ふわりと風が抜けていく。静かに身体の奥底にある何かを擽るような風が、ざわざわとガジュマルの木をさざめかせる。

 なんか今、悟りを開いた気がする。物凄い共感と理解が一気に頭を流れていった。私の知っていることや経験が、世界の真理と繋がった、みたいな。そんな感じだった。なんだったんだろうか、今のは。

 隣を見れば、今しがた祈りを終えたらしいチエさんがちらりとこちらを見た。にこりと笑うと社に一礼して「行きましょ」と小声で促す。私も合わせた手を離して一礼してからチエさんについていく。

 敷地を出てからくるりと社を振り返りながらチエさんが口を開く。

「どうだった?宮古の神様は」

「なんと言ったらいいか……」

 私は少し口籠った。今感じたことをうまく言葉にできる気がしなかったからだ。ともすれば、チエさんには失礼に感じるかもしれない。アイドルというただの人間を、自分はかみさまだと思っていたことに気付いた、だなんて。

 ひとり、またひとりと訪れる、地元の人らしい参拝客を眺めながら、私はゆっくりと口を開いた。

「なんていうか。宗教とか、神様とか、祈るとか、そういうのってもっと自分から縁遠いものだと思ってました。でも今日ここに来て、私もずっと祈ってきたんだって、気付きました」

「そう。そうね。きっと人生の中で、一度も何にも祈らない人なんて、いないと思うわ」   そう言いながら御嶽を眺めるチエさんは、とても大切な物を抱いているように見えた。

 この人達の祈りの根本はなんなのだろう。

 恐らく近所に住んでいるんだろう女性が、サンダルを脱いでから御嶽に入っていき、手を合わせて祈る姿を眺めながら考える。私はステージという場所で、たった一人スポットライトを浴びて立つ人間に祈っていた。この拝む対象が何もない場所で、彼女達は、私達は、何に祈っているんだろう。私は純粋に知りたいと思った。

 そう思った時にふと浮かんだのは、昨日入ろうとして怒られた、あの茂みの中の御嶽だった。人々の祈りの根源は、あそこにあるんじゃないだろうか。あそこへ行けば、祈りとは何かがもっとわかるんじゃないだろうか。

 こんなことを探求しに来たわけではない。別に民俗学専攻な訳でもないし、元々そういうものについて探究心が旺盛なわけでもない。でもどうしてか、知りたい、行きたいという気持ちが止められなかった。

「チエさん」

 車に乗り込んで出発する前にチエさんに声をかける。

「ここじゃなくて、できればどこかの地元の御嶽に入らせてもらうことって、できないでしょうか」

 真剣な顔をしてそういえば、チエさんはキョトンとした顔で私を見る。

「すごく神聖な場所で、そこに入らせて欲しいって、ものすごく無神経なお願いだってことはわかってます。でも、どうしても行かせて欲しいんです」

 言いたいことがうまく言葉に纏まらない。私の気持ちの中では、最早「行きたい」ではなく「行かなければならない」になっていた。でもこの気持ちがどこから来るのかはわからない。自分でも分からないから、うまく説明することもできない。こんな気持ちは初めてだった。

 言い淀む私をしばらく見てから、チエさんは携帯を取り出した。

「もしもし、うんチエよぉ。久しぶり。元気にしてる?」

 電話口でチエさんは、「御嶽に行きたいって子がいるんだけど」と誰かに説明しているようだった。「うん、女の子。うんそう」と肯きながら話すチエさんを、まだ思考が追いつかない頭で見つめていた。

 しばらくして「ありがとう、じゃあ今から来るからね」と電話を切ったチエさんは私に向き直して言う。晴れやかな笑顔だ。

「今地元のユタのオバアに連絡したんだけど、女の子なら一緒に入れるっていうから、今からその人のところに一緒に行きましょ」

 

 チエさんの地元は城辺ぐすくべという、宮古の島の中央の方、まだ畑の多い田舎の方らしい。そこの地元で御嶽での礼拝を取り仕切っている、いわゆる霊能者のおばあさんがいるそうで、これからその人のところに行くらしい。

 私の要領の得ないお願いを聞いてくれたチエさんにお礼を言うと、

「いいのよぉ。それにね、御嶽で神様に祈ってやりなさいと言われたことは、やった方がいいのよ」

 と、あっけらかんと笑って見せてくれた。

 目的地までは車で二十分と少しくらいで着いた。太い道路から一本入ったガタガタの畑道の中、ポツリとある民家。車を降りてそのおばあさんを訪ねる。

「オバア、来たよー」

 ガラガラと引き戸の玄関を開けてチエさんが声をかける。すると、待っていたというように玄関からおばあさんが出てきた。

「アンタね、御嶽に行きたいんは」

 チエさんの後ろにいた私を真っ直ぐ射抜くような目で見て、その人は言う。はい、と返事をすると、おばあさんは納得したというように一人ウンウン頷いて、それから歩き出した。

 御嶽は家から五分と歩かない所にあって、サトウキビ畑しかないところに突然茂みが現れて、私でもここだとわかった。踏み分けられた茂みの中を入っていくと、小さく空間が広がっていて、三人だと入るのがやっとだった。

 何もない、ただ茂みの中に線香を立てる小さな容れ物があるだけ。でもそこには声を立てるのも憚られるような、神聖な雰囲気があった。

 おばあさんが線香を上げてしゃがみ込み、手を合わせるのに倣って、私とチエさんも地に膝をつけて手を合わせ、目を閉じる。おばあさんが不思議な呪文のような言葉を唱え始めると、閉じている目の内がぼんやりと明るく照らされるような心地がした。

 今、これを神様は見ている。なぜかそんな気がした。例えるなら、コンサート中にアイドルと目が合ったような感覚。多くの人は、気のせいだとか、思い込みだとかいって私達を笑う。けれど、その瞬間アイドルの視界の中に私がいたのは紛れもない事実だし、目と目が会った瞬間の、お互いの存在を認識したという確かな確認は、体験したものにしか分からない。

 その瞬間、私は生まれて初めて「神様」という存在が確かに存在するのだと、実感した。

 時間にして五分位だろうか。祈りを終えたおばあさんは行くよと私達を促して最後に御嶽を出た。いつの間にか泣いていた私の背中をポンポンと叩きながら、みんなでおばあさんの家までの道を帰っていった。

 私とチエさんはおばあさんに家へと招かれて、少し「ゆんたく」していくことにした。出されたお茶を飲みながらやっと涙が止まって、ふうと一息つく。それを待っていたかのようにおばあさんが口を開いた。

「アンタ、どこから来たの」

「東京です。都内ではありますけど、まあ田舎の方です」

「東京はどこも都会さぁ」

 アッハッハと笑うおばあさんは、いかにも「沖縄のオバア」と言った雰囲気を持っていた。チエさんも一口お茶を飲んでから口を開く。

「でもオバアがいいって言うと思わなかったからびっくりしたわよ。私でも御嶽に入るのなんて子どもの時ぶりだもの」

「この子はね、呼ばれて来ているわけよ。宮古によぉ」

 おばあさんの言う言葉にほんの少し面食らう。

「呼ばれたって、誰にですか」 

「そりゃあ、神様によ。宮古の神様」

 面食らってチエさんをちらりとみると、ああと納得した顔をしているので、それにも驚く。ああって、そんなにあることなのか。神様に呼ばれるなんて。

「お客さんでも案外いるのよね。なんの引き合わせかよくわからないけど、何かに呼ばれたから宮古に来たっていう人」

「そ、そんなによくある話なんですか」

「みんなよく偶然だとかいうけど、案外偶然なんて少ないもんさぁ。人の人生なんて、大抵神様の掌の上にあるんだから」

 お茶を一口飲んで、いやに真っ直ぐな目でおばあさんは私を見た。

「アンタは呼ばれてここに来たんよ。それは、ここに来なきゃいかん理由があったってことさね。御嶽に行って、それは見つけられたかい?」

 そう言われて、さっき御嶽で感じた、実感を思い出した。神様に私が見えている、あのかみさまに見つけてもらえた時の感覚。

「……多分、あったような、気がします」

 確信と呼べるようなものではないかもしれないけれど。私にとって特別な経験であっても、それが他の人にもそうであるかはわからないし。そもそも神様とか、そんなオカルトな話、さっき体験したような気がするけどそれが本当だったのか、今の自分にはわからない。自信なさげにモゴモゴと小さく口を動かす私を、おばあさんは笑い飛ばした。

「気がするなら上等さぁ。確かに分かることなんて、人生そうそうないさぁ」

 そう言うおばあさんは強気で、でもどこか優しくて、確信を持ったその言葉は私の心を強くさせた。そうか。さっきの感覚を、私は信じてもいいんだ。

 そのあとも私たちはしばらく話し込んで、夕飯の前にゲストハウスへと帰った。

 

「はー疲れた」

 どさりとベッドに倒れ込む。今日も結局日付が変わるまでみんなで飲んで騒いでしまった。昨日まで互いに何も知らない赤の他人同士だったと言うのに、お酒と美味しいご飯がそうさせるのか、宮古島の不思議な空気がそうさせるのか。

 まだ身体の中で分解されきってないアルコールで気持ちがふわふわしている。明日も二日酔いにならなければいいな。体調悪いまま飛行機に乗るのはしんどそうだ。

 白い天井を見ながら、今日ゲストハウスのみんなとした話を思い出す。御嶽に行った話からポツリと、パリピ集団のお兄さんが言ったのだ。

「あのさあ、神様って信じてる?」

 突然なんの話⁉︎と酒の入った別のお兄さんは茶化そうとしたけれど、言い出したお兄さんは「いやマジで」と続けた。

「俺お前らには話してなかったけど、家が結構ちゃんと仏教やっててさ。先祖とか仏様とか、やっぱ俺らのこと見てる人とか作った人とかがいんだなって、宮古に来て改めて思ったんだよね」

 お酒の入った赤ら顔なのに真面目な顔をして、お兄さんはそう言う。そうするとダイビングおじさんが頷いて続けた。

「分かるよ。俺もずっと潜ってるとさ、自分より大きい存在が、信じる信じないとかじゃなくって「いる」んだなって、思わざるを得ない瞬間があるんだよね」

「……まあ、わからなくもないかな」

「え、マジ?みんなそういう系?」

 一人だけ少し乗り遅れながらも、酔っ払いみんなして、少しだけ神妙な顔になりながら話を続ける。

「君もそういうのあったから御嶽に興味持ったんじゃないの?」

「……私は別に、元々そういうのに興味あったわけじゃないんですけど」

 煽っていたビールの缶を両手で抱え直して、私はゆっくりと続ける。思うのは真人くんの顔と、御嶽で吹き抜けていった風と、大きなガジュマルの木のざわめき。「呼ばれて来たんだ」と告げたおばあさんの確信した声。

「でも多分私がここに来たのも、みんなとこうして飲んでるのも、偶然じゃないんだなぁって思わされたって感じですかねぇ……」

 言いたいことはうまく言葉にならずに、情けなくへにゃりと笑った。でも誰も私の言葉を笑わずに、「じゃあこうして出会えた奇跡にカンパーイ!」と、元の酔っ払いの喧騒へと戻っていった。

 私はあの時、本当は何が言いたかったんだろうな。ゴロリと寝返りを打って考える。

 かみさま。その単語がポツリと頭の中に落ちて来た。私のかみさま。辛い時や悲しい時に寄りかかる、私の人生の柱。それはアイドルなんだと改めてこの旅で思い知った。

 オタクの間では自分の好きなアイドルのことを自担と呼ぶ。自分が担当する、自分がその人の人生を担う。同時に、自分の思いや、夢や、恋や信仰を担ってもらう。それがアイドルとオタクの関係だと私は思う。

 何をしてても、どこにいても、その人のことを思い出す。恋にも似てるその気持ちは、それよりも信仰に近いものなのだと知った。

 そもそも信仰というものが恋に似てるのだと思う。チエさんやユタのおばあさんの瞳の中にも、その色はあった。信じるものは違っても、誰かを、何かを信じる、頼る、願う、それは幸福なことだ。

 私は私の幸福を、ずっと真人くんに預けていたんだな。それはある意味罪が重いというか、業が深いことだなと思い知らされた。今までもオタクは罪深いって思っていたけど、その正体が今回見えた気がする。

 それを考えると、人やもの、形のあるものに頼らずに祈る宮古の人たちは、とても強いのだなと思った。

 祈りの内容も、欲がない。おばあさんに祈りの言葉について質問したら、

「あれはウチナーグチよ。神様に自分と子孫の繁栄を守ってもらえるように、祈るわけさぁ」

 と、そう言っていた。そこにはそれ以上の自分の私利私欲はなくて、本当に心からそれを願っているんだなということがよくわかった。自分をひとつの個として見てるのではなく、子孫という一族で見ることによって、祈りと自我の強度が増すのかな、なんてことを思った。よくわかんないけど。

 何もないところで手を合わせて、ただ神に、先祖に、祈る。それはとても原始的で、始まりの頃から人間が生きるために繰り返して来たことなのだと思う。でも色んなモノや人に溢れたこの時代に、形あるものをかみさまとせず、何もない場所で祈りを捧げる宮古の人たち。私は彼らに憧れの気持ちを抱いている。

 そうなりたい、というと少し違うかもしれない。私の心の柱はアイドルであって、それはもう私の一部になっている。けれど、そこから少し自立した部分が持てたらな、と思う。

 そんなことを考えていたら酔いが回ったのか、いつの間にか眠りに落ちていた。次に気がついた時にはスマホのアラームが鳴り響いていて、慌てて飛び起きて帰りの荷造りをした。

 

 飛び立った飛行機の中から、宮古島を見下ろす。サンゴ礁でできた淡い碧と深い青のグラデーションに囲まれた、緑と赤土の島。うつくしい島だな。心底そう思った。

 また来よう。真人くんと会えなくても、会えたとしても。もっと強い自分になって、彼と向き合えるように。もっと好きな私になれるように。

  

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