食い逃げ犯、走る

佐久間零式改

食い逃げ犯、走る




               * * *




 緊張のせいか、トイレが近かった。


 店に入ってから二度目だ、二度目。


 最初は入ってすぐで、二度目は食べ終えてからすぐだ。


 尿意を催してトイレに駆け込んでみたけど、全然出なかった。


 また食い逃げをしようと画策しているせいで緊張して尿意なんて感じてしまっているのか、俺は。


 佐々木太郎よ、男としてどうなんだ?


「……私、こんなに美味しいチャーハン、初めて食べました」


「いやぁぁぁっ、普通のチャーハンなんだけどなぁ、がははっ!」


 俺がトイレから出てくると、カウンターで都井美柑とい みかんが小さな街中華の小さな厨房の中に店主らしき男と談笑をしているところだった。


 美柑は全然緊張なんてしていない様子だ。


 これから食い逃げをしようとっていうのに呑気な奴だ。いや、もしかしたら俺よりも肝が据わっているのかも知れない。


 もしかしたら、客が俺達しかいないから店主の方から話しかけてきたのかも知れない。


 都内の片隅にあったこぢんまりとした中華料理店なのだが、繁盛しているかどうか分からないようで小汚かった。


『ねえ、私達、駆け落ちしちゃおっか』


 そもそも、俺に駆け落ちを提案してきたのは美柑の方だ。


『え? 何を言っているんだ?』


『これは私の本音。君とだったら駆け落ちしてもいいなって思ってて。どう?』


 美柑は小悪魔のような微笑んで、俺の目を見つめてきた。


『どうと言われても困るって。なんでそんな事をしないといけないんだ?』


『私が君の事が好きだから。それだけじゃ駄目?』


『な、なんだ、その理由は。じょ、冗談なんて言うなよな!!』


 顔が赤くなってきたのが分かって、俺は慌てて美柑から顔を逸らした。さすがに赤面しているところを見せる訳にはいかなかった。


『冗談じゃなくて本気だよ。君と一緒なら逃げ出してもいいかなって思っているの』


『逃げ出してどうするんだよ』


『東京に出て君と一緒に暮らすの。そうしたら素敵な未来が訪れると思うの』


『東京? どうして、そこに素敵な未来があると思うんだ?』


『私に好きって言ってくれて、キスをしてくれたら教えてあげる。どう?』


『どどどどどどどうって?! そんな事言われたって!!』


 俺は当惑しきっていたし、顔がさらに真っ赤になってきたので、上手く返答ができなくて、その時は有耶無耶になってしまった。


 というのも、美柑の母親が再婚したのだけど、その再婚相手は結構手が出るのが早くて、その日も頬をぶたれた事もあって美柑は家を飛び出したんだ。


 で、俺の家に転がり込んできたので泣きじゃくる美柑を慰めていた矢先にそんな事を言い出したので、戯れ言だと思ったんだな、俺は。


 美柑は幼なじみなので、手助けしてやりたいと思ってはいたが、さすがに駆け落ちもそうだし、好きだと言ったり、キスしたりするのは無理だとその時は思った。


 しかし、その後、美柑の義理の父親が俺の家に乗り込んできた事で大騒動が起こり、美柑を渡さないと盾になった俺は何発も殴られた末、


『美柑は俺が守らないと駄目だ。絶対に守る』


 なんて思ってしまい、気づいた時には美柑の手を取り外へと飛び出していたんだ。


 そして、念願の東京へ出て来た時には、俺も美柑も所持金が零に近い状態になっていた。


 だからこそ、生きるために食い逃げする必要があるんだ。


「あ、おかえり」


 美柑が俺がトイレから出て来た事に気づいて、にっこり微笑んできた。


「おう」


 俺は片手を挙げるなりピースをして美柑に合図を送る。


 これは事前に打ち合わせをしておいた『これから食い逃げをするぞ』というジェスチャーだ。


 美柑はその合図を受け取って、笑顔のまま軽く頷いた。


 捕まったら、俺も美柑も警察に突き出された後、地元へと連れ戻されてしまう事だろうから食い逃げをやるにしてもきちんと作戦を立てないと駄目なんだ。


 俺も美柑も中学生なので、いつ警官に職務質問されて補導されるのか分からない状況であったりするから食い逃げをするにも慎重さを要するんだ。


「ッ!」


 俺は席に戻った振りをして美柑の手を掴む。


 俺の手を美柑が握り返してくる。


 それと同時に美柑がさっと席から立ち上がる。


 美柑が完全に立ち上がったのを感じ取った瞬間、俺は駆けだした。


「ッ!!」


 厨房にいた店主が俺達の取った行動に気づいたようだけど、遅いんだよ


 俺と美柑の絶妙なコンビネーションもあって、瞬く間に店のドアの前まで行き、そして、さっと開け放って外へと踏み出す。


 俺達が食い逃げを結構した事に気づいた店主が動いた時にはもう店を飛び出したところだった。


 そして、走る。


 俺は走る。


 美柑も走る。


 目的地はない。


「走るのが速いよ、速すぎるって」


「いやいや、追いつかれるかも知れないんだ。しばらくは全速力だ」


 逃げる。


 逃げる逃げる。


 走って逃げる。


 都会で生きるためにも走らなければならない。


 誰にも捕まらないためにも、誰にも邪魔されないためにも走る。


 俺と美柑との逃避行を。




               * * *




 太郎が走る速度を緩めていた。


「もう少しだ、後もう少しだ。そろそろ逃げ切った頃だし」


「うん」


 私は太郎に手を握られたままで幸せだった。


 二人で犯罪をしているような気分もあって、奇妙な高揚感さえあった。


「……ありがとう」


 私は太郎に聞こえないようにぼそっと呟いた。


 私は太郎に助けられている。


 今も、昔も。


 太郎って、ビビりなところもあるけど、こういう時は結構頼もしい。


「なんで食い逃げなんてしないといけないんだろうな、俺達」


「お金がないからよ」


 実は、太郎がトイレに行っている間にお会計は私がもう済ませているので食い逃げをしているワケではなかったりする。


 気づかせないように支払いをしていたから知るよしもないのかもしれない。


 太郎には『お金がない』とは言っているけど、実は数百万円所持していたりする。


 そのお金は、再婚相手のあのおっさんが会社から横領していたお金だ。


 私は横領している事を知るなり、そのお金を持ち出した。


 だから、横領したお金がない事に気づいて、あのおっさんは太郎の家まで押しかけてきたんだけど、おそらくは私が盗んだとは確信してはいないはずだ。


 太郎には悪い事をしたけど、あのまま再婚相手と生活していたらいずれは横領がバレて破綻した事だろうし、これで良かったのだと私は思っている。


 私に見つかるくらいだから、会社の方はお金がなうなっていることにもう気づいている可能性が高い。


 私がお金をくすねたという事実を知ったら、太郎は当然怒るはずだ。


 けれども、こうするしかなかったときっと分かってくれるはずだ、太郎ならば。


 その事を話す時はもう決まっている。


 私に『好き』と言ってくれて、キスをしてくれた時だ。


『私に好きって言ってくれて、キスをしてくれたら教えてあげる。どう?』


 あの時、素直に好きって言ってくれたら、お金の事や、東京にいる私の本当のお父さんのおじいちゃんが所持しているマンションに転がりこむ計画を教えたのに。


 でも、本当の事を知ったら許しくれるかな、太郎は。


 それだけが不安だったりする。


「ねえ、君」


「ん? 疲れたか?」


 太郎が走るのを止めて立ち止まった。


「私、腹黒よね」


「はい?」


 太郎は私の手を取ったまま、私の方に顔を向けてきた。


「私、悪い女なの」


「知ってる。駆け落ちを持ちかけてきたりと悪い女だよな」


「ううん、太郎が知っている以上に私は腹黒で、悪い女なの」


「何が言いたいんだ?」


「私に好きって言ってくれて、キスをしてくれたら教えてあげる。どう?」


 今、私は小悪魔のように微笑んでいるのかもしれない。



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