どこから送られてきたのかしら?

 錬金術師の本名はリボソームです。

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 ワタクシはニンゲン国の錬金術師です。仕様書スクリプトに従ってホムンクルスを作り出すのが仕事です。ワタクシ自身も多数のホムンクルスが集まってできた高級ホムンクルスです。ワタクシの勤め先はキンニク社です。左上腕地方でたくさん並んでいる細長い形のキンニク社屋のひとつで働いてます。


 キンニク社の司令室にはドゥナDNAインクで書かれたニンゲン国の聖書ゲノムが置いてあって、印刷師がそこからせっせと仕様書スクリプトを印刷しています。仕様書スクリプトルナRNAインクで書かれます。分厚い聖書ゲノムの中からどの部分が選ばれてどれだけ印刷されるのかは会社によって違います。会社の役割によっては特別な能力を持つホムンクルス社員が大勢必要になりますからね。ワタクシが普段受け取る仕様書スクリプトの多くはアクチンとかミオシンとかいう名前のホムンクルスたちを作るためのものです。


 ところがある日突然、見慣れない仕様書スクリプトが大量に送りつけられてきました。仕様書スクリプトには錬金術師を惹きつけたり、仕事をしやすくするための呪文が多少なりとも入っているものですが、この見慣れない仕様書スクリプトには特に強い魅了の力があって、まわり中の錬金術師が思わず手に取りました。使われている4種類のルナRNAインクのうち1つが微妙に違う色をしていますが、このくらいなら解読に問題ありませんね。ワタクシは早速ホムンクルスの組み立てに取り掛かりました。


 出来上がったホムンクルスはキンニク社のどの社員とも違った姿をしていました。話を聞いてみると、彼はニンゲン国のホムンクルスでさえなくて、コロナ組の海賊船の乗組員で、スパイクと言う名前だそうです。コロナ組という名前を聞いた途端、ワタクシの前世の記憶がよみがえりました。


* * *


 前の生でワタクシは別のニンゲン国の錬金術師で、キドウジョウヒ社に勤めていました。ところがある日コロナ組の海賊が聖書ゲノムをワタクシの前に差し出してホムンクルスを作ってくれないかと頼んできたのです。奇妙なことに彼らの聖書ゲノムドゥナDNAインクで書かれたニンゲン国のものと違って、ルナRNAインクで書かれており、まるで仕様書スクリプトのように見えました。ワタクシはついそこから何種類かのホムンクルスを作ってしまいました。生まれたのはコロナ組の印刷師とその助手たちで、彼女らはすごい勢いで聖書ゲノムを複製し、そこから大量の仕様書スクリプトを印刷し始めたのです。ワタクシたちは次々と送られて来るコロナ組の仕様書スクリプトをもとにコロナ組のホムンクルスを作らされ続けました。その中にはスパイクもいましたし、フルネームは忘れましたが、NとかMとかEとかいうあだ名で呼ばれているホムンクルスたちもいました。通常業務の流れをめちゃくちゃにされたキドウジョウヒ社の経営は傾き始め、コロナ組の聖書ゲノムを積み込んだ、無数の新しい海賊船が船出する頃には破産してワタクシも生を終えました。


* * *


 前世の思い出から我に返ったワタクシはあらためて送りつけられて来た仕様書スクリプトの山を調べ直しました。すごい数ですけど、スパイクの仕様書スクリプトしかないようです。スパイクだけならいくら大勢いても絶対に海賊船は作れませんね。それに、これが本当の侵略戦争なら、どこかでコロナ組の印刷師チームがコロナ聖書ゲノムの印刷をしている筈ですが、そういうウワサも聞きません。とりあえず安心したワタクシは仕事に戻りました。


 ところで、仕様書スクリプトというのはしばらく経つとすり切れてしまいます。いきなり大量に出現したスパイクの仕様書スクリプトは補充されることもなくだんだん減って、ついに無くなりました。ワタクシたちが作ったスパイクたちもいつの間にか建物の外に出て行っていなくなりました。日常に戻ったワタクシ達はアクチン作りとミオシン作りに精を出しています。




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(解説:読み飛ばして下さってかまいません)


 ”錬金術師”の本名はリボソームで、メッセンジャーRNA(”仕様書スクリプト”)の情報に従って、20種類のアミノ酸を使ってタンパク質(”ホムンクルス”あるいはその部品)を合成します。リボソームは多数のタンパク質とリボソームRNAが集まって出来た2つのサブユニットから成り、タンパク質合成開始直前に、メッセンジャーRNA上で2つがくっついて、合成が終了すると解離します。各々のサブユニットの半減期は数時間から数日ですが、ここでは話の都合上、主人公の”錬金術師”に長生きしてもらってます。


 新型コロナウイルスのRNAワクチンはスパイクというタンパク質をコードするメッセンジャーRNAが元になっています。リボソームがメッセンジャーRNAを認識する5’-UTRという部分を効率の良いものにするとか、コドン最適化というトリックを使ってタンパク質合成効率を改善するとか、RNA合成に使う4種類のヌクレオチド(”ルナRNAインク”)の1つを少し違うものに変えて細胞内で壊されにくくするとか、出来上がったものを特別な脂質と混ぜて小さな粒子(脂質ナノ粒子、LNP)にして細胞に取り込まれやすくするなど、様々な工夫が凝らされています。


 RNAワクチンは細胞に取り込まれるとしばらくの間リボソームによって翻訳されてスパイクが作られますが、もちろんここからウイルス感染が始まることはありません。RNAワクチンの接種は3週間おきに2回行われますが、ここでは初回だけ描かれています。


 新型コロナウイルスのRNAワクチンが筋肉注射された後、実際にどの細胞に取り込まれてどのくらいの期間スパイクタンパク質が作られるかは人間では詳しく研究されていません。良く似たRNA・脂質ナノ粒子をマウスに筋注した場合、RNAにコードされたタンパク質が接種箇所の筋肉組織で10日間ほど、肝臓で2日間ほど検出されます。このシリーズでは接種箇所の骨格筋細胞(”キンニク社”)に取り込まれた場合が描かれていますが、筋肉組織中にいる樹状細胞という食作用のある細胞に多く取り込まれるという説もあります。また、ここでは作られたスパイクが細胞外に放出されるということにしてありますが、スパイクは細胞膜にくっついているタンパク質なので、細胞が壊れないと出てこないという可能性もあります。


 ”錬金術師”の前世では、本物のコロナウイルスが気道上皮細胞に感染して増殖しました。この場合はコロナウイルスのRNAゲノムが複製され、スパイクを含む何種類ものコロナウイルスのタンパク質が作られ、ウイルス粒子(”海賊船”)が組み立てられて、次の感染サイクルが始まります。


 次回の主人公はスパイクです。


(参考文献)

1. リボソーム (https://ja.wikipedia.org/wiki/リボソーム)

2. コロナウイルスの構造と複製サイクル(ライフサイクル)(https://www.jiu.ac.jp/features/detail/id=6822)

3. Pfizer–BioNTech COVID-19 vaccine (https://en.wikipedia.org/wiki/Pfizer–BioNTech_COVID-19_vaccine)

4. Moderna COVID-19 vaccine (https://en.wikipedia.org/wiki/Moderna_COVID-19_vaccine)

5. An Evidence Based Perspective on mRNA-SARS-CoV-2 Vaccine Development (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7218962/)

6. Expression kinetics of nucleoside-modified mRNA delivered in lipid nanoparticles to mice by various routes (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4624045/)

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