ここはどこ?

 印刷師の本名はT7 RNAポリメラーゼです。

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 温かい水の中に放り込まれて長く冷たい眠りから目が覚めた。心の中にいにしえより引き継がれた同胞の記憶がよみがえり、アタシは自分の使命を理解した。


* * *


 アタシはホムンクルスの印刷師。ドゥナDNAインクで書かれた聖書ゲノムからルナRNAインクを使って仕様書スクリプトを印刷するのが仕事。仕様書スクリプトっていうのはホムンクルスを作り出すための設計図みたいなものよ。


 アタシの所属は海賊のティーセブン組。小さな海賊船には組の掟や組員の情報が詰まった聖書ゲノムが乗っている。海賊船は大海原を旅して、獲物の大型フェリーを見つけるとエイやと聖書ゲノムを投げ入れて、フェリー勤めの印刷師にちょっとだけ印刷を手伝ってちょうだい、てお願いするの。すると、彼女らはアタシたちティーセブンの印刷師を作るための仕様書スクリプトを印刷してくれるのよ。それらを元に錬金術師が(彼女らもフェリー勤めのホムンクルスよ)アタシたちの身体を作り上げて命を吹き込んでくれるってわけ。バカな原住民を利用するのが侵略戦争のコツよ。


 アタシたちはフル回転で働いて、ティーセブン聖書ゲノムから何種類もの仕様書スクリプトを大量に印刷する。そこから錬金術師が様々なティーセブン組のホムンクルスを作り出すの。組員の中には次代の海賊船の乗組員もいるし、資源を奪うためにフェリー勤めのホムンクルスを邪魔する子もいるし、アタシとちょっと似ているけどドゥナDNAインクを使って聖書ゲノム全体の増刷をする印刷師もいる。仕事が終わるとアタシたち印刷師はボロボロになったフェリーと一緒に沈没しちゃうんだけど、その代わりたくさんの新しいティーセブン海賊船が次の獲物を求めて船出するのよ。


* * *


 さて、前世の思い出に浸るのはそこそこに仕事に取りかかりましょう。ん?これが聖書ゲノム?記憶にあるティーセブン組の聖書ゲノムよりはるかに薄っぺらく開きやすいわね。それに、ここからじゃたった1種類の仕様書スクリプトしか印刷できないみたいだけど。


 首をかしげつつ、アタシは印刷を開始した。ルナRNAインクが豊富にあるのは嬉しいけど、4色のうち1つの色合いが微妙におかしいわ。まあこの程度の違いなら錬金術師が読み解くのに困らないでしょうけど、連中が来たら念のため確認してみないとね。


 ところが待てど暮らせど錬金術師がやって来ない。もしかして仕様書スクリプトに錬金術師を呼び寄せる呪文を入れ忘れたのかしら?いえ、ちゃんとあるわ、それなのにどうして錬金術師が来ないの?彼女らがホムンクルスを作らないと世界が終わってしまうじゃない。でも、そういえばアタシの身体を作ってくれたはずの錬金術師も見当たらないわ。


 アタシはあわてて今世の記憶をたぐった。そうだ、今回のアタシはすごくおかしなフェリーの上で生まれたんだ。そこでは錬金術師たちがティーセブン印刷師ばかり狂ったように次々と作ってた。印刷師だけ大勢いても次代の海賊船は出来ないのに、なぜあんなことになってたのかしら?そして、ある時そのフェリーが突然崩壊してアタシたち印刷師だけが集められてコールドスリープに入らされたんだった。


 アタシは気味が悪くなって辺りを見回して気づいた。ここはフェリーじゃない。奇妙な結界の中に、アタシたち印刷師と、薄っぺらい聖書ゲノムもどきと、ちょっと変なルナRNAインクセットと、出来上がった仕様書スクリプトがただよってるだけ。印刷師以外のホムンクルスが全然いないなんておかしいわ。


 アタシは手がかりがないかと印刷したばかりの仕様書スクリプトをよくよく見直した。あれ、これはティーセブン組じゃなくてコロナ組の仕様書スクリプトだわ。コロナ組の海賊船の、スパイクとかいう乗組員を作るための。どうして、アタシはこんな変な結界の中で、妙なインクを使って、ヨソの組のホムンクルスの仕様書スクリプトを印刷させられてるの?


 そしてある日、結界はいきなり崩壊した。今回コールドスリープに入るのはアタシたちがひたすら印刷し続けたコロナ組スパイクの仕様書スクリプトだけみたい。アタシたちはお払い箱なんだ。アタシはティーセブン組の存続と繁栄を支えるために生まれてきたはずなのに、きっと誰かに利用されていたのね。何という理不尽な一生。



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(解説)


 主人公の”印刷師”の本名はT7 RNAポリメラーゼで、DNAでできたゲノム(”聖書ゲノム”)の遺伝子部分を鋳型にしてメッセンジャーRNA (”仕様書スクリプト”)を合成する酵素です。もともとはT7 バクテリオファージという、大腸菌 (”フェリー”)に感染するウイルス (”海賊船”)のタンパク質(”ホムンクルス”またはその部品)ですが、遺伝子工学によって大量生産されてRNAを試験管内で合成するために広く使われています。この話ではさる製薬会社の工場で新型コロナウイルスのRNAワクチンを作るのに使われています。


 細胞内では、リボソーム(”錬金術師”)というRNA・タンパク質複合体がメッセンジャーRNAの情報をもとにタンパク質の合成を行ないます。新型コロナウイルスのRNAワクチンは、スパイクと呼ばれるタンパク質をコードするメッセンジャーRNAにいろいろな工夫を加えて安定性とか、翻訳されやすさとかを改善したものです。


 次回の主人公はリボソーム(”錬金術師”)です。


(参考文献)

1. 新型コロナウイルスワクチンについて(厚生労働省)(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_00184.html)

2. T7ファージ 

(https://ja.wikipedia.org/wiki/T7ファージ)

3. A COVID-19 vaccine life cycle: from DNA to doses

(https://www.usatoday.com/in-depth/news/health/2021/02/07/how-covid-vaccine-made-step-step-journey-pfizer-dose/4371693001/)

3. SARS-CoV-2 mRNA vaccine design enabled by prototype pathogen preparedness (https://www.nature.com/articles/s41586-020-2622-0)

4. Safety and Efficacy of the BNT162b2 mRNA Covid-19 Vaccine (https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2034577)

5. Efficacy and Safety of the mRNA-1273 SARS-CoV-2 Vaccine (https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2035389)

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