ホムンクルスは忙しい

黒姫

プロローグ:やり直し令嬢はワクチン接種を受ける

 わたくしはいわゆるやり直し令嬢でございます。もっとも、箱入りのお嬢様だったのは中学の3年まででしたけど。その夏、中堅企業の経営者だった両親が破産して自殺し、独身で地方公務員をやってらっしゃる叔母様がわたくしを引き取って下さったのです。ただ、この令嬢風の言葉使いは26歳になった今でもそのままで、ナース仲間やドクターたちにはお嬢とかご令嬢とか呼ばれていますわ。


 両親が亡くなった時、わたくしは幼稚園から大学まで一貫のお嬢様学校に通っておりまして、付け焼刃の受験勉強で公立高校に合格できるとはとても思えませんでした。お嬢様学校の授業料を叔母様に負担させるのは心苦しく、思い悩んでいましたところ、とある私立高校の看護科を受験したらどうかと担任の先生にご指導いただきました。それなら高校卒業後、2年の専門課程を経て国家試験に受かれば一人前になれます。叔母様に5年間の授業料を負担していただくことになりますが、その分早く就職してご恩返しができますからね。


 補欠合格で滑り込んだわたくしは勉学とバイトに明け暮れまして、20歳の年にみごと看護師国家試験に合格いたしました。2年ほど小さな個人病院で勤めたのち大病院に職を得て、しばらく経験を積んでから救急部門に配属されました。生死を分ける戦いの中で患者様方とドクターの方々を力の限りお支えするのがわたくしの誇りですわ。わたくしは毎日クタクタになって帰宅し、スマホを持ってベッドに入るとラノベサイトを訪れます。わたくしは婚約破棄をされた悪役令嬢が人生をやり直す機会を与えられて幸せになるというストーリーが大好きなのです。


 2020年の初頭、新型コロナウイルスの流行が中国の武漢地方から全世界に広がりました。イタリアのロンバルディア州などでは急激な患者数の増加で病院があっという間に満杯になりました。救急医療ではトリアージという患者様の選別作業が非常に大事です。すぐに治療が必要な方がいらっしゃれば、来院の順番ではなくその方が優先されるのです。しかし、医療崩壊が起こっている地域でのトリアージは、助かる見込みの少なそうな方々を見捨てて見込みのありそうな方々を優先するという、まるで野戦病院のような厳しい決断なのです。そのようなニュースに触れるたびに、わたくしは心がえぐられるような思いでした。


 日本では初期の流行がかなり低く抑えられたことが幸いしたのか、後から患者数が激増した時も、わたくしの勤務する病院はなんとかやりくりして重症者の方々の治療に当たっておりました。わたくしたち医療関係者は患者様方に接する際に最大限の注意を払っておりますが、絶対大丈夫ということはありません。ある朝、わたくしはコーヒーの味がおかしいことに気づきました。微熱があり、喉が少し痛かったので、その日のうちにPCR検査を受けると陽性と診断されました。でも、重症化するのは高齢者の方々が多いので若く健康なわたくしは楽観視していました。病院が忙しい折に欠勤するのは心苦しいけれど、家で安静にしてラノベでも読んでのんびりしましょう、程度にしか思っていなかったのです。


 ところがまもなく始まった咳と高熱は数日しても収まらず、1週間目に救急車で運ばれて入院となりました。もちろん叔母様にお会いするわけにはいきませんので、何度かLINEでお話ししましたが、次第に呼吸が困難になり、集中治療室に入るとそれもできなくなりました。近頃は意識が途切れがちで、入院してどのくらい時間が経ったのかも良くわかりません。叔母様にお礼とお別れを言えなかったのが心残りですが、厳重なマスクをした同僚のナースたちが世話をしに来て下さるたびに心が安まります。どうか彼女らが無事にこの厳しい時期を乗り切れますように。


* * *


 ふと気がつくとわたくしはアパートのキッチンにいて、お気に入りのカップが目の前にあり、良い香りが漂っておりました。忘れもしない、コロナ陽性と診断された日の朝ですわ。わたくしはなんとやり直しの機会を与えられたのです!しかもどういうご都合主義か存じませんが、ここは数ヶ月前にワクチンが承認されていたパラレルワールドらしく、わたくしはすでに2度の接種を終えていたのです。コーヒーの味はいつもと変わらず、熱もありませんでした。でも、なんとなくカゼっぽい気がしましたので、念のためPCR検査を受けるとやはり陽性でした。


 自宅待機となったわたくしは毎日ビクビクしながら体調に気をつけていましたが、カゼっぽかったのもすぐ治り、2週間後のPCR検査は陰性で無事職場に復帰しました。前回と比べて病院に収容されている重症者の方々の数がずっと少なく、ナースやドクターたちにも余裕が感じられますね。さあ、このパラレルワールドに転生させて下さったラノベの神様に感謝しつつ、今日も1日がんばることにいたしましょう。




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(解説)


 主人公はやり直し人生で新型コロナウイルスに感染する前にワクチン接種を受けていました。感染そのものは防げませんでしたが、前回と異なり重症化を免れました。


 ワクチン接種を受けておくと、感染後に素早く免疫が立ち上がるので、体の中で産生されるウイルス量がずっと少なくなり、発症する確率、重症化する確率が減ります。結果として、新型コロナウイルスによる直接の被害者はもちろん、病院施設や医療従事者の不足によって適切な治療を受けられない患者の数も減ります。いち早く多数の国民にファイザー社のRNAワクチンを接種しまくったイスラエルでは大規模な追跡調査で劇的な効果が報告されています。


 あらゆる医薬品がそうであるように、新型コロナウイルスのワクチンにも副作用はあります。臨床試験の結果に基づいて、病気を防ぐことによる利益が副作用の不利益をはるかに上回るという判断が下されればそのワクチンは承認されてその国での接種が始まります。現在ヨーロッパ共同体では、ファイザー社、モデルナ社、アストラゼネカ社、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンが、米国ではファイザー社、モデルナ社、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンが承認されています。ファイザー社とモデルナ社のワクチンは本編で描かれるRNAワクチンで、アストラゼネカ社とジョンソン・エンド・ジョンソン社のワクチンはアデノウイルスベクターを用いたものです。4つともターゲットはスパイクと呼ばれるコロナウイルス粒子の一番外側にあるタンパク質分子です。


 日本では2021年3月15日現在、ファイザー社のワクチンのみが承認されています。最新情報は厚生労働省のウェブサイトを参照して下さい。


(参考文献)

1. 新型コロナワクチンについて(厚生労働省)(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_00184.html)

2. コロナ病棟で戦う看護師の「本当の声」

(https://pcr.nishitanclinic.jp/project/nurse-support/)

3. BNT162b2 mRNA Covid-19 Vaccine in a Nationwide Mass Vaccination Setting (https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2101765?query=featured_home)

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