果ての庭を走る

七四六明

人の光速vs神の神速

 目の前に存在する神と言う存在は、元より人に近しい姿をしているのか、それともわざわざ人に近しい姿をしているのか。

 いずれにせよ、神は昔の画家が描くような半裸の布一枚ではなく、和装の衣を着ていて、男とも女とも断ずる事の難しい中性的な顔立ちをしていた。

 ただ、難しい言い回しをする口に対して、若々しい外見は余り釣り合うものではなかったが。


「さぁ、始めようか。御前がの手よりこの果実を奪い取れば、長命長寿が約束される。御前達の知る最速たる光のそれと、我ら神々の誇る速さ。此度はどちらが、勝るかな」


 赤々と輝く、丸々と実った果実が神の手に乗っている。

 それを奪えば、人間は不老不死に近しい長命長寿を得られる。

 人間の代表として選ばれた青年には、人間として必ずやそれを取る義務はない。


 これは神々の測定だ。

 人間は果たして、神に続く命を持つ種族として足り得る種族か否かを計る儀式。

 青年は、そんな勝手な都合に巻き込まれたに過ぎない。


 だが、神を見上げて屈伸運動をする青年は何処か楽し気で、此度の測定に選ばれた事に感謝しているように見られた。


「制限時間は、御前達の時間で三〇分。では、始めよう」

「――行くぞ、神様!」


 今この時、この測定のためだけに与えられた光の速度。空中さえも自在に駆ける力で、青年はシャボン玉のような透明の気泡の上にいた神へと肉薄する。

 神は自ら後ろ向きに落ちるように躱し、地面に足が着くと地面を滑空するかのように走り始めた。

 青年は、神の背中を追いかける。


「やはりこの程度か」

「なんの!」


 拾い上げた小石を投げる。

 振り返った神は小石を掴み取り、握り潰した。無論、これが囮である事もわかっての事だ。

 側面から肉薄し、飛び込んで来た青年を体をのけ反らして躱し、振り返って再び飛び込んで来た頭上に跳んで躱す。

 そのまま木の上に乗った神は、自分の靴の先を見た。


 青年の爪がわずかに届いたのだろう、短く小さな引っ掻き傷。

 わずかだが、靴のつま先にだが、届いたと言うのか。

 気付いたらしい青年が、嬉々としてこちらを見上げている。


「なぁ、神様。一つ訊いても良いかな」

「問いかけている暇があるのか? 人間」

「神様って、男神? 女神?」

「……その問いの重要性は理解出来ないが、まぁ、隠すこともない――だ」

「へぇ……そっか」


 この状況下で、何故そんな事を問う。

 理由はすぐにはわからなかったが、すぐ後で知った。

 神が女神と知るや否や、青年はまた嬉しそうに笑って、果実を奪いに来たのである。


 光の速度は、大気に風を起こさせない。

 本人に肩で風を切っている感覚こそあれ、実際には無風で、神の頭髪が揺らぐのは、神自身の速度が生み出す行動の余韻に過ぎない。

 故に青年が揺らめく毛先の一つにも触れられないのは、彼が風圧を起こすせいではなく、単純に神の速度が、青年のそれ上回っているだけの事。


 直進した先にあった木を蹴って転回。

 一直線に神へ向かって走り、飛び込んでは躱され、先に生えている木を足蹴に転回して再び走る。これを延々と続けて加速した青年の速度すら、神は容易く躱してみせる。


「この程度か」

「まだまだぁっ!」

「無駄だ」


 方向を変えたところで、結局は真っ直ぐ突っ込んで来るだけ。

 果実を後ろ手に回してしまえば、取られる事はまずあり得ない。

 時間も、残り半分を切った。


「てりゃぁっ!」


 勝負はもはや、決まったも同ぜ――


「あ――」

「え――」


 光と同じになった自らの速度に追い付かなかったのか、青年の足がもつれて転ぶ。

 図らずも、未来を見る目を持っていない神は不意を突かれる形になった。

 神と言えども、届かぬ場合はある。

 そして、青年が倒れた拍子に神を押し倒す形で飛び込んでしまって、勢い余って二人で絡み合ったまま回転し、神を下にして壁面に衝突。ようやく止まった。


「あぁっ、つつ……今凄い音がしたけど、大丈夫か神さ、ま――」


 手に、柔い感触。

 見ると、青年の手が神の胸を鷲掴んでおり、本能が勝手に揉みしだいていた。


「お、おぉ! こ、これは――!」

「いつまで、揉んでいる!」


 神速を生み出す足に金的を蹴り上げられ、腹を蹴飛ばされる。

 凄まじい衝撃に、腹に風穴が空いたかと思った。いやそれ以前に、女になったかと思った。

 いずれにしても、結局は杞憂だったのだが。


「こ、これが……噂に聞くラッキースケベ……良い」

「感動するな!」


 いつの間にか上空に放っていた果実を取る神は、ご立腹だ。

 初めて人みたいに感情が揺れ動いているところが見えて、青年はまた、嬉しそうに笑う。

 ただし、未だ金的を蹴り上げられた衝撃に悶え、立ち上がれない様だが、感情では喜びの方が勝っていた。


「や、やっと感情見せた……そうしてた方が、可愛いよ。女神様……」

「ぶ、無礼な! 神に可愛げなど求めてどうする!」

「何を言ってるんだ! 可愛いは正義だよ!」


 突然、青年の言葉が熱を帯び始めて、神は驚きを禁じ得ない。

 今ここでするような話にはとても思えないのだが。


「俺は健康的な高校生だが、恋をした事がないんだ! 小説だとか漫画だとかで満足してるのか、俺は誰かを欲するほど好きになった事がないんだ! だけど神様! あなたを見た時真っ先に思ったんだ! 可愛いなって! 好きだなって! 生命の果実なんていらない! あなたが欲しい!」

「そ、そんな……そんな、もの?! これが生命の果実である事は説明したであろう?! これを手にすれば、人間は長命長寿を得られる事も――」

「けどいらない! そんなもの!」


 この千年で人間達に何があったか、疑わざるを得なかった。

 仮に今の発言が青年個人の思想だとしても、そう言った思想が生まれた事こそ、神からすれば異常だった。


 不老不死。賢者の石。蛇に呑まれた秘薬。

 果ては異世界に転生してまで生きたいと願う人間に、長命長寿は必要ないと言う彼の言葉は意外過ぎて、神ともあろう者が返せなかった。


「もう人間は百年近く生きられる! それだけ生きれば充分だ! それどころか、みんな口を揃えて『死にたい』とばかり言ってる! 長命長寿なんて、貰ったところで嬉しくない!」

「そう、なのか……?」

「多分! 神様からしてみればあっと言う間かもしれないけど、俺達はその短い生涯を全力で走り抜ける! 走り続けられる事が幸せな訳で、何も延々走りたい訳じゃないんだ! 俺も陸上部だけど、長距離走より短距離走の方が良い!」


 確かに千年は、人間にとって長い時間かもしれない。

 それだけの時間があれば文明は進化し、今までと違う考えも生まれるやもしれないと危惧する神も無くはなかったが、生命の果実を要らないなどと。

 人間の始祖たる二人は、それを口にする事を恐れられて追放されたと言うのに――これでは。


「残り十分ちょっとだろ? その間に果実が取れたなら、女神様! 俺の彼女になってくれ!」

「え、え!?」

「俺と結婚を前提に、付き合って下さぁぁぁいぁぁぁぁっ!!!」


 青年は女神に向かって走った。

 与えられた光の速度を駆使し、己の健脚を打ち鳴らして走り、飛び掛かり続けた。

 一生懸命に、息を切らして、命を燃やして走り続けた。


 果実の価値を知り、手は果実へと伸ばされながら、長命長寿など目指していなかった。

 青年の目に若き双眸に映っているのは、生涯で初めて一目惚れした、青年と同じくらいの歳頃の娘の姿を取った女神のみ。


 だが、結局は届かなかった。

 青年は大の字に寝転び、死にかけている虫のような息を繰り返している。

 盛大に告白してから吹っ切れたように動きのキレが良くなって、幾度か惜しい場面さえあったが、果実は取れぬまま終わってしまったのだった。


「はぁ、はぁ、はぁぁぁ、あ! クソォ、届かなかったかぁ……」

「人間、御前……趣旨がだいぶ違くなっていたぞ。これは、長命長寿の権利を決める……」

「なら、今年は俺が代表になった時点で、運の尽きって事ですよ。あなたが果実を持つ役だった時点で、もうこの結果は決まってたんだ」

「……私の、何処が良い。私は、名のある神ではない。私より美しい女神など、いくらでもいる。人間だって、御前が知らないだけでもっといい女が――」

「例えそうでも! 俺はあなたが良い! その銀髪も、蒼白の眼も、白い肌も――」

「もう良い! 此度も人間には、長命長寿の権利はないと知った。おまえを元の場所に返してやる」

「そっか、寂しいですね……せめてLINEのIDだけでも――」

「いいから帰れ!」


  *  *  *  *  *


 目が覚めた。

 夢のようだが、ハッキリと憶えている。そして、酷く疲れている。

 部活より必死で走ったような気さえする。今思えば、何で全国大会にも出られないような陸上部の最弱部員が、あんな儀式の代表に選ばれたのだろう。

 もしかして神様って、そもそも生命の果実なんて渡す気ないんじゃなかろうか。


 まぁ、別に何でも良い。

 ただの夢なら夢で良い。あの女神様と会えたのだから、ただ――


「千年後かぁ……」


 もう一度候補に選ばれるため、あの女神様に会えるたまなら、長命長寿は必要だったか。

 だが、仕方ない。自分は負けたのだ。

 敗者は潔く、消えるだけである。


「何をボーっとしている、人間」

「おわっ?! め、女神様!? 何で――」


 銀髪と、蒼白の眼。色白の肌の華奢な体。

 自分の寝るベッドの側に勉強机に備えてあった椅子を持ってきて、こちらを見下ろしているのは間違いなく夢の中で追いかけ続けた女神だった。

 ただし衣装は和装ではなく、青年の通う学校の制服だ。


「長命長寿が要らぬとほざく御前に興味があってな。今日から転校生として来る。それと、怪しまれないよう、その……御前の恋人? と言う事にしてやるさ」

「て、天使か!」

「女神だ! 馬鹿者! そら、早く支度しろ! 御前が全力で走る様を、私に見せるのだ!」


 これは早々に、最弱部員の称号を返上せねば。

 青年は、そう心に決めた。

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果ての庭を走る 七四六明 @mumei

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