第3話 good boy,bad girl 2
産む産まないは別にして、とりあえず今日のことを考えよう。
今夜は泊めたほうがいいだろう。動揺しているし、妊娠初期であることを考えれば一人で返すのも心配だ。とはいえ、彼女はどこに住んでいるのだろうか。
ごくありきたりなTシャツに七分のパンツ、それにスニーカー。化粧っ気も洒落っ気もない人という印象だが。バスで来たのか、あるいは歩いてきたのか。
わたしは、病院のある三区と隣の五区を担当している。定期の健康診断は三区のなかでも一部だけを受け持っているけれど、婦人科なら二つの区の掛け持ちだ。
「塩地、畑に何かあったかな。あくの少ない野菜。あと缶詰の在庫……昨日焼いたパンは」
「パンは今朝マスターが全部お食べに。野菜はラディッシュとキャベツがあります。夏野菜はまだ収穫時期ではないのでナスやキュウリはお出しできません。トマトは赤くはありませんが、炒めるのでしたら大丈夫かと。缶詰はサバの水煮とソーセージ、煮豆がいくらか。米は炊飯器にしかけてあります」
そうだった。今朝は米は炊かなかった。パンの出来がよくて美味しくて、つい食べちゃったんだ。
「年寄りひとりでさえ、配給が足りないなんて。すぐに使えるクーポンってなかった?」
「はぁ!?」
突然、塩地が尻上がりの声をあげた。
「配給は足りていますよ。なぜ足りないと感じるのか、それはマスターが食料品に頓着せず、クーポンを嗜好品であるタバコと交換するからではありませんか?」
うわ、やぶ蛇だった。
「ちょっとだけならいいじゃない。はい、今月はもう吸わない。誓います、ほんと」
わたしは右手を挙げて宣誓した。腕組みした塩地の瞳が一度光った。
「炊飯器のスイッチは入れました。六十分後に炊き上がります。パントリーに梅干しが漬けられてあります。それから、クーポン券でしたらマスターがとっておきのを何枚かお持ちかと」
腰をかがめて、わたしをひたと見つめて来る。
「あー、はいはい。わかりました。出すわよ、出せばいいんでしょ。キッチンの食器戸棚のひきだし。そこに精肉のクーポン券があるから、ひとっ走り配給所まで行ってきて」
「イエッサー」
塩地は背筋を伸ばし敬礼すると、さっさと台所へ足を向けた。
「まったく、うちのアンドロイドときたら。どっちがご主人さまかわかりしゃしない」
クーポン券でこっそりとタバコを調達するのぞみは、完全に断たれた。
「こちらでお世話を始めて四十年。わたくしはマスターを手本に学びました」
キッチンから塩路が返事をした。つまり子は親の鏡というやつですか。
庭からキャベツとトマトを収穫してきた。キャベツは鍋にコンソメキューブと一緒にぶちこんでスープに。トマトは冷蔵庫にあった卵と炒めて塩コショウ、醤油をフライパンにひと回しする。ご飯が炊きあがる頃、塩路がハムとベーコンの包みを抱えて戻った。
「ベーコン、薄切りにしてスープに足そうか。食べられるかな。梅干しは付けたほうがいいよね」
「ごはんは小さなおにぎりにしませんか、海苔はありませんが」
「ナイスアイディア、塩路」
二人でせっせと料理した。めったに使わないお盆を食器棚の下から引っ張り出して、小皿を並べる。
「塩路、ちょっと様子を見てきて」
出来上がった料理に、我ながら満足していた。
「マスター!」
廊下から塩路の声がした。キッチンから顔を出して覗くと、同じように半身を扉から出した塩路と目が合った。
「いません、黙って帰ったようです」
「えー!?」
料理に夢中になり過ぎて、誰かのために食事を作るなんて久しぶり過ぎて、わたしは浮かれていたんだろう。産むか産まないか、なんて重大な判断を迫られた彼女をひとりきりにして。
「し、塩路、そのへん見てきて」
いう前に塩路は外へと飛び出していった。
「うかつだった」
三角巾までかぶって料理していたなんて、間抜けすぎる。その張り切りぶりが。
あーあとため息をついて、わたしは三角巾を脱ぐと受付へと戻った。ふるぼけたソファに座って塩路の帰りを待つ。
あと三年だ。どうせなくなるんだからと、昔のままで手を付けていない待合室には読み手のいない絵本が本棚にある。妊娠中の過ごし方が書かれた本や育児書もある。もうとっくに無用の長物になったものたち。
彗星がぶつかる前に、わたしたちはとっくに死んでいるのかもしれない。今は、無意味な消化試合の毎日だから。
新しい命なんて……。
わたしは、しわだらけの自分の手を見た。
もういちど、取り上げることは……。
「見当たりませんでした」
硝子の引き戸を開けて、塩路が戻って来た。
「あ、歩きじゃなかったのかしら」
「バスを使った様子もありませんし、近所で彼女らしき人を見かけた者もいませんでした」
刑事か。アンドロイド、優秀過ぎだ。
「ただ、自動車が走り去ったのを見た人がいました」
「車、なんてこのへんにないでしょうよ」
車は緊急車両のほかは、区役所に公用車があるくらいだ。うちにだってバイクしかない。
「ええ、なので目だったようです。トラックだったそうです。彼女の知り合いか周辺に車を持つものがいるのかも」
なんだか嫌な予感がする。個人で車を所有しているなんて、あまりない。
「塩路、このあたりで個人で車をもっているのは」
「あの施設くらいしか思い当たりません」
やっぱり、とわたしは両手でこめかみを押す。
【農園】の関係者だ。なら、彼女が何者なのか察しはつくのだけれど。
「ほっとくわけにもいかないし」
面倒ごとに首を突っ込む羽目になりそうだ。やれやれと、わたしはソファから下りた。
「マスター、どうしますか」
「どうもこうも……ほっとくわけにもいかないでしょうよ」
とりあえず、作ったものは食べよう。動くのは明日、年寄りはいっぺんにうごけないんだから。
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