第4話 あなたが教えたんです
「一万……一万か……」
ブロウはうつむいてぶつぶつと呟いた。
「決断はお早めに。時間が経てばそれだけ、差分が生じますから」
「差分?」
何のことだと客は首をかしげた。
「――違和感の具体的な事象は何です、ミスタ?」
「それは」
彼は少し、躊躇った。
「つまらないことと言えば、とてもつまらないんだが」
「どうぞ」
店主は促した。
「最初は、家に入ったときだ」
ぽつぽつとブロウは話し出した。
「まるで、知らない場所にやってきたかのように……数秒、入り口でたたずんだ」
気のせいかと思ったが、冷蔵庫や本棚の前で、やはり一、ニ秒ほどとまることがあった。ブロウは説明した。
「最初だけでしたでしょう?」
店主は眼鏡の位置を直した。
「これまでのデータの蓄積はもちろんありますから、本当に『知らない場所にきた』のとは違う。ですがオーソルの方が新しくなっていますからね」
「オーソル?」
「OSoL、オペレーティング・システム・オブ・リンツェですよ。かのドクター・リンツェの理論を基礎とした、リンツェロイドを動かす基本プログラムです」
店主は説明した。
「オーソルを新しくしても記憶データはそのままですが、誤差がないか、問題なく認識できているか、リンツェロイド側で自己診断をするんですよ。もし、ずれがあるようなら調整を入れる。それに数秒かかることは、ありますね」
「え……」
「つまり、それはごく普通の正常な動作です。二度目はなかったはずですよ」
「た、確かに一度だけだった」
ブロウは赤面して認めた。
「じゃああれは……正常だからこそ起きた現象だって?」
「そうなりますね」
店主は肩をすくめた。
「やはりヴァージョンダウンはとりやめますか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
ブロウは手を振った。
「それだけじゃ、ないんだ」
「お聞きしましょう」
「窓を……」
「窓?」
「リズは、仕事がないとき、ぼうっと窓の外の景色を眺めるのが好きなんだ。だけど、ヴァージョンアップ以来、それをしなくって」
ぼそぼそとブロウが言えば、店主はくすりと笑った。彼は頬がかっと熱くなるのを感じた。やはりつまらないことだと思われた、と。
「失敬。ですがミスタ。リンツェロイドは人間ではありませんよ。『ぼうっと眺める』のが『好き』だなんて」
「あ……」
ますます、ブロウは赤くなった。
「いや、俺は……」
「かまいませんよ。うちの子を好いてくれている、それが判りますから」
「も、もちろんロイドはロイドだ。好きとか言っても、それは動物に対するようなもんで」
どもりながら彼は言った。
「動物ですら、ありませんがね。あれらは『生きて』などいない。いえ、かまいませんよ」
咎めないし通報もしません、と店主は言った。
「長く使えばリンツェロイドにも個性が出る。そんな言い方をしますね。しかしそれは単に、状況への微修正なんですよ。癖ではなく、プログラムが出した結論です。大きな声では言えませんが、実はけっこう、バグということも」
「バグだって?」
彼は目をぱちぱちとさせた。
「致命的なものは直さなければなりませんが、個性と感じられる……そうですね、舌っ足らずなトーキングロイドというものが受ける場合もあります。音痴のシンギングロイドはいささか問題がありますが、不快に感じられない程度に『この音だけ裏返る』、そうしたバグは『個性』になり得る。想定外の箇所に敏感に反応するセクサロイドというのも、一部には大好評で」
想定された部分なら当たり前なんですがね、と店主は続け、ブロウはもぞもぞした。
「それで、窓の外を見るのは、バグだったとでも言うのか? だから、ヴァージョンアップで……その癖ならぬバグがなくなったとでも」
「ご理解が早いですね。バグとは少々違いますが、かなり近いお話です」
「違う? 違うなら何だ」
「手引きディスクは、ご覧になりました?」
「は?」
「『初期設定の前にご覧ください』というようなことが書かれたディスクがありましたでしょう。あれはいわゆるスタートガイドです。各社共通の、基本手引き」
「あの手のは、見なくたってだいたい判るだろう。ニューエイジロイドなら、俺のじゃないけど設定したことはあるし、あれと同じ感じだった」
「やっぱり」
「……何だよ」
「超はつかなくても高級品なんですから、もう少し慎重にスタートした方がよろしかったんじゃないですか。よそ見は普通、嫌われるんですよ」
「何を言っているんだ?」
顔をしかめてブロウは尋ねた。
「初期設定のひとつに、『待機中の行動の選択』があります。デフォルトだと、『マスターを見て指示待ち』なんですが、ミスタ・ブロウ、あなたは偶然、窓の外を見るようにリズに教えたんだと思いますよ」
「……は?」
「あなたが教えたんです」
店主は繰り返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます