第16話 走れ!ヤマモト!
スピードはともかく、僕は走り続けた。
それも思ったより軽快に。ほかのランナーの人と話したりしてかなり気が紛れているおかげでここまでは苦しさも感じていない。
この会社に入ってから周りの人と話すことなどほとんどなかった(そもそも人との接触は極力避けてきた派だ)僕が、多くの人と走りながら気軽に受け答えしているっていうのも「え? ダレそれ?」っていわれそうなくらい驚きの姿だ。
そんな今の僕の内側はうれしい、楽しい、って感覚70パーセント以上。僕は僕の新しい一面を発見しまくって今に至る。
けれどそれも長くは続かなかった。
走って、走って、走ってもうすぐ競技場、というところでそれは突然やって来た。
練習では経験したことがない、突然感じた身体の重さ。
それと同時に感じたぼんやりとした足の違和感はみるみるうちに輪郭をはっきりさせ痛みとなって形どった。身体の重さも、足の痛みもきっと徐々に僕に忍び寄って来ていたのだろう。
すっかり楽しくなりすぎて気が付かなかった。
あちゃー。来ちゃったか。
実はこういう事が起こるかも、とは小林さんからは聞いていたのだ。
練習での経験は、練習での経験として大事にしてほしいのだけれど、と前置きをして小林さんは話し始めた。
「本番は練習と全く別のものだと思ってほしいんだ。練習での積み重ねは全く無駄にはならないけど、本番の走りの間には思ってもみなかったことがたくさん起こるはずだから」
そんなものなのかぁ……と感心しつつもあまりわかっていなさそうな僕の顔を見て小林さんは少し不安げな表情をしていたっけ。
「大丈夫ですよ、小林さん、多分」
「つまり、長く走り続けたことがない君にとって、本番の走行距離の負担は大きいかもしれないってことだ」
その時僕は小林さんのいう事はもっともだな、って思いながらもこう答えたんだった。
「でも、走らなければいけないことは変わりませんよね? だったら僕は走ります」
そう、だから僕は走らなければ。
小林さんも、課長も、花田さんもきっとゴールで僕の帰りを心配しながら待っているに違いない。みんなには元気に戻る僕の姿を見せるんだ。
ちょっと前とは打って変わって痛む足と重たい身体。走る速度だってもしかしたら健康な人が速足で歩くよりもだいぶ遅いのかもしれない。
呼吸も浅くなっていて、息がうまくできない。トレーニングの最初に小林さんから教えてもらってから、そこだけは気を付けてきた。
だからこそ苦しさのあまり立ち止まってしまいたくなったけど元の呼吸をとりもどそうと僕は自分の身体にすべての集中力を注いだ。
もうすぐ競技場だ。
時間内にゴールしたい。
どうにかこうにか僕は足を前に出し続けた。
どんなにゆっくりだったとしても、一歩一歩足を進めればゴールに近づくのだ、そのことだけを考え走り続ける。朝の課長の言葉を思い出しながら足を出す。
傍から見たら走る、という姿とは程遠い様子には違いないはずだけどもう、周りの目を気にする余裕もあまりない。
僕の手足よ、頑張ってくれ!
湧き上がって来る苦しさと格闘しながら進むことだけを考える。
気が付けばもうしばらく誰からも追い抜かれていない。
きっと僕が最後のランナーなのだろう。
静かになった周囲、かろうじて目にできる先に走る人たち。
戻るべき競技場が目の前に迫ってきた。もうすぐゴールだ。
あぁ、やっと! やっとここまで戻ってこれた。
本当ならここでグッと力をいれてスピードを上げたいのだけど、僕の今の体力ではどうやらムリらしい。それどころか、ゴールが目前だというのに……その足の一歩一歩を出す間隔は長くなり、とうとう僕の足は一歩も前に出なくなってしまった。
両手を膝につきどうにか上半身を支える。
もう一度走り出さなければ。
でも、でも、なんだかもう走れる気が……全然しない。
手を膝に置き上半身を支えたまま、僕の心に一瞬、棄権という言葉が思い浮かんだ。
競技場の手前には運営委員会の人がいるだろうからこのままゆっくり歩いてリタイアすることを伝えたらもうそれでいいんじゃないか?
そうだ。もうそれでいい。ここまでやったんだし、限界だし。
そう決心しかけたとき、
「やーまーもーとぉぉぉー!!」
いつもの、あの、東堂課長の声が響いた。
反射的にびくっとして僕は身体を起こす。目の前の、競技場からこちらに向かって走って来たその人は、声の主、そのものの、東堂課長だった。
え? 課長? は、走って?
課長、確か膝を痛めて陸上辞めたって……。
あっという間に僕のところに来るといつもの課長のテンションそのままに
「おい! 何やってるんだ! ここまで来てあきらめるつもりか、お前」
真剣そのもので僕の目をじっと見ていう。
その気迫に押され、
「いえ、でも、あの……」
思いもよらぬ課長の姿にしどろもどろでいると
「いいから足を出せ。頑張れ! ここまでやって来たお前自身の頑張りを無駄にするな」
そして、ほら行くぞ、と
クルリと身体の向きを変え今度は競技場に向かって走り出した。
僕はつられて走り出した。課長の背を見ながら。
不思議なもので課長にお前の頑張りを無駄にするな、と言われたその一言、そして課長が一緒にいるという事実だけで、僕はまた走り出すことができた。
理由なんてわからない。わからなくていい。必死で僕は課長を追いかける。
あと数メートルで競技場の入り口、というところまできて、突然課長がガクッと崩れ落ちた。
まさか、膝!
僕はあわてて駆け寄ろうとする。
「東堂課長!」
課長のそばで立ち止まろうとした僕を課長は叱り飛ばす。
「あほ! 立ち止まるな! 俺の事はいいからゴールを目指せ!」
「でも、課長膝が……」
「走れ! 山本!! 」
課長はひときわ大きな声で僕に向かって叫んだ。
その声が、用意スタートのピストルの音のようで、僕ははじかれたようにそのまま走り出した。あの課長がここまで来てくれた、僕と伴走してくれた。
今ならわかる、あの人はなんだかんだ言って人の事なんて放っておけないんだ。
足を止めそうになると、
走れ山本! その声が心の中にこだまする。
走らなければ!走ってゴールして、課長に走り切ったと伝えるんだ!
競技場の入り口を抜け、トラックに戻る。
時間はどうだろう、間に合っているのだろうか?
わぁっ!
っという歓声がトラックの客席から聞こえる。
ゴールは目の前だ。
「山本くーーんっ! もう少しだよ! ゴールはここだよー!」
目の錯覚か? という光景が目の前に広がっていた。
ゴールが用意されていた。まだ、用意されたままってことは、制限時間内だよね??
そして、ゴールの向こう側には信じがたい光景が広がっていた。
ゴールの向こう側にいたのは、運営委員会の人だけじゃない! ブンブン手を振るMnoriちゃんだった。
え?
え?
幻覚ですか?
でも、Minoriちゃんがいるなら幻覚でもなんでもいいや。
最後の気力を振り絞って、僕はMinoriちゃんの待つゴールへ向かって駆けだしたのだった。
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