EP29 憐れな女
ところでマリアという名前は聖書に複数存在する。
一人はいわずと知れた聖母マリア。乙女マリア騎士団のマリアはここから取られている。
あるいはマルタの妹マリア。姉の陰に隠れている感はあるが、絵画のモチーフなどにもなっている人気のある聖女だ。
そして、マグダラのマリア。
マリア・マグダレナとも呼ばれるこの女は、罪深い女でありながら、復活したキリストを誰よりも早く見た者でもある。
大いなる謎を孕み、口さがない者たちからはキリストの愛人と侮辱されることすらある女。彼女のその後は少なくとも聖書には記述されていない。
そして、名前に単にマリアとつけた場合は、どのマリアから取ったものかはわからない。たいていは聖母から取ったものと認識される。しかし彼女の場合はその認識が正しいかについて、一考の余地がありうるだろう。
とはいえ通常どのマリアから取った名であろうが関係はない。マリアはマリアで名前以上の意味を持たないのだから。
だが、しかし。一言だけは付け加えなければならないだろう。
神が、罪あるものを憐れんでくださるように。
――時は憲法公布後に戻る。
皇帝は宮廷で新たな侍従長を迎えた。
見た目は普通の町娘といったふうだった。美醜をあえて述べるなら、美しいということもできるだろう。それにどれほどの意味があるかはわからないが。
「はじめまして、栄光あるインペラートル・テオドシウス」
「こちらこそはじめまして、ミス・マリア。しかし栄光という言葉は神にのみふさわしいものです」
皇帝はやはりその鉄面皮をピクリとも動かさずに彼女に相対した。
しかし、憐れな女だと。皇帝は直感的にそう思った。何がとも言い難い。ただ彼女の纏う雰囲気がどこか悲壮で、彼女は本当に強く絶望しているのだと、そう思った。
もっとも、だからどうということもない。ただ彼は淡々とやらねばならないことをする。それが彼の覚悟であって、もはや愛を論ずるべきではない。
「インペラートル。早速ですが仕事を始めたいと思います。本日の予定は――」
滔々と予定を読み上げていく、微妙に作り替えられているのは彼女の判断だろうか。……侍従長と秘書は違うということはこの際言うまい。今は非常時なのだから。
「それで結構。では順番に消化していくことにしましょう」
皇帝はどこか彼女に親近感を感じつつ、初めての対面はつつがなく終えられた。
最初の予定は……、内閣の任命だ。
近代的な政府にあたっては、文字通りの独裁というのは不可能である。遅れた夜警国家でもない限りは、政府の役割は膨大でありその判断を一手に担い、つまり「独断で裁可する」というのは不可能となる。
要するに、近代的な国家において最高の意思決定者である行政の長を決め、その補佐をする大臣を任命し、内閣を組織することなしに公権力の君臨は不可能なのである。
憲法は議会の首相指名権を明文化しており、皇帝はそれを追認し、任命する権利のみが認められている。だが今回についていえばだれが指名しようとそう変わらない。すべては七つの丘の手の中にあるからだ。
議会はルキウスに組閣の大命を下し、その日のうちに閣僚名簿が宮殿と議会に送られた。
――――
閣僚会議議長 ルキウス・セシウス・アントニヌス
官房長官・副議長 ソフィア・レンドルニナ
内務大臣 アリウス・トリニウス・カーラ
財務大臣 ガイウス・ピクシウス・シーナリー
国防大臣 アレクシウス・ゲルマニクス・ピウス
外務大臣 ナルシンス・ポエキニウス・ライウス
――――
福祉国家と大見えを切ったもののずいぶんさみしい名簿になってしまった。だが現在の支出規模を目安にすればこれでも仕方がない。
いずれにしても、ここから帝国の再生が始まるのだ。
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