EP15 城門よ、頭を上げよ
もともとこの地に都市などなかった。
氾濫のひどい中州で、交通の便は良くとも定住には不向き。そういわれ続けて数百年が経つ。
マルクス・ピウスの治世のころ一人の退役軍人がそこを訪れた。
彼は名家の生まれだったが生家を捨て、
彼は
ナイルの恵みを一身に受けるその都市はやがて皇帝によりナイルのカイザリアと命名されたが、そんな無粋な名で呼ぶものはここにはいない。
この都市の名を聞かれたのなら、皆一様にこう言うだろう。ここはカイルによって築かれた町、カイロだ。
建設以来崩されたことのない城門はついに破られた。雪崩を打って詰めかける騎士団は疲れ切っていたが、それでも進撃の手を緩めることはしない。
これから数日は略奪が行われることになるが、籠城戦の果ての陥落だからそれほどとれるものは残っていないだろう。
「総督は逃げたか」
「ええ、彼の身代金を当てにしていたのですが……」
カイロを落とせた感傷などマルコの胸にはもとよりなかった。払った代償はあまりにも重く、現状は限りなく暗い。
「いないものは仕方ないだろう。それよりカイロを落としたのはいいが借金は返せるのか? 一応余裕を持った返済期限にしているはずだが」
「わかりません。このところの市場は完全に予測できず、予想通りでも完済に至るかは微妙なラインかと」
最悪の場合相手が国外であることを逆手にとって
いずれにしても騎士団だけでは決められない。官僚や商人たちとも話をして決めていくしかないだろう。そう、借金したことに怒り狂っているであろう官僚と。
「こういうのをピュロスの勝利って言うんだったか」
マルコは今や陥落した城壁を遥かに見つつ、ため息とともにつぶやいた。
そのころ、アラビアで一人の男が立ち上がった。名をスレイマン・イブン・アラディーン。アッラーの忠実な
剣に長け、乗馬は
地図で見ればアラビア半島は広大だがそのほとんどは砂漠で、何の実りももたらすことはない。それゆえ、食料が枯渇すれば最も困るのは彼らだった。
もちろんペルシャにいるシーア派からも小麦を輸入するし、インド南部から来る米を食べることもある。しかし近隣の小麦が取れないとあれば市場が荒れるのは必至。
元老院から渡されたムスリム迫害の証拠を大義名分にアラビアのカリフはついに史上類を見ない大遠征を決断した。
その目的は表向きはアレクサンドリアの同胞の保護だが、実際にはアレクサンドリア、カイロ、エルサレム、アンティオキア、ダマスカスと大都市の略奪であった。
かくして大アラディンが立ち上がりエジプトからシリアにいたる広大な範囲を侵略すべく大軍を起こした。
その総数はおよそ3万。うち1万ほどが大アラディンの指揮下に入りエジプトを目指す。聖マルコ騎士団には大いに煮え湯を飲まされてきた彼らだが、今回は違う。カイロの包囲戦で疲れ切った異教徒を叩くのだ。必ず勝てる。
亡霊と化した帝国に最後の一撃を加えるのはアッラーの剣たるアラビアの使命。瓦解した帝国から同胞を救い出すのはまさに彼らの仕事だろう。
「アッラーフ・アクバル!」
列の後方で誰かが叫んだのが聞こえた。水すら貴重な砂漠でこれほどの士気を保っている兵士は心強い。
秩序だった行進の行く手を阻むものは何もない。メッカを出発した一行は一月ほどでカイロに到着するだろう。
大アラディン襲来。その報が出回るのは早かった。メッカを出て紅海沿岸を進撃する彼らはまもなくカイロに到着する。
アレクサンドリアの聖座においてあらゆる人は絶望した。もっとも他派閥の間諜は腹の中で笑っていたが。
ともかくアレクサンドリア総主教は未曽有の窮地に立たされた。進退窮まるとはまさにこのことだろう。会戦しようにも騎士団は疲弊しており、食料も集められない。賠償金で講和しようにも金がない。
「コンスタンティノープルに使者を出せ。カイロは最悪の場合には放棄し時間を稼ぐ。連中は略奪に時間を使うことになる」
「彼らの略奪は決まって三日間。それほど時間が稼げるとは思えません」
「黙れ! 何かのアクシデントで長引くかもしれん。市民が協力すればさらに損害を強いることも……」
マルコとてわかっている。もはや挽回は不可能なほどに追い込まれている。コンスタンティノープルももはや打つ手はないだろう。頼みの綱である騎士団も食わせられないのだから役に立たない。
完全に計画は破綻しておりカイロどころかアレクサンドリアも危うい。場合によっては五大総主教座のうち三つが異教徒の手にわたる可能性すら……。
マルコの頭痛は頂点に達し、気を失った。だが、それで状況がよくなるはずもない。幾千もの人命を飲み込んで、食料価格は暴騰を続ける。
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