東上サキの背中

 全国大会でも特に緊張はしない。緊張したって勝率は上がらないからだ。サキに勝つには、感情面まで含めてベストコンディションで挑まねばならない。


 今日もいつも通り起床して、いつも通りウォームアップをし、いつも通りにスタートラインについた。


 今日の大会はサキもいる。だから私はいつも通り、今日こそ彼女を打倒しようと固く決心する。


 スタートラインで真横に並んでいる彼女をチラッと見る。彼女は小柄で私は長身だから、少し見下ろすような形になる。


 白い帽子、黒髪のポニーテール。真っ赤なユニフォームがよく似合っている。顔は結構幼い。本人は幼い容姿をとても気にしているのを私は知っている。


 彼女は全くこちらを見ない。


 周りでスタートを待つ有象無象たちの緊張した息遣いがうるさくて、さっさと置いて行ってしまおうと思った。


 パン、と号砲が鳴る。当然の権利のようにサキと私は第一集団の先頭を走る。


 彼女に勝つこと以外、何も考えていない。


 コースを駆け抜けていくうちに、いつの間にか有象無象たちは遥か後方で息を切らしていて、私と彼女は二人きりになっていた。


 彼女の背中以外、何も目に入らない。


 20km地点。彼女との差は約5m。ふと雑念が頭に浮かんだ。


―――彼女にとって私は、なんなんだろうか。


 サキは友達の多いタイプではない。以前にLINEの友達登録をしたとき、私が10人目だと言っていた。年頃の女子としては破格の少なさだろう。彼女は人見知りするタイプだから、それも仕方ないかもしれない。


 私は彼女の数少ない友人だ。それは間違いない。では、ランナーとしてはどうか?


―――彼女にとって私は、有象無象なんだろうか。


 私にとってサキは特別だ。私の前には彼女しかいない。でも彼女からしたら、私も三位以下の選手たちもみな後ろにいる。彼女にとって自分以外のランナーは、みな平等に有象無象でしかないかもしれない。


 それは嫌だ。彼女に勝てないなら、せめて彼女の中に自分の居場所が欲しい。彼女の脳髄にランナーとして佐川メイの名前を刻み込みたい。


 雑念が脳内を吹き荒れる。走るペースを乱さぬように、一瞬だけ拳を強く握った。爪が手のひらに食い込む痛みで感情をリセットする。


 25km地点。彼女との差は約7m。凪いだ心でただ走る。


 30km地点、彼女との差は約10m。


 30km地点、彼女との差は約13m。


 40km地点、彼女との差は約15m。


 あとだいたい2km。スパートをかける。差を一気に詰めようとし、―――いつもの通り、彼女がグンと加速するのを感じた。


 必死で追う。背中は見えている。差は数秒で駆け抜けられる距離だ。あと少し、あと少しで勝てる。


 必死で追う。サキは逃げる。彼女が必死なのかどうかはわからない。背中しか見えないのだから当たり前だ。


 残り約100m。彼女との差は約10m。彼女のうなじで揺れるポニーテールの、髪の一本一本まで見えるような気がした。


 ゴールテープが見える。彼女との差は10m。その差が絶対に埋まらないことを、私はこの世の誰よりも知っている。


 彼女がゴールする。


 ゴールを数歩駆け抜けて足を止めた彼女が、こちらを振り返った。いつも通りの、なにか安堵したような笑顔。


 一拍おいて、私がゴールする。ああ、きっと私はいま―――ひどく悔しそうな、それでいて好戦的な笑顔をしている。


 一位、東上サキ。二位、佐川メイ。いつも通りに最善を尽くした私は、いつも通りに彼女に敗北した。

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