Tender rain
末野ユウ
『Tender rain』
私の大切な初恋のはなし。
こんなところでするなって、怒られるかもしれないけれど、思い出さずにはいられないよ。
きっかけは、小学六年生のときの運動会。リレーのアンカーだったあなたが、最下位から逆転したのを見てからだ。
当然、私以外にも恋に落ちた子はたくさんいた。そして、告白する勇気のある子も。
でも、あなたは全て断わってたね。
そのまま同じ中学に進んで、あなたは変わらず人気で、私もずっと勇気が出せないでいた。
そんな日々が変わったのは、三年生の夏。
陸上部に入ったあなたと、それを追ってハードルの選手になった私にとって、最後の大会の日。
「なぁ、六年生のときの運動会覚えてる?」
その頃、私たちは悪くはないけど特別良くもない、普通の友達だった。
他の部員がトイレやウォームアップで離れ、偶然二人きりになったとき、あなたが声をかけてきた。
「え? な、なんで?」
「俺さ、あのときが人生で一番速く走れたと思うんだよ。記録じゃなくて、こうなんていうか、俺的に? 人間としてっていうか」
自分から言い出したくせに、頭を掻いて上手く言葉が続かない。
そんなところも、可愛く見えた。
「その、あのときと今と違いってある? あのリレーみたいに走れたら、きっといい記録が出ると思うんだ」
あなたはその頃スランプで、思うように記録が伸びていなかった。
みんなは「大丈夫だ」って励ましていたけれど、あなたの中では不安は膨らんでいたんだろうね。それが本番を前に、抑えきれなくなった。
そうじゃないと、私にあんなこと聞くはずがない。
「う、うーんそうだね。なんとなくだけど……笑ってたと思う」
「俺が? 走ってるときに?」
あなたは目を丸くした。
「その、すごく楽しそうだった。地面を蹴るのも、風を感じるのもすごく気持ち良さそうだったよ」
そのあとに続く「かっこよかった」の言葉を、ギリギリで飲み込んだ。
「そっか……うん、なんかそんな気がしてきた」
「いやいや、昔の記憶だし! あ、あんまり気にしないで!」
納得したように頷くあなたの姿に、とても慌てたのを覚えてる。
「いや、なんか吹っ切れたわ。ありがとう」
ずっと見ているだけだった笑顔が、私にだけ向けられた。
あのとき、本当に心臓が飛び出るかと思ったよ。
「っし! ちょっと体温めてくる! お前もがんばれよ!」
「う、うん!」
あなたに叩かれた肩が、妙に熱く感じた。
二人きりの時間が終わるのは寂しかったけど、離れる背中に見惚れていた。
そして、あなたは自己新記録を出して、全国大会にまで進んだ。
笑顔で走る姿は、運動会のヒーローのままだったよ。
あなたは、そのときがきっかけだったと話してくれたね。
卒業式の日、告白しながら。
嬉しくて、式以上に泣いちゃったよ。あのときの気持ちは、忘れられないなぁ。
付き合い始めて、喧嘩もしたけど全部いい思い出。
追いつけないと思っていたあなたと、手を繋いで歩いて。
立ち止まってキスをして。
愛し合って、お互いを知って。
私はさらにあなたが好きになった。あなたも、そう言ってくれた。
壁にぶつかるたびに、運動会の話を聞いてきてさ。それで自信が出るって元気になるんだもん、おかしかったなぁ。
あなたはいつも笑ってた。
小学生の男の子みたいに。
きっと、あなたにとって生きることは走ることと同じだったんじゃないかな?
今になって、分かった気がする。
私は顔を上げた。
目の前には大好きな笑顔がある。
私が選んだ、あなたの遺影。
その下には、もう走れなくなったあなたが眠ってる。
穏やかな顔。でも、やっぱり私は笑顔のあなたが好き。何年経っても、無邪気でまっすぐなあなたが好き。
あなたは最期の瞬間も走ってたみたいだね。
車に轢かれそうな子供を守るために。そしてあの笑顔で、泣いてるその子を元気づけたんだってね。
走ってばっかりの生き方を、私は変えられなかった。むしろ、愛してしまった。けれど、後悔はありません。
あなたの走る姿に憧れ、恋に落ちたのですから。
――――
出棺の時刻になり、外に出た。
大粒の雨がアスファルトを叩き、太陽を分厚い雲が覆っている。
空模様を嘆く人もいたけど、私はふと笑ってしまった。
聞こえる雨の音が、あなたの走る足音にとても似ていた。
Tender rain 末野ユウ @matsuno-yu
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