五分前に始まった世界で

小里 雪

五分前に始まった世界で

「でさ、今朝起きたときに思ったわけよ。今の私は昨日の私の続きじゃなくて、もしかしたら寝てる誰かの頭に昨日までの私の記憶が上書きされただけなんじゃないかって。」


「や、それは変だよ。だって、今朝鏡を見ただろ。そのときに映ってたのは知らない人だった? 鏡の中の人がきみの記憶の中のきみと同じだったら、記憶も、入れ物も、やっぱり昨日と同じきみが続いてるんじゃないかな。」


「言うと思ったよ。じゃあ、こういうのはどう? 実は私は双子で、秘密裏に私の双子の姉だか妹だかが、うちの屋根裏で育てられていて、今日の私はその子に昨日までの私の記憶が上書きされただけで、実は昨日までとは別人。」


「ずっと屋根裏に閉じ込められてたら、まともに歩けないよ。体つきだって変わっちゃうし。さっき遅れそうになって駅まで走ってきたのは誰だよ。」


「そこはそれ。ほら、記憶を完全に上書きできちゃう科学が実は世界にあるとしたら、じっとしてても体を衰えさせない技術があっても不思議じゃないし。まあ、現実的じゃないのは私も重々承知してるんだけど、要するにね、私は昨日の自分と今日の自分の連続性について、完璧な信頼が持てなくなってしまったんだよ。」


「おれの前にいるきみは、顔かたちもおれが知ってるきみだし、きみの記憶も今話してる限り、おれが知ってる昨日までのきみと矛盾するものは何もないよ。おれの記憶に手を入れられてたりしたら分からないけど。」


「あっ、それかも。すべての人は実は、『起きた瞬間』から『今』を、毎日別の体に入り込んで生きてるわけ。そのときに整合性を持つようにちょっとずつ記憶をいじられてる。双子の妹よりそっちの方がありそうな話かも。海、すごいきれいだね。今どの辺?」


「もうすぐ国府津こうづ駅。でも、それちょっとおかしくないか? ある人が寝てから起きるまで、ずっと見守っている人がいたら、寝る前と起きたあとと別人格になるのを目撃しちゃうよ。っていうか、なんで熱海に行くのにわざわざ各駅停車に乗るんだよ。」


「あんたやっぱり賢いね。言われてみればそうだな。彼女が起きたら言動が全く違う女の子になってて、それなのに記憶の改竄かいざんでなぜか自分のことを知ってるなんて話、あんまり聞いたことないもんね。私に彼氏ができたら確かめられるかもなあ。各駅、いいじゃん。青春って感じじゃん。ゼミの合宿なんてつまんないから、せめて行き帰りだけでも楽しまないと。」


「一人で行けばいいのに、なんでおれまで巻き込むんだよ。まあ、きみは昨日までと同じきみだと思うよ。こんな突拍子もない話をするのも、まるで昨日までのきみとおんなじだしね。なんだっけ、こないだ。『私の心は私の体の中にある必然性は何もない』とか言ってたよね。」


「いいじゃん、どうせあんた暇でしょ。ああ、あの話ね。あのときも暇だったなあ。急に休講になって、でも次のコマがあるから帰るわけにもいかなくて。そうだ。心の話。『クオリア』ってあるじゃない。あれ、別に私の脳の中にできてなくてもいいんじゃないかなって。私の体が外界の情報を受け取ってるのは確かだけど、その情報がクオリアの形で展開されるのは、私の脳じゃなくて別のどこかなのかも。リモートコントロールみたいだけどね。」


「って、体と外界とのやり取りの情報をその『どこか』とどうやって通信してるんだよ。電線ついてないじゃん、おれたち。おれが暇なのは認める。それから、各駅がちょっと楽しいのも認める。」


「私たちが知らない帯域の電磁波とか。あと、まだ私たちが知らない法則があって、それで情報が伝えられるのかも。私たちが知らないからって、それが存在しないことの証明にはならないでしょ。そう、それならクオリアができてそれをもとに記憶が作られているのはあっち側だから、その通信先を別の個体にするとか簡単にできそう。あんたが暇でよかった。クロスシートってたまに乗るといいよね。」


「進行方向と逆向き、辛くないか? 場所、変わろうか? そりゃまあ、おれたちが知らない何かが起こってないなんて証明できないし、意識の主体がこの体の中にないことも可能性としてないわけじゃないとは思うけど、少なくとも『外界とのインタフェースを選んでいる自分』はいないからね、少なくともおれの中には。たぶんきみの中にもいないと思うけど。だから、『おれ』の意識は『おれの体』に束縛されていて、その意識を作り上げたのが『おれの体』に起こった出来事と『おれの体』の組成とそれを決める遺伝情報だけなんだとしたら、それが体の外にあるのは不自然だと思うよ。クロスシート、こうやって話がちゃんとできていいよな。話しながら海も見られるし。」


「大丈夫、ありがとう。私の三半規管は鉄でできている。なんかねえ、不安なんだよ。子どもの頃は楽しいことがたくさんあって、でも、今はそうでもなくて、その二つの時点の私は、本当に連続しているのか、不安になる。『昔』って、本当にあったことなのかなとか。私の『心』って、やっぱり私が決めてなくて、自然に沸き上がって来るからなのかもね。『世界五分前仮説』ってあるじゃん? ラッセルの。あんなふうに、誰かが作った世界が、バンって開始される。私は私の記憶とつながりはなくて、その記憶を持った状態で作られただけ。それはすごく嫌。お母さんにもらった飴の甘さとか、砂場の砂が爪の間に入った感覚とか、そういう大切なものがほんとはなかったかもしれないと思うことが怖い。海、見えなくなっちゃったね。」


「『世界五分前仮説』、おれはあんまり信じてないよ。『今』だけは常に確かで、その『今』が変わって行くのがたぶんおれたちの時間の概念なんだと思ってる。確かなのは『今』だけで、『昔の今』は『今』の自分の中では記憶に過ぎないのかもしれないけど、前の瞬間との関連した『今』を連続して感じているのは、微分方程式を解いて解曲線ができるみたいに、おれたちの中の記憶や意識が連続しているからなんだと思う。手のひら見せて。きみは動かそうと思って、手が動いて行くのを連続して観測している。おれの手が近づいて、触れるのを感じる。もうすぐ静岡県だよ。県境はトンネルだったかな。」


「もう少し話してたいな。電車、もうちょっとゆっくり走ってくれてもいいのにな。ちょっと今信じたよ。私が連続してることを。あんたの手が触るのを待ち受ける瞬間が重なって、暖かい手のクオリアに収束した。指、ちょっと動かしてみて。そう。あんたの指の位置も連続している。」


「そうだな。思ったより早く着いちゃうな。残念。もうトンネルだよ。しかし、小田原を過ぎたらこの電車ガラガラになっちゃったな。この車両、おれたちだけじゃないか? 何? 連続したクオリアの確認? だんだんきみが近づいてきてる。ちょっと近……」


「確かに、連続してる。キスしようとしてドキドキしている瞬間と、唇が触れた瞬間は、連続してた。着いちゃうな、熱海。」


「ごめんな、きみに言ってなかったことがある。この世界、さっきおれが作ったんだ。五分前に。きみがおれにキスしたくなるような記憶を仕込んで。さあ、降りないと。」


「あんたがそうしたっていう記憶を持った世界を、私がその五分前に作ったんだよ。まあ、それ全部、誰かが作ったのかもしれない。寝てる間は意識の連続性が失われるかもしれないから、その間に。今度、私が寝てから起きるまで、監視してて。ああ、海の匂いがするね。」


 五分前に本当に世界が始まったのかどうかは分からないが、二人の世界は五分前に始まった。トンネルに入る前と、トンネルから出たあとの二人は、ちょっとだけ不連続だった。そんなお話。

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