第13話 母の死

 一月下旬の寒い夜だった。

常二は元町のライブハウスのアルバイトを早めに終えて、店で上がりを待っていた美彌と一緒に阪急電車で夙川まで帰った。駅近くのフランス料理店で、常二の誕生祝いの食事をしたあと、美彌を苦楽園の駅まで送っていった。

下宿に帰ったのは十一時を過ぎていた。着替えを済ませて寝る支度をしていたとき、電話が鳴った。

母の親戚と名のる人からの電話だった。それは、母の死を知らせるものだった。

母は、年末から体調がすぐれず、正月明けに入院をしたのだが、容態が急変して、あっけなく死んでしまったのである。進行の早い癌だったと言うことだ。

正月に常二が帰省していたときは、たしかに顔色がすぐれず、調子がよくないが、心配はないと言っていた母が、こんな急に死んでしまうなんて、まったく思いもしなかった。

電話を切り、まだ事態が飲み込めないで、ぼんやりしていると、壁に掛けていたコートが、突然、常二の目の前で、バサッと大きな音を立てて床に落ちた。

その瞬間、常二は、やはり母は死んでしまったのだと確信した。


 その日からの一週間はどうだったのか、よく覚えていない。

電話の翌朝、あわてて田舎に帰り、初めて会う母の親戚と葬式の打ち合わせをした。そして母を送り出し、小さな骨壺となって帰ってきた母をその親戚に託して、帰ってきた、それだけしか記憶がたどれなかった。

ついこの前まで、二人で一緒に生きてきた母が、突然、常二の前から姿を隠してしまった。その事実がうまく飲み込めない。世界中から自分一人だけが騙されているのではないか、終いにはそう思うようになった。


その間、美彌には毎日電話をしていたのだが、美彌が必ず泣き出すので、常二はなだめることばを言うばかりだった。ちゃんとした話は一度もできなかった。


一通りの片付けが終わり、下宿に戻って来た常二は、初めて母の思い出をたどれるようになった。


 母子家庭で、母と常二の二人でずっと育ってきた。

母は、母であり、姉であり、時には父であり、兄でもあった。

美しい母は幼い頃から常二の自慢であった。

小学校で保護者の参観があると、常二は決まって後ろを振り向き、たくさん来ている母親の中で、常二の母がいちばんきれいということを確かめて満足した。

中学校の時に、母が何かの話の中で、お前がおなかの中にできたとき、生まないつもりだったが、人に相談すると止められたので生んだと言ったことがあった。

「生んでくれない方がよかった」と常二が言うと、気の強い母が涙を流した。

それ以来、母を泣かさないと心に決めた。当然、父のことは母に尋ねたことはない。

高校生になると、母の期待に応えたくて、勉強もがんばってきた。

無理をして常二を大学まで活かせてくれた母。そんな苦労が母の身体を蝕んでいたのか。

その母もいなくなってしまった。

常二はこれで本当の一人きりになってしまった。

母は財産を残していなかったので、これからの学費と生活費をどうするかが、目下、最大の悩みになった。


 翌朝は、美彌と会う約束をしていた。およそ十日ぶりである。

十時に北口で美彌と落ち合う。

美彌は神戸線のホームから上がって来る乗客の群れの中から抜け出して、常二を見つけた途端、小走りで寄ってきて、常二の右手を自分の右手で強く握りしめた。

「お帰りなさい」

「待ってたわ」

「今日は泣かないから」

「その代わり」と続ける。

「その代わり?」

「この手を離さないから」


「わかった。いいよ」

「でも、トイレが困る」

「我慢してね」

「それはきびしい」

「美彌も、トイレ行かれへんやろ、それなら」

「あたし?漏らしてやるわ」

「やめろ」


駅から出て、テラス席のあるカフェに行く。

「いろいろたいへんだったわね」

美彌がしんみりと言った。

「ああ、とうとう一人になった」

たちまち美彌の瞳に涙の膜ができた。

「あたしがいるでしょ」

「今日は泣かない約束だよ」と、やんわりたしなめると、

「そうね」と言って黙り込んだ。


「ねえ」と言って常二の瞳を見つめる。

「大学はどうするの?続けるでしょ?」

「そう、続けたいとは思ってる。授業料が払えるかどうかがネックだけど」

「バイトをもっと増やしてがんばってみるよ」


美彌の表情を見ながら、常二は慎重にことばを選ぶ。

「田舎には、もう帰らないつもりだ。こっちで暮らしていく」

美彌の表情が少し明るくなった。

「本当?うれしいわ」

「食べられなかったら、私がごちそう作ってあげる」

「ねえ、今日うちに来ない?早速ごちそう食べさせてあげるわ」

美彌はいい思いつきをしたという顔つきをして、常二を誘った。


「うん、いいよ、今日はバイトもないし」

「でも、ママはいいのかな?急に行っても」

「今日はママお出かけなの」

遠慮しなくていいのよと付け足した。


 それから二人で、夙川に行き、甲陽線に乗りかえて苦楽園に着く。

駅からタクシーで美彌宅に行った。

お手伝いさんも今日はいないという美彌の家に上がると、人気のない静まりかえったお屋敷が、さらに広く感じる。

以前に通されたリビングで、美彌の作ったランチを一緒に食べる。

チキンのグリルとサラダに、何個でも食べられそうな、うまいパンやクロワッサン。

食後のアイスクリームとコーヒーも最高の味だった。

「こんなおいしいものを食べられて、僕はしあわせ」

「うふっ」と美彌は言った。


片付ける間、私の部屋で待っていてと言われて案内された二階の美彌の部屋は、ちょっとしたマンションぐらいの広さがあった。

入ったすぐはリビングで、ソファが置いてあり、そこに座ると、窓から西宮の街が見下ろせた。

部屋は全体がヨーロッパ調で、マホガニー色のアンティークの家具が落ち着いた雰囲気を醸している。

おしゃれな雑貨類が飾られたサイドテーブル、画集や洋書が並ぶ本棚。部屋の奥にはアップライトのピアノが据えてあった。


 常二は美彌と自分の境遇の違いを考えていた。

こんな豪勢な邸宅で、豊かなものに囲まれて育ってきた美彌と、母子家庭で育ち、その母を亡くして、今や身体一つになってしまった自分と。

同じ人間としてこの世に生を受け、これ程の違いがあるのはどういうことだろう。

運命というものがあるのなら、二人の運命はあまりにも違いすぎる。その二人が交わっているのは、お互いに相手のことが好きだという一点だ。中央芝生での偶然の出会いから始まって、今こうして二人、お互いを必要として付き合っている。

そんなことをぼんやり考えていると、壁面に飾られた鏡の中で、美彌の目と、常二の目が合った。

いつの間にか、美彌がドアを開けて部屋に入ってきていた。

しばらく、鏡の中の美彌は動かずに、じっと常二を見つめていた。


その瞬間、常二の心が美彌の気持ちに共振して、大きく動揺した。

塚本が自殺して、常二が落ち込んでいたとき、常二の下宿をひとりで尋ねてきたときの美彌の表情と同じだったからである。


あの時、美彌は常二を救いに来た。

今日の美彌もあの時と同じ目をして常二を見つめている。

そう気づくと、常二は急に胸が苦しくなってきた。


鏡の中の美彌はゆっくり動いて視界から消えて、現実の美彌が常二の前に座った。

そして、美彌の目が常二の目を見据えた。

「ねえ、怒らないでね」

「約束して」

「約束する、怒らない」

「これを使って」

美彌はそう言って、厚みのある封筒を差し出した。

「ちょうど後期分、六十万円入っているわ」


常二は驚いて、美彌の顔を見た。

美彌は首を横に振り、「黙って受け取って」

そして、毎月少しずつ返してくれたらいいからと付け加えた。

「私のお金だから、心配しなくていいの」

「ねえ、お願い、受け取って」

常二は黙り込んだ。

「こんなものであなたを引き止めようとしているのではないの」

常二は頷いて、封筒を受け取った。

「心配してくれてありがとう、借りておく。ちゃんと返すから」

「返さなかったら、大阪湾に沈めるわ」

「やめて」

「じゃあ、返せなかったら、一日、私の言いなりになるのはどう?」

そう言うと、美彌は常二に激しく抱きついてきた。

強く抱きしめると、「うふっ」と言った。


 また濃厚な時間が流れた。

美彌のベッドから抜け出すと、美彌は常二の名前を呼んで、シーツの中から両手を差し出した。

常二はベッドに戻り、シーツをめくると、美彌の豊かな上半身があらわになった。

「きれいだね」と言うと、「うふっ」と笑った。

「お金は、返せなくていいのよ」と言った。

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