第6話 発作
その日も美禰の授業の終わりを待って、一緒に川沿いの道を駅まで歩いた。
駅の近くにクラシック専門の小さなカフェがある。いつもと同じように、二人でお茶を飲み、流れるクラシックの曲を美禰が解説してくれる。
奥のテーブルで、大学のサークルの集まりがいる。突然、店中に響く大きな声で笑い声が起こった。
その声が聞こえた直後に、美禰の顔面が蒼白になった。目がうつろになって、肩で激しく呼吸しだした。
「どうした?具合悪いの?」常二が心配して顔をのぞき込むと、美禰はふりしぼるように「出ましょう」と言った。
立っていられない美彌を両脇から抱えて、会計を済ませて店を出た。途端に美禰は道に座り込んだ。顔を両手で覆って、肩で激しく息をする。
動転してしまった常二は、美禰の背中をさするばかりで、どうしたらいいのかわからない。
「大丈夫か?救急車呼ぼうか」
血の気の失せた顔で肩を振るわす美禰。激しい息づかいが止まらない。
丁度駅に向かうタクシーが近づいてきたので、常二は思わず手を挙げて、車を停めた。
「乗れる?」美禰を支えて右のドアから乗せる。左ドアにまわり、美禰の頭を膝の上に載せて、運転手に急いで苦楽園に向かうように頼んだ。
大学前まで引き返して、キャンパスの中の道を通り、左折する。対抗できないほどの狭い道を通って、長い坂道に出る。そこを下って、交差点を直進して坂道を登る。そこまで細かく運転手に道順を教えて、とにかく美彌の家まで連れて行こうと考えた。
常二は美禰の家を知らなかった。苦楽園のどこかにあるはずだ。近くまで連れて帰れば、なんとかなるのではと思い、祈るような気持ちでタクシーの進む道を見つめた。
美禰の苦しそうな息づかいは変わらず、両目からは涙が流れている。
「しっかり、大丈夫だから」
「もうすぐ家だよ」
「ゆっくり息を吐こう」
おそらく発作を起こして過呼吸になっている。美禰を救ってほしい。神様でも何でもかまわない。美禰を、救って。
タクシーが苦楽園の駅前に来て、常二は美禰の家に電話しようと気づいた。
何度かの呼び出し音のあと、美禰の母親が出た。あわてながら事情を説明し、家の住所を聞いた。すぐにタクシーに向かってもらった。
苦楽園の駅から山に向かってかなり坂道を登った。何度もカーブをまわり、着いた家はびっくりするほど大きな門構えの邸宅だった。付近も豪邸が並ぶ一角だ。
タクシーが門の前に着くと、中から若い女性が出てきて、常二にあいさつをした。
「美彌さん、もう大丈夫ですよ」と言って、美禰を車から降ろし、家の中に連れて行った。
すぐに引き返してくると、その女性は、運転手に万札を渡し、「これでお送りしてください。」と言った。
常二はただ茫然として、運転手に「苦楽園の駅までお願いします」と言った。
美彌の発作から三日経つが、美彌からは何の連絡もなく、常二の電話にも出なかった。大学でも美彌の姿はなかった。
常二は下宿で、あの日のことを思い出しながら、考えていた。
美彌の気に障ることを何か言わなかったか?
会ったときにいつも通りに美彌のことをかわいいと褒めたか?
美彌が嫌がる振る舞いをしなかったか?
答えはすべてノーだ。特に普段と変わったことはない。
では、何が悪かったのか。
常二は何度も反芻した。仕舞いには、手の中の水がすべてこぼれ落ちるように、美彌が常二の目の前から消えていくのではないかという妄想に苦しめられた。
あのカフェで、大きな笑い声が起こったとき、美禰は急に具合が悪くなった。そのことが引き金であるように常二には思えた。
しかし、美彌はなぜ、電話に出ないし、連絡もしてこないのか。電話もできないほど重い病気なのだろうか。
明日には美彌の家に直接電話してみよう、そう決めた金曜の夜、アルバイト先の店に、美和が一人で尋ねてきた。
美和の深刻な顔を見た瞬間、常二は美彌のことで重大な何かが起こっていると察した。
今夜は客が少ないので、店長に頼んで店の席で美和と話をした。
美和は、席に着くとまず、美彌を助けてくれてありがとうと言った。
そして、美彌からと言って手紙を差し出した。
「読んで」と言われて、常二はきれいな模様の便せんを緊張しながら開いた。
美彌の丁寧な字が並んでいる。長い手紙だった。読み終えると、美和は
「あの子はあなたが自分のことを嫌いになると思い込んでるの」
「バカでしょう」美和は言った。
「発作なの。今までに何度か起こしている」
「原因は、その手紙に書いてあることが大きいと思うの」
美和はそう言って、
「今は体調は戻ってるわ」と告げた。
美和は普段とは違って笑顔を見せない。
「そう、よかった」
「それがよくないの」
「心の方が具合悪いのよ」と美和は言う。
「あなたがこれで美彌をいやになって、離れてしまうと思って、泣いてばっかり」
美和は常二の顔を見て、
「どうなの」と詰問する。
「美彌と別れる気?」
「えっ、何で…」
「別れるわけない」
「本当?」
「本当」
「絶対?」「ぜったい」
「持病で発作を起こして、それで別れるなんて事は絶対ない」
「嘘だったら、大阪湾に沈むわよ」
「こんな時に冗談は止めて」
「阪上家の力ならあなた一人くらい消せるのよ」
「だからやめて」
「本当なの?そう、よかった」ホッとした表情を見せて初めて美和は笑った。
「あなたがどんな返事をするか心配で、夕べはよく寝られなかったわ」
美和はそのあと、軽い食事をしながら、常二に美彌と会う段取りを説明した。
月曜の昼に、美彌を連れて行くから、学食のカフェで待っているようにと言うことだった。
「ありがとう、いろいろ心配してもらって」
「あの子とは中学校からずっと友達だからね」と答えた。
店を出る間際、
「美彌を泣かせたら、沈めるから」
「やめろ」
美和は、バイバイと手を振って笑顔で帰って行った。
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