頑張れ、五十路の脚

すめらぎ ひよこ

走れ、おじさん!

「落としましたよー!」


 くたびれたスーツを着た男は、叫びながら走る。手には通勤バッグと、薄水色の財布。前には、この近くにある大学の学生であろう女が走っている。


 何故こんなことになっているのか。話は数分前に遡る。


「財布、落としましたよ」


 それが彼女に掛けた第一声だった。


 男の手には財布が握られている。その財布は薄水色の二つ折り財布だった。特にこれといった装飾は無くシンプルなものだが、可愛らしさを感じる意匠。


 だが、その女は何を思ったのか、一目散に逃げ始めた。男も財布を片手に、必死に追いかけ始める。


 何故逃げられているのか、男は考えた。


 先ほど弁当を買いに行ったコンビニで、彼女は確かにこの色の財布を使っていた。明らかに別物を手渡そうとすれば警戒されるのも納得だが、そうではない。


 いや、そもそも知らない男に話しかけられたのが駄目なのか。


 男の容貌はよく「人当たりがよさそう」と言われ、本人も密かに自慢に思っていたし、それを存分に活用してきた。だが確かに、知らない男に、しかも夜遅くひと気の無い場所で声を掛けられれば、今のご時世誰だって警戒する。


 この近くには大学があるとはいえ、田舎だ。人々の活動が活発な街から少し外れただけで、辺りはひっそりと静まり返る。コンビニは点在しているが、店を出て少し歩けばもうひと気は無くなる。


 そして当然現在のような夜遅くには、ぽつりぽつりとある街灯と、遠くから淡く届く街明かりによって心細く照らされているのみ。


 追いかけっこが始まったのは必然だったのかもしれない。


 そして話は今に戻る。


「財布! 財布落としましたよ!」


 もう一度叫ぶ。もう一度無視される。


 もしかして自分の後ろに恐ろしいがいるのではないか。そんな馬鹿げた想像をして、走りながらちらりと後ろに目を向ける。


 当然、何もいない。やはり自分が原因で逃げられている。そう確信した。


 汗が噴き出す。膝が痛い。くたびれたスーツがさらにくたびれる。


 五十を過ぎた身体には、若者との追いかけっこは厳しい。全身の筋肉と関節が悲鳴を上げている。


 頑張れ膝軟骨。男は心の中で膝軟骨を激励した。


「誰かー!」


 ついに前を走る女が助けを求め始めた。


 今までとは違う種類の汗が噴き出す。


 このままではまずい。そう思った矢先、女の足がもつれ、こけた。バッグの中身が散らばる。


 男は急いで駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


 見たところ軽く擦り剥いているだけだったが、見えないところに怪我をしている可能性もあった。


「近寄らないで!」


 拒絶の声。


 その声に些か傷つきながらも、財布を女の目の前に出す。


「はあ、はあ……。財布を届けようとしただけだって……」


 すると女は、ようやく落ち着きを取り戻し、立ち上がった。息がそれほど上がっていないのは、若さゆえか。


「す、すみません……。最近不審者が出るって聞いたので、思わず……」

「いいっていいって。いやあ、もうちょっと怖がらせない方法考えないとなあ」


 男は冗談めかしながらそう言い、女は安堵のため息をつきながら財布を受け取った。


 それから女は屈みこみ、道に散らばったバッグの中身を拾い始めた。流石に女性の私物に勝手に触るのは気が引けるのか、男は「拾おうか?」と申し出たが、女はやんわりと断った。


 そして女は青ざめた。今、男から渡された財布と、色や形が似た財布を見つけたからだ。


 逃げよう。そう思う間もなく、女の背中に鋭い痛みが走った。


 声も出せず、女はその場に倒れる。


「なかなか成功しないなあ。別の方法考えるしかないか」


 男は女の背中からナイフを引き抜くと、もう一度深々と突き立てた。


「最近の子は警戒心が強いなあ。昔はこのやり方で逃げられることなかったのに」


 引き抜いた血塗れのナイフをハンカチで拭い、女に渡した財布を回収した。それらを足元に置いていた通勤バッグの中に無造作に放り込む。


 バッグの中には、流行りの財布が何種類も入っていた。

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