第15話 パリの長過ぎる一日(前編)

 朝食のことをよく覚えていない。

 この旅行中に食べたものはみな美味しかったので、この日の朝食も美味しかったはず。


 これからTGV(高速鉄道)でドイツに向かって移動すること、トニオさんが運転するバスともうすぐお別れすること、だからパリの駅で降りるとき荷物を絶対忘れずに回収しなければならないこと……などで頭が一杯だったのだろう。

 

 パリ駅に着いた。

 ここから高速鉄道で、国境の街ストラスブールへ向かう。ライン川を越えたらドイツだ。そのときパスポートを提示する必要はない。素晴らしき哉シェンゲン条約!

 ワクワクしながら待つ一行。

 撮り鉄の旦那さんが窓から写真を撮るのを楽しみにしている。


 そこへ思わぬ事態が!

「私たちの乗る予定だった列車は、ストで運休になります」

 そのために私たちのチケットはキャンセルされたとのこと。

 

 代替案は「次の列車に素知らぬ顔で乗る」というかなり無茶なものだった。しかも一等車(本来の予定は二等車)。そのチケットを持った乗客が来ないはずがないのだ。

 次の列車は出発よりもかなり早い時間にホームに着いた。

 もちろん私は……乗りました。一等車に。

 同じツアーの他の人たちが見える範囲の席にいるのを確かめ、目立たないようにキョロキョロしないように気をつけながら。


「みんな下りることになったら取り残されないように注意していよう」

「もし他の皆が乗っていられて私だけ追い出され、合流出来なかったらどうなる?」

「もし二等車以下に私たちの人数分の空席があれば私はそれでもいいのだけれど……?」

 こうした不安を口に出すこともできないのだった。


 添乗員さんと駅員さんの話し合いが続き、徐々にヒートアップしてゆく。やがて口論になり、怖いような剣幕だった。ツアーのお客のなかで語学の達者な人がその様子を知らせてくれる。

 その時のことをノートにメモしてあった。


「『チケットを見せろ! さもなくば移動しろ! 警察を呼ぶぞ!』(要約)と言われる騒ぎになった。本当に警察が来たのでみんな下りた」

と書いてある。


 こう書いてみると「ホンマかいな」と思えてくるが、少なくともメモしたときは実体験として書いていた。

 もし事実と違う点があるとしても、私含め誰がどの段階で勘違いしたり話を盛ったりしたのか、今となっては分からない。

 

 下りたときはむしろホッとした。



 バスで行くことになった。

 さっきの撮り鉄さんは悲しそうだ。

 それもバスの運転手さんに都合をつけて来てもらうのが何時になるか分からないとか。

 とはいえ今日は非番だったはずの運転手さんがわざわざパリからシュトゥットガルトまで乗せて行ってくれるというから、感謝すべきことだ。

 添乗員さんとアシスタントさんの交渉力やら人脈やらの賜物だろう。

 ストは労働者の正当な権利なので誰もわるくないが、皆余計な苦労をしている。とくに休日返上した臨時の運転手さん……。


 ストラスブール観光は中止になった。シュトゥットガルト観光も予定通りにはいかないだろう。そのことにはすんなりと諦めがついた。

 さっきの騒ぎや、ドイツへの旅程が大きく変わることの衝撃が上回ったからだろう。

 


 その反面で、パリの駅ナカを観る時間が増えた……と呑気に構えていた。

 駅ビルにも色んなお店がある。

 交代で荷物の番をしながら、買い物をしたりトイレに行ったりすることになった。荷物番にはだいたい3人以上いるようにしていた。添乗員さんは携帯電話を使うとき電波の通りが良いほうへ移動する必要があるが、それ以外はなるべく荷物番と一緒にいてくれた。


 私もしばらく買い物に出ることにした。

 かねてから部屋着が欲しいと思っていたので、探しに行く。私は身長が高いので、もしかしたら日本にいる時よりサイズの合う服を見つけやすいかもしれない。しかしどうやら私は過剰な期待をしていたようだ。

 どうせ買うなら日本に帰ってからも日常的に着たくなるような、似合うことと好きなデザインであることを両立する服が欲しい。

 それも部屋着だし、あまり値段の張らないのが良い……。

 そんな好都合な服は無かった。


 洒落た雰囲気の書店もある。

 結局何も買わなかったが、一冊、気になった本があった。

 いまとなってはおぼろげなイメージだが、そこそこ厚い単行本で、赤い花弁のようなものが表紙の真ん中に鋭い線を描いていた。

 推理小説だった気がする。

 旅行中には読まないだろう。そもそもフランス語を読めない。

 何より、私が惹かれたのはその本の内容以上に「パリ駅のお洒落な書店」だという自覚があった。


 荷物番に戻る前にトイレを済ませる。有料だが出口で料金分のクーポンをもらえた。サービスエリアのトイレと同じ会社だ。


 戻ってからは、雑談しながら、添乗員さんが携帯電話を使うたびにバスの到着の知らせを期待した。

 まだバスは来ない。




(次回、今度こそ国境を越えるはず)



 









 

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