窓辺のキミ

不立雷葉

窓辺のキミ

 彼女に気付いたのは梅雨に入ろうかという六月初めの事だった。

 放課後になり下足室を出たときの事、僕の鼻は水の匂いを感じ取った。

 雨が近いのだろうか。空を見上げてみれば低い空に重苦しさを感じさせる黒に近い灰色の雲が立ち込めている。


 これは間違いなく一雨来るだろう。

 朝、登校前に天気予報を見てはいたが雨の予報は出ていなかった。なので僕は傘を持ってきていない。

 学校から家まで歩いて大体三〇分というところ。もちろん走れば短く出来るけれども、そんなに長くは走れない。それにどっちにしたって途中で土砂降りに合いそうな気がした。


 降った所でどうせ長く降る事はない気がする。だったらここで雨が降り、そして止むのを待っても良い。それか傘を持っていそうな友達を探して一緒に帰るか。

 空を仰ぎ見ながらそんな事を考えている時、校舎の三階の窓が目に入った。

 そこでは一人の女子生徒が憂いを帯びた表情で頬杖を付き、グラウンドを見下ろしている。距離があるはずなのに、不思議と彼女の顔はよく見えた。


 ショートのウルフヘアに大きな丸い目、吊り上がり気味の眉は快活に見えて、スポーツをしていそうな印象を僕に与えた。けれども彼女のいる三階のその窓は、運動とは縁の遠い図書室なのである。

 そのアンバランス感が興味を引いた。何年の何組、名前はなんというのだろう。気になった。


 彼女の顔立ちが好みだったというわけじゃない。彼女が浮かべるその憂い方、陰がありどこか気だるげな表情。同じ高校生、同年代とは思えず、心が惹かれた。

 一目惚れ、というやつなのだろうか。

 自分の中に湧き上がってきた気持ちの正体、それが分からず名づけ方も分からない。一体なんだろうか、心臓の音が大きくなって胸を押さえる。


 鼻をつく水の匂いがさらに濃くなる。空に視線を戻せば雲はほとんど黒色で、音と共に雲の隙間に光が走った。

 ゴロゴロピシャン。

 大粒の雨が降りはじめ、地面を叩く音が五月蝿い。慌てて下足室の中へと舞い戻る。


 歩き始めなくって正解だった。例え傘を持っていようとも、この雨足じゃずぶ濡れになっていた。

 周りを見れば、僕と同じように傘を持っていない生徒が思案顔で空模様を窺っている。きっと僕同様に時間の潰し方でも考えているのだろう。

 下足室にあるのは下駄箱だけ、ここにいたって仕方がない。教室に戻れば残って遊んでいるクラスメイトがいるだろうし、彼等に混ざって雨上がりを待とう。


 そう決めて階段を上ったはずなのに、僕の足は教室のある四階ではなく三階で止まっていた。あと一階上がるだけ、なのに不思議と足を向けようと思わない。

 頭の中に浮かんでいたのは図書室と、その窓から外を眺めていた彼女の姿だった。

 雨が上がるまでの暇つぶしに図書室に行くのは変な話じゃない。だからこれは、全くそんな邪な気持ちではないのだ。彼女の姿を近くで見たい、なんていう不純な動機では決してないのだ。


 誰でもない他ならぬ自分にそんな言い訳をしながら、僕は図書室へ向かっていた。

 中に入ると受付にいた図書委員が、一瞬だけ訝しげな視線を送ってきたが気にも留めない。僕の視線は窓際に並べられた読書や自習をするために置かれた机に向かっている。

 彼女はそこにいた。四人掛けの机に一人、手許に文庫本を置いているけれど目を向ける様子はない。下から見上げた時と同じように、彼女の視線は窓の外へと向いている。


 気付かれない程度に彼女を見ながら、僕は本棚の間を巡り本を探した。何でも良かった、普段から本を読むわけじゃないから何を手に取ったところで一緒だ。

 そんな中で手に取ったのは文庫本の江戸川乱歩全集だった。図書室に置かれている本にしては新しい部類のようだったし、作者の名前をどこかで聞いた気がしたから、というそれだけの理由。


 文庫本を手に取った後は、それとなくを装って彼女の後ろにある机に、彼女に背中を向けて座った。

 本を開く、中を読むわけじゃない。意識は背中に向けていた。

 そのはずだったのに、意外と本が面白くって気が付いたら彼女に気を配るのを忘れてしまっていた。本の世界から戻ってきてみれば、下校時刻の五分前。外の雨も止んでいた。


 背中に人の気配はない、椅子から立ち上がりつつ後ろを見れば案の定、そこに彼女の姿はない。

 近くで顔を見るチャンスを逃した事に落胆し、その日の僕は帰宅した。

 


 そして次の日の放課後も、僕は図書室にやって来た。

 彼女がいるだろうかと緊張していたが、彼女はいた。同じ席で、変わらず窓辺に座って本を読まずに景色を眺めている。

 僕は昨日と同じ、江戸川乱歩の全集を持って彼女の後ろ、背中を向けて座って本を読む。本当は向かい合わせになるよう座りたいのだけれど、そうするとバレてしまうので怖かった。


 放課後から下校時間まで大体三時間ある。それだけあれば、例えばトイレとかで離れる事があるだろう。そのタイミングで彼女の顔を間近で見られるに違いない。

 そう期待していたのだけれどその機会は訪れなかった。それでも下校時間になれば、その時がやって来る。と、思っていたのだけれど逃してしまった。

 気付けば彼女の気配は無くなっていて、それとなく後ろを振り返ってみればいないのだ。本を読みながらとはいえ気をつけていたのに、あまり気配を感じさせない人だった。


 そこから僕の図書室通いが始まった。

 ただ近くで彼女の顔を見たいだけ。放課後になれば図書室に向かい、棚から江戸川乱歩を手にとって、彼女の後ろの席に背中合わせになるように座る。

 僕には嬉しい事なのだけれど、不思議な事に彼女はいつも居た。放課後になるやいなや足早に図書室に向かう、彼女は必ず窓の外を眺めている。僕の方が早かった事は一度もない。


 毎日、毎日その繰り返し。夏休みが始まり、終わり、二学期が始まってもそれが続いた。

 いつしか壁を感じるようになっていた。僕の背中と彼女の背中、そこに高くて固い壁があるようだった。

 彼女は僕を見た事はない、ずっと窓の外を向いている。けれど僕の存在に気付いていないはずはない。だから、顔馴染みにはなっているはずだ。


 だったらそう、例えば「いつもいますね」とか、そんな言葉で話しかけたってきっとおかしくはない。でも出来なかった。

 背中と背中の間にある壁がそれを阻むのだ。彼女を意識すると壁も意識する事になり、そうして僕は焦がれてゆく。

 そんな日々がずっと続いていたが、壁が壊れる日がやってきた。壊したのは僕じゃあない、彼女のほうからだった。


 一二月の初めの頃、習慣のように本を手に取り彼女の後ろに座る。毎日座っているせいだろう、固い木の椅子なのだが体に馴染むようになっていた。

 ページを繰って印刷された文字を滑らせて行く。その時、背後から声を掛けられたのだ。


「君、いつもいるよね」

 初めて聞いた声は薄く透き通っていた。


 向こうから話しかけられるなんて思っていなかった。心臓が一際大きく鳴ると同時に僕は肩を跳ね上がらせて振り返る。

 初めて、間近で彼女の顔を見た。吊り上がり気味の眉に大きな丸い目、白い肌に薄桃色の唇。心臓の鼓動が治まらない、彼女の瞳に吸い込まれそうで顔が熱くなるのを感じる。


「それ……江戸川乱歩だよね。好きなの?」

 彼女の指が僕の持っている本を指差す。

 言葉が出せずに頷くしか出来なかった。


「そう、面白いよね乱歩。私も好き」

「あ、あぁ。そうなんですね、面白い、ですよね」

 何とか言えたその言葉、自分でも声が上ずっているのを感じる。

「もしかして、邪魔した?」

 眉間に僅かな皺を寄せながら彼女は首を傾けた。


 邪魔になっている何て事は有り得ない、全く持って有り得ない。僕は、彼女の顔を見るためだけにここに来ているのだ。さらに今、声まで聞けて会話が始まっている。

 嬉しい事はあっても、邪魔になるなんてことはない。それが本音、だけど口に出すわけには行かない。言ってしまったらただの気持ち悪い奴だ。


「いや、そんなことないです。ただいきなりだったから、つい驚いちゃって」

「そっか。いきなりだったもんね、まぁいいや。あなた、サイトウ先生は知ってる?」

「サイトウ先生ですか……? それ、現代文のサイトウ先生?」

「そう、そのサイトウ先生」


 生徒だったら知らないはずはない、僕ももちろんながらサイトウ先生の事は知っている。

 現代文のサイトウ、生徒からの評判は良くも無ければ悪くもない。授業中の私語さえしなければ注意する事のない先生で、現代文の時間を昼寝タイムとしている生徒も多かった。


「そのサイトウ先生がどうしたんですか……?」

「これを渡して欲しいの」

 彼女は一冊の文庫本を僕に差し出す。タイトルは初恋、著者名はツルゲーネフとある。海外文学らしかった。


 さておき、理由が分からない。受け取らずに、僕は視線を本の表紙から彼女に戻す。

「自分で渡せば良いんじゃないですか……?」

「そうなんだけど、ダメかな?」

 上目遣いになる彼女、こんな目で見られて平静を保てる男子はいないだろう。僕だってそうだ、加えて弱みがある。


 せめて理由を聞けよ、と自分に対して思うのだけれどそこまでの積極性を僕は出せず、結局本を受け取ってしまった。

「ありがと」

 頬を緩められると、僕の抱いている感情を見透かされているのではないかという気がしてきた。そんな事、あるはずがない。


 下心がないわけでもなかった。

 僕と彼女には接点がない。この半年近くの間、同じ空間に居たけれども背中合わせで目が合ったこともない。サイトウ先生に本を渡す、ただそれだけの事でもこれからの切欠になるのではないか、そう期待したのは事実だ。


「ちょうど明日、現代文の授業があるんで……その時に」

「そうなんだ。グッドタイミング、ってわけだったのね。それじゃあ、そのツルゲーネフ。ちゃんとサイトウ先生に渡してね」


 彼女はそう言い残すと立ち上がり、図書室から足音一つ立てずに出て行った。図書室に通いなれているだけあって、静かな歩き方を心得ているのだろう。

 僕は初めて見る、変な言い方だけれど動いている彼女に感動を覚えて、その後姿に見とれていた。


 彼女が見えなくなってから、改めて渡された本に視線を落とした。

 古い本らしくて、表紙は色褪せていた。何度も何度も繰り返し読まれたのだろう、ページの端も擦り切れている。

 どんな本だろう、彼女が読んでいたに違いない一冊。内容が気になって、適当なページを捲ってすぐに閉じる。翻訳文ということもあって、読書慣れしていない僕には難しかった。



 翌日の五時限目が現代文の授業だった。授業が終わると、いつもそうしているようにサイトウ先生は教室を出ようとしたが、僕は先生を呼び止める。

 振り返るサイトウ先生は意外そうな表情を浮かべていた。生徒から呼び止められるなんて、滅多にないのだろう。


「何か質問でもあるのかな?」

 僕は首を横に振り、図書室の彼女から渡された本を差し出す。ツルゲーネフの初恋。


「ある人からこれを先生に渡して欲しいと頼まれまして」

「ん、あぁそう。とりあえず受け取るけど……」

 サイトウ先生は僕から本を受け取ると、表紙そして裏表紙を眺めて本を開く。眉間に皺が寄っていた。


 パラリ、パラリ。ページが捲られる、中身を読んでいる速さではなかった。けどページを繰る度に、サイトウ先生の表情が曇っていった。


「どこの誰から、これを……?」

 低い小さな声で、サイトウ先生は他の生徒の目を気にして、僕を見ずに教室中を見渡しながら言った。

 まったく想像していなかった教師の反応に、僕はたじろいでしまう。


「図書室で……女の生徒から、何年の何組とか、名前も知りません」

 サイトウ先生は僕の目を覗き込む。悪いことをした覚えはない、けど何かを疑われているようだった。

 でも僕は本当の事しか口にしていない。目を泳がせてしまったけれど、サイトウ先生から目を逸らそうとはしなかった。


「本当にそれだけか?」

「それだけです、ホント頼まれただけで……。それ以外は、なんにも」

 サイトウ先生の中で僕への疑いは晴れたのか、溜息を吐いていつもの顔に戻る。

「そうか、じゃあ忘れてくれ」

「えっ?」


 僕の素っ頓狂な声が聞こえてないはずがないのに、サイトウ先生はそれ以上は何も言わずに足早に教室を出て行ってしまった。僕には何が何だか分からない。

 サイトウ先生と図書室の彼女に関係があるのか。それともサイトウ先生にとって、ツルゲーネフの初恋は特別な意味を持った本なのか。さっぱりわからない。


 けどこれで、僕は彼女の頼みを果たしたと同時に、会話の口実を得る事が出来た。

 サイトウ先生に言ったとおり、僕は彼女の名前も、学年も知らない。でも放課後の図書室に行けば会えると信じきっていた。今日、本を渡したという報告から、上手くすれば友達になれるかもしれない。


 そんな思いで放課後の図書室に浮き足立って行ってみれば、そこに彼女はいなかった。いつもの席には誰もいない、でも彼女が使っていた机の上に紙が置かれている。

 近づいてその紙を手に取った。

 ありがとう、その言葉だけが女の子らしい丸文字で書かれていた。根拠はないけど、これは彼女が僕にあてたものだとすぐに分かる。


 どこかに、例えば本棚の間とか、そういう所に彼女がいるんじゃないか。そんな気がして探してみたけど、図書室には受付の図書委員がいるだけで他には誰もいなかった。

 落胆から肩が落ちるのを自覚しつつ、普段と変わらずに僕は江戸川乱歩を手にとって彼女が座っていた席の後ろに座る。

 結局その日、彼女は図書室に現れなかった。


 次の日も、その次の日も。

 卒業するその日まで、一縷の望みを持って放課後の図書室通いを続けた。けれど、彼女は二度と姿を現さなかった。ツルゲーネフを僕に託して、彼女は来なくなった。

 学年も、名前も分からずに、初恋は始まりを告げることなく終わりを遂げた。

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