走り去る酉

宮嶋ひな

焼き避ける空

 人はなぜ飛べないのだろうか。


 有史以来、人間は空に憧れ、空に囚われ、空に魅せられてきた。


 だが、自らの身の外にあるものは換えようがなく、望むことすら叶わなかった。


「もっと走ってー!」


 ああ、其処で叫んでいるのは、幼馴染みの雪子か。


 彰三しょうぞうは顔を上げた。皮膚を舐める熱波が髪を焦がす。赤々と燃え上がる西の空には、小蠅のようにちらちらと輝く銀色の戦闘機が、哀れな彰三を見下ろしていた。


 走る。走っている。足がもつれても、止まらず、止まれず、走り続ける。


 頭上から、B29の羽音がした。ぶぅーん、ぶぅん、と低い音が耳障りだ。超低空飛行で、日本本土への爆撃作戦を遂行している。


 燃やされる。燃やし尽くされる。彰三と雪子が遊んだブランコが。二人の名前を彫った桜の木が。


 学校が、家が、川が、街が、人が、燃えていた。


「もっと早くー!」


 一足先に避難していた雪子は、どんぐり山のてっぺんからありったけの声を出して叫んでいた。彰三は走っていた。人生でいち、真面目に走っていた。学校では常にどべの足の遅さを恨む。恨むが、恨んでも足が速くなる訳ではない。


「ぅあっ!」


 普段から活発ではないことが、ここで裏目に出るとは思わなかった。彰三は何かにけつまずいて、盛大に転んだ。


 その途端、彰三が後生大事に抱えていたものが地面に散らばった。ばらばら、じゃらじゃら。石と土の上を奔る大量の銭が、彰三の努力を嘲り笑った。


しょうちゃん、そんなのいらない、早くはやく!」


「でも、これは!」


 ――二人の駆け落ちのためのお金だったのに。


 それは秘めたる彰三の夢。努力の階。遠くない未来の出来事となるはずだったもの。


 逃げ遅れたとしても、どうしても彰三はこの金を諦めることができなかった。家の者にも内緒で隠しきるために、裏山の木のうろに入れておいたのがいけなかった。取り出すのに時間がかかって、雪子と離ればなれになってしまったのが、いけなかった。


「いやああぁ!」


 雪子の悲鳴。彰三は起き上がる。だが痛みに呻いて、うまく膝に力が入らない。はっとして足下を見やれば、飛び散ったガラスで切れた足首から、どくどくと血が流れていた。


「離して、離してください! 彰ちゃんが!」


 おさげの雪子は、紋付き袴の男たち二人に囲まれていた。赤い牡丹が浮かんだ白い着物姿の雪子が、必死に抵抗しようとしていた。


「待ってください、ああお願いします、連れて行かないで!」


 雪子の家の者が追いついてきたのだ。彰三は身近にあった鉄の棒を拾い上げ、それを杖にして這々の体で走り出した。  


 走っても、尚走ってもその差は縮まらず、雪子の牡丹が遠ざかる。


 僕たちが何をした。僕が雪子を愛したのは、これほどまでの罪だというのか。


 思いが心を埋め尽くす。心は澱んで足を取る。


 逃げ狂う人々が彰三を走り抜き、追い越し、一つの大波となって彰三を飲み込んだ。


 ぐるぐる、くるくる、世界が廻る。


 走る人々の蹴鞠となって、彰三は二転、三転、転がりすさぶ。腹をどしんと蹴られ、肺に砂が詰まったように息が吸えなくなる。


 かみさま。僕が飛べたなら、どれ程良いでしょう。


 彰三は途切れる意識の中でそう願う。


 かみさま。空を飛んだら、あの銀の蠅を撃ち落として、討ち払って、世界に平和をもたらすでしょう。


 人々が去った通りに、ぼろきれのようになった彰三が転がっていた。すり切れ、汚れ、血にまみれ、もはや立つ気力もとうに潰えた。


 かみさま。飛べなくてもいい。羽がなくてもいい。立ちます。歩きます。走りますから、どうか、どうか雪子のもとへ行かせてください。


 白い着物に、赤い牡丹。駆け落ちする日に着るはずだった、晴れ衣装。髪を結い上げてかんざしをさすのよ、と笑う雪子の声が聞こえてくるようだった。


 かみさま。どうか、どうか。


「彰ちゃん」


 霞んだ視界の先に、白い人影が見えた。それは近づくことに鮮明さを増し、赤い牡丹が描かれているのだと、はっきりと見て取れた。


 雪子だ。


 どういうわけか彼女は、楚々として其処に立ち、彰三の元に歩いてきた。


 ばかな。戻ってきたのか。どうしてここに。


 彰三の焦りと混乱をよそに、雪子は彰三の元にたどり着くと、白い着物が汚れることも厭わずその場に座り込んだ。


「彰ちゃん、もう走らなくていいのよ」


 寂しいような、悲しいような、優しい雪子の声。


 そうなのか。僕はもう、立って、この役立たずの足を動かして、せっせと走らなくてもいいのか。


 それは良い報せだ。彰三は鉄の塊のようになった全身から、ふうっと力を抜く。もはや指一本、まぶたの一つも動かせそうになかった。


 雪子は、彰三の頬に触れた。冷たくて、ひんやりとしていた。


「もう、走らなくていいの……」


 雪子はうわごとのように繰り返す。そして彰三の手を、そっと握ってくれた。


 ああ。それは良かった。もう本当は疲れていたんだ。疲れて、疲れ切って、もう一歩も走れないんだ。


 少し眠ろう、夜の緞帳を下げて。もはや雪子の声以外に聞こえるものはなし。静寂と、平穏が、ここにある。


 雪子は微笑んだ。そして彼女もまた、そっとまぶたを閉じる。


 雪子の結い上げられた髪には、牡丹のかんざしが揺れていた。

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走り去る酉 宮嶋ひな @miyajimaHINA

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