第2話 人として限られた生活

 僕が長老から、あの菌を植えつけられ、数日が経過した……。


「──ねえ、瀬三居せみい君、聞いてるの?」


 あっ、そうか。

 今は個体番号731じゃなく、この呼び名が僕の名前だった。


 首根っこまで伸びた黒い前髪を目線まで垂らし、特に目立たない地味な青年の顔つきだが、僕は見事に人の姿になれたんだ。


 人間になって、数日が過ぎたのに未だに実感がわかない。


 なぜか、最初から夏服を着ていたのは、何かしらの都合なのかは、よく知らないけれど……。


 ──あれからこの体になって、行く宛てをさ迷い、学校の近くで熱中症になりかけて倒れていたところを、この下校中の女の子に介抱させられ、こうして偶然にも僕の好きな女の子、天埜川邪音あまのがわじゃねとようやく知り合った。


 これぞ、まさに運命の赤い糸を感じさせる出会いだ。


 天埜川さんには悪いが、僕には両親が遠方に転勤して状況で、現在は高校を卒業し、就活中で親の仕送りにて、ひとり暮らしをしていると伝えてある。


 だけど、早くも下校帰りの彼女のお薦めで入ったファミレスで僕に危機が迫っていた。


「ねえ、どのご飯にするか早く決めてよ。私、お腹ペコペコでさあ……」


 もう一度、天埜川さんが差し出したお店のメニュー表を端から隅々まで目を通す。


 幸い、大人になったら天敵になる人間の言葉を理解することに対し、地下の学校の授業で外来語や、人間の好きな食べ物の勉強をしたかいがあり、これらのメニューは理解でき、難なく読める。


 しかし、いくら読んでもの店の料理はなぜか食べ物系のみ。

 野菜のスムージー、コーンスープとか、そのような飲める食べ物はない。


 僕はこの体になっても、見た目が人間になっただけで、消化方法は元のセミのように口から栄養を吸い取る食事作法。


 物を食べれるような咀嚼そしゃくが器用にできる体ではないことに正直、焦っていた。


 だからと言って野菜ジュースだけを頼もうとしても、『ちゃんとご飯食べてる? 今日は私がおごるから何かご飯食べなよ』と心配されて、このような有り様だ。


「だったら夏野菜のペーストたっぷりのグリーンカレーライスにしようかな。じゃあ、僕はちょっとトイレに行ってくるから」


 野菜をトロトロにまで煮込んで形を溶かしたカレーなら何とかいけるはず。

 後は即興の思いつきの作戦通りに手はずを整えるばかりだ。


「分かった。オーダー通すね」


 ──彼女が店員さんに注文を伝えている最中に、僕はレジの近くで接客を終えた他の店員を呼び、レジ袋を1枚頼むことにした。


「分かりました。レジ袋は有料ですが、よろしいでしょうか」

「ああ、後から、あの僕の連れが払うからさ」


 僕は親指でクイクイと邪音に視線を向けさせる。


「……ははーん。ヒモですか。男として最低ですね」

「はあ、何か言った?」

「いえいえ、風の噂でしょう」


 そう言って、その店員さんは調理場に隣接したカウンターへ、オーダーを伝えに行った。


****


 僕が戻り、テーブルの椅子に座ると、

まるで見計らったかのように、すぐに温かな料理が運ばれてきた。


「やーん、どれもこれも美味しそう♪」


 僕の方はカレーだったが、彼女の方はケーキやパフェなどのデザートだらけ。

 肝心のご飯はどうするのだろうか。


「あのさ、主食はの?」

「うん。女の子はデザートとご飯は一緒だから」

「それは別腹ではないのかな……?」

「そういう瀬三居君こそ、こんな暑い日にカレーじゃん」

「いや、他に食べれる物が……」

「まあ、いいじゃん。食べる時くらい、お互い詮索はなしってことで♪」


 天埜川さんはデザートに四角い物を近付けて何やら小言を向けている。


「何々、このスマホが気になるの? まあ、今月出たばかりの新機種だからね」

「へえ、それがスマホって言うんだ?」

「なに、その目は。まさか、未だになの?」


「えっ、が何だって……?」

「うん、は関係ないよ?」


 あっ、しまった。

 つい、本心が漏れてしまった。

 どう挽回するべきか……。


「なら、特別に触らせてあげるよ」


 彼女は深くは問いたださず、僕にその代物を差し出してきた。


 長方形のはんぺんのような機械に何やら映像がはめ込まれている。

 作りもそれなりに丈夫で手にもしっくりと馴染み、それほど重くもない。


「そうだ、せっかくだから記念に一緒に写真でも撮ろうよ」


 彼女が僕の席に身を寄せてきて、僕の持っていたスマホを扱い、僕たちの方へ画面を向ける。


 すると、次の瞬間、そのスマホからカシャと音がなり、一瞬だけ太陽のような輝きをした。


 僕は、それに対して反射的に目を伏せてしまう。


「あーあ、瀬三居君、目を閉じたら駄目だよ」


 天埜川さんがマジマジとスマホを確認している。


「あれれ、スマホの故障かな?」

「どうしたんだい?」

「瀬三居君の姿が写ってないの。もう一度撮ろうか」


 そうやって何回も写真を撮影しても、僕の姿が写ることはなかった。


「あーあ、レンズの故障かな。新しいスマホに変えてもらわないとね」


 実体が写らないということは、僕はもうすでに……。


 ──何でだよ。

 人間の神様ってやらも残酷だな。

 ようやく、彼女ときっかけを掴めたのに……。


 僕は唇を噛みしめながら、テーブルに顔を俯けると、次々と視界から込みあげて来るものがあった。


「瀬三居君? なに、泣いてるの?」

「……いや、このカレーがあまりにもからくてさ」


 僕は目の前のカレーを不馴れなスプーンですくって口いっぱいに頬張り、喉へと流し込む。


 向かい隣に座り直した彼女はそれを見つめ、ケラケラと笑っていた。


「あはは、大丈夫。誰もとって食べたりしないよ。よく噛んでゆっくり食べてね」

 

 そんな僕の心境も知らずに、天埜川さんは再び撮影に夢中になり、デザートにスマホを向けている。


(……チャンスは今しかない!)


 ──僕がその隙をかいくぐって、ポケットから、あのレジ袋を足元の膝に広げて、固形物のライスをスプーンを使い、その袋へと移す。


(よし、これでこのライスは何とか服に隠して、後から近所の畑の肥料に撒いてしまえばいい)


 それから残ったルーの入った皿を持って勢いよく豪快に口へと流し込む。


 ピリリとした刺激物で、いつもの優しい樹液の味じゃないが、これはこれで美味しかったりするから、人間の味覚というのは不思議だ。


(うっ、でも消化器官がムカムカする。とりあえず、あとから林にある樹液で口直しだな……) 


 ──僕はこの至福の時間を、あとどれくらいの時間、過ごせるのだろう。


 その深意を知るために、もう一度、あの長老を訪ねてみたくなったのだった……。


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