奄美大島での夏休み、人生変わった

@takagi1950

奄美大島での夏休み、人生変わった

「奄美大島の海と出会わなかったら人生が変わっていただろう」。私は自信を持って言い切ることが出来る。それを証明する様に私の左手薬指に嵌る指輪の裏を見ると、“1974.5.26 K to I”と印字されている。

 1973年、私は初めて鹿児島県の奄美大島を旅した。高校卒業後に就職した大手鉄鋼会社から、兵庫県内の大学で学ぶ機会をもらった。学生生活を楽しんでいたが、段々と学ぶ内容に興味を示せなくなった。モヤモヤした気持ちが高まり、夏休みに入ると無性に遠くへ行きたくなった。大阪南港から船に乗って沖縄を目指した。船に乗ると心が解放され気持ちが柔らかくなった。途中、奄美大島の名瀬港で台風に遭遇し、船が止まり予定を変更し下船した。 


 港の喫茶店で気さくな女店主から紹介された地元の人が、「ばしゃ山」と呼ぶ奄美大島北部にある民宿を紹介され、目の前に広がる透明な海で泳いだ。足の届くところにサンゴが群生し、赤や青の熱帯魚が泳いでいた。あまりの美しさに息をのんだ。予定の一週間を過ぎても、この島を離れ難く夏休みの間、民宿を紹介してもらった喫茶店でアルバイトをしながら島に残ることにした。

 街を歩き路地に入ると島の女達の、機織りの音がそこかしこから聞こえた。「ガタン ガタンガタン ガタン ガタンガタン」と、リズミカルで優しい音色は心に響いた。


 喫茶店は民宿も経営していた。ある日、台風接近で船が欠航し、足止めされ退屈している宿泊客を連れ、島の伝統工芸品・大島紬を織る大島ヤスエさんを訪ねることになった。

大島さんの家で訪問を告げると南沙織似の女性が、私を紬の機の前に案内した。この時、私は「この女性と結婚すると《ビビット》来た」。妻も同じように思ったと結婚後に聞かされた。

この女性は玲子と言い大島さんの娘だった。出会いから数回逢ったが、玲子には今風に言えばストーカと思われる男がいたり、私の島での行状の悪さが障害になったりすることもあった。短い交際期間だったが悪い面が噴出し、それが二人の関係をより親密にしてくれた。そして私が島を離れる一週間前にバスに乗って「安木屋場(あんきゃば)」に海水浴に行った。


名瀬市内にある岩崎バス本社で待ち合わせ、バスに乗って出発した。バスの中ほどに玲子を窓際にして並んで座った。乗客は八名程度で、私達以外は老人だった。山手のゴルフ場を過ぎ、ここから名瀬の町を下に見てやがてバスは山を下り秋名に入った。

車窓から海岸を見て玲子が、「あれが、奄美大島の五穀豊穣を祈る平瀬マンカイが行われる岩。昔はこの儀礼で奄美大島の一年が始まったんです」と白い歯を見せて言った。

「なんの変哲もない岩なんだ」

「そうですね。普段なら見過ごしてしまう光景ですよ」

「本当、これが奄美大島なんだ」

「奄美大島では、自然と祈りが調和して生活しています」

玲子のこの説明に私は、奄美大島の素朴さを思い海に目を転じた。 


秋名の先にある「あんきゃば」の海で泳いだ。白い砂浜に海の深さを反映する青いグラディエーションが目の前に広がっていた。

ここの山には天然の蘇鉄が群生しており、海は貝や魚が豊富で潮干狩りが出来た。水着に着替えて海に入り、貝を採った。玲子は黄色に白いストライブのビキニを着ていたが、肌が太陽に照らされ、肩やうなじの産毛がキラキラ光り眩しかった。泳も上手で、私は必死に後を追った。そして二時間で買い物袋一杯の貝を採った。

「もう少しで俺は大阪に帰るけど、また逢って欲しい。来年もこの風景を玲子と一緒に見たい」

「良いですよ。私で良ければ、この風景をまた一緒に見ましょう」

「ありがとう。それじゃもう少し泳ごうか」

こんなことを大きな岩に腰掛けて話した。平凡だが、これがプロポーズかもしれない。


 私は玲子との結婚を決め、島を離れる前日に両親に挨拶に行った。大型台風の接近で急な用事が入り、父親は大島支庁(鹿児島県庁の出先機関)に行っているとのことで、玲子の母親・大島ヤスエさんが対応してくれた。父親が帰って来るまで、大島紬の機織りを見せてもらうことにした。前回の見学と違い今回は真剣に見て話を聞いた。

ヤスエさんは機の前に座り、背筋を伸ばし、指先で柄を整え小ぶりの鰹節のような物をリズミカルに左右に潜らせ脚で機を踏む。

「ワン(私)は、これを13の時からやつてるチバ。オヤジより稼ぐっチ。ハゲーこれで子供七人を学校に行かせたチバ」

手を動かしながら島口(奄美方言)で言って、私は「クス」と笑った。奄美女性の逞しさと芯の強さを見た思いだった。

「お母さん、玲子さんは、これ出来るんですか」

「ハゲー残念ながら玲子は、出来んチバ。でも手先が器用チバ。色白の美人で頭もいいからお前にやるのは勿体ないと思うチ。ワンはそう思うチバ」

 あっけらかんと言ってのけ、玲子は「ははは」と声を出して笑った。この会話から玲子が既に両親に、結婚の話しをしてくれているみたいで安心した。

「お母さん、玲子さんを幸せにしますから宜しくお願い致します」顔を真っ赤にして言った。

 「ワン(私)は、母親からもつれた糸も根気よく、根気よくやると解くことが出来る。そして糸を切らないためには、我慢と根気が一番チバと教えられたチ」

ヤスエさんは、私を諭すように言った。そして、大島紬発祥の地で考案された龍郷柄の歴史を語った。

「この柄の中にあるこの赤が命なんだ……、これがきっちり出来るまで十年は掛かる」爪楊枝で柄を合わせながら、自然にこの言葉が出た。


夕方、大島支庁から帰ったオヤジ(父親)に形通り挨拶し、結婚の許しをもらうと宴会になった。いつの間にか、オヤジは大島紬に着替え役人から島人(しまんちゅ)になり、牛乳割りの黒糖焼酎を飲み、三線(さんしん:本土の三味線)で島唄を披露した。

気が付くと大島紬を着た玲子が私の前に居て横に座った。浅黒い肌に深い青の泥大島が良く似合った。これで私と玲子の結婚が決まった。


翌年、出逢って九ヶ月後に私の大学卒業を待って結婚した。私は二十三歳で玲子が二十四歳と若かった。私が結婚を急いだ理由は、奄美大島が好きでここを故郷にしたかったことと、少ない家族の存在があった。玲子は7人兄弟で皆、安定した生活をしていて羨ましかった。もちろん可愛い玲子を早く独占したいとの思いもあった。


そして北陸への新婚旅行最大のエピソードは、帰りの特急雷鳥車内で妻が「私がグズグズしてたら、先に一人で行ったら良いからね」と泣き私が「そんなこと言わずに一緒に歩こう」と慰めたことだ。私は戸惑いながらも妻の涙は新鮮で、妻を幸せにしなくてはいけないと責任を感じた。


現在、結婚から四十七年、二人の子供と四人の孫に恵まれ、私と妻の《ビビット》の正しさが証明された。妻は家の真ん中に存在感たっぷりで“デーン”と座り家族に指示するまでに成長し、私はその横で小さくなっている。

妻の両親は既に亡くなり、一緒に里帰りした子や孫を妻は喜々として世話するが、私は体力不足で気持ち程には動けない。それでも《あんきゃば》で妻が作ってくれた大きなおにぎりを食べながら妻の両親を偲ぶと、なぜか力が湧いてくる。そして奄美大島のアイデンティティは確実に孫に受け継がれた。


 太陽はまぶしく、空や海はどこまでも青い。「ちっぽけな悩みは自然が引き取ってくれる」。私にとって、奄美大島はそんな場所だ。


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