第二話 呼び声

【山廻の衆】

 その昔、四国のとある山中に又吉という盗賊を束ねる頭領がいた。又吉は毎晩のようにその峠を通る人間を男ならば身包みを剥いでは殺し、女であれば老若問わず、身包みを剥いではいたぶり、犯し、殺した。欲望のままに動いていたその盗賊も、ついにある夜、町の役人に追われる日が来る。手下はその場で次々と打ち取られ、又吉は必死に一人、山中を逃げていた。山の事ならだれよりも詳しい。そう自負があった。役人の追っ手をまき、山中で息をひそめ身を隠す。明るくなる前にこの山を抜けよう。又吉が根城にしている山はまだいくつかある。今度はそこで獲物を捕まえよう。草に隠れ、様子を伺っていた又吉だったが、そんな時、目の前にうら若い綺麗な女が通る。頭ではわかっている。そんな事をしている場合ではない。すぐ近くに役人がいる。隙をついて、この山を抜けなければならない。しかし、今の今までやりたい放題で生きてきた又吉に【自制】と言う言葉はなかった。又吉はその女を襲うことに決める。女の抵抗もむなしく、いたぶられ虫の息になった。女は今にも消え入りそうな声で言う。

「この恨みは忘れませぬ。その魂を永劫の闇へお連れしましょうぞ。」

女の顔はゆがむ。いままで、何人もの女を犯し殺してきた。恐怖の表情を浮かべ又吉は命とともに果てる。しかしこの女は違う。初めて感じる恐怖に又吉は女の首を刎ねた。女の首は転がり、又吉に目を合わせるように止まる。

「ひ……」

又吉は驚き刀を落とす。その落とした自らの刀で自らの足を切る。

「クソッ」

又吉は足を引きずりながらその場を後にした。それからだった。又吉の体に異変が起きだした。毎晩のように殺された女たちの姿が見える。夢なのか現実なのか分らぬ位意識が混濁する。熱に浮かされ、いつしか立ち上がることすらできなくなる。寝たきりになった又吉は七日七晩、体中の体液を吐き散らしその命をおとした。後に発見した町の者も「自業自得だ。」「これでもう、安心だ。」など口々に喜んでいた。が、これで終わることはなかった。又吉が死んでから失踪事件が相次いで発生した。町の人たちは又吉の祟りだと恐れたのだった。

又吉は自らが殺めた怨念によりその命を落とした後、苦しみから解放されたその魂は自らを呪った怨霊達を取り込んだ。生前の欲望は苦痛から解き放たれたことにより、より強力になっていった。自らが取り込んだ魂を従わせ山を廻る。罠を張り獲物を狩る。一つの狩りが飽きればまた次の山へ。何に呼ばれるのか誰も分かりはしない。彼らは廻る。山を廻る。

その怨念の塊を【山廻の衆】と呼ぶ。


夏がもうすぐ終わる。長かった梅雨が明け、今までの遅れを取り返そうと太陽は焦り地面を焼いていた。タイミングを合わせたように木々には蝉が止まり、こちらもまた遅れを取り戻そうと必死で求愛のシグナルを発している。時期をずらし出て来るはずだったのだろうが、長雨の所為で時を同じくしてしまった蝉。団塊の世代よろしく、多分あそこでは生存競争が始まっているのだろう。そんな事を思いながら、公園の前を通り過ぎた。

 照り返しの強いコンクリートジャングルを歩きながら、いつもの雑居ビルへ向かう。四谷の寂れたビル群のより一層古びた雑居ビル。一階に入っている本格インドカレー屋からは、香辛料の香りと、独特の香の香りがする。すぐ上の階の怪しげなマッサージ店の異国の女性従業員と異国のカレー屋の店主が楽しそうに店先で話している。ここだけを切り取ると、東南アジアにでも出かけたのかと錯覚するほど、アジアが詰まっている。

「あんた元気ないね。マッサージ受けてカレー食べたら一発よ。」

カレー屋の主人がちょうどビルに入る死にそうな顔の神谷に気づき声をかける。それにつられ、カラカラと異国の女性は笑う。神谷は思う。そんなに親しかったっけ?と。カレー屋には過去に一回行ったか言っていないか。まぁ、同じビルの人間だし、何よりも熱い。そんなことはどうでもいい。

「今度ね~」

視点も定まらぬ、赤く茹った顔で神谷は応える。駅からも少し離れたこの場所に来るまでに神谷は死んでいた。上からも下からも太陽に焼かれ、自分が遠赤外線の魚焼き機か、はたまたオーブントースターにでも入れられたような感覚であった。やっと入り口に入り、直射日光を避けることが出来たが、内包された熱はそうそう簡単に抜けるものではない。異国の店主たちを通り過ぎた時、店主の陰口と言うか軽口が聞こえる。

「あの日本人はもうすぐ死ぬね。」

それにつられ、女もカラカラと笑う。神谷自身もそう思う。これは通勤するだけで死ぬ事が出来る暑さだ。

事務所のドアを開けると、何やら宮本がバタバタと準備をしている。

「おはよ~ございまーす。」

神谷が挨拶をするとその返事より先に

「何をやってる出かけるぞ。」

と機材をまとめている無精ひげの男、宮本がいつも通り何の説明もなしに言い放つ。

「‥‥嘘でしょ‥‥」

嘘でも何でもない。神谷はただ単に出社しただけである。出社すれば仕事が始まる。営業マンは営業に出かけ、事務員は事務仕事を開始する。そして、記者は記者らしく取材に出かけるのである。

「もう昼も過ぎてるぞ。早く準備をしろ。」

神谷は思う。昨日、昼過ぎの出社でいいと言ったのは紛れもなく宮本だ。神谷もそれに甘んじたが、昼過ぎの炎天下を舐めていたのは否めない。神谷はカバンに入れていた、行きしなに最寄り駅で買っていたペットボトルに口をつける。案の定ぬるくなっている。

「ああ‥‥まずいなぁ‥‥」

宮本は最後の機材をまとめながら、何かに気づき、神谷をちらりと見る。

「車に積んどく。話が終わったら降りてこい。」

と、神谷の肩を叩き、機材を背負い、出て行ってしまった。

「話?・・えっ?何の話です…か…」

神谷が言い終わるかどうか、そんな瞬間に神谷は肩を掴まれる。この感触には憶えがある。肩を掴まれ過ぎて、それ専用の肩になってしまったのではないか?もしくは逆で、その掴むものは神谷の肩しかつかんでないのではないか?それほどにピッタリとフィットしたものである。

「宮本はどうしたぁ。」

不機嫌で三日三晩煮込んだような男は、この小さな編集部E.ENDオフィスの編集長である。小柄だか、無駄にガッチリとした体格、まるでプロレスラーにスーツを着させたような色黒体育会系の短髪の男である。

「今しがた出て行きましたけども…」

神谷はなんとなく、この場に居てはいけない気がしている。

「ああ、呼んできますよ。まだすぐそこじゃないですかねぇ?」

神谷がその場を離れようとするが動かない。ガッチリと掴まれた肩はもう、やっぱり、一生動かないのではないかと思うくらい動かない。

何度か自然を装い、その場を離れようと試みるが、編集長もその腕も微動だに動かない。神谷は空に向かって愛想笑いを浮かべる。

「じゃぁ、しょうがないなぁ。月刊怪奇ファイルコンビ相方、神谷くんでいいよ。ちょっとお話聞こうかぁ。」

丁重にお断りしたい気持ちをかみしめ、神谷はまた、上の会議室へと連れていかれたのであった。

「あぁ~まだ何にもしてないけどすっごい帰りたいですねぇ~」

まっすぐ吐き出た言葉を神谷の背中で聞いていた編集長はニヤリと笑い、

「いつかは帰れるさぁ…神谷君」

と言った。


 あれから何時間が経ったであろうか、車に乗り込むときにはすっかりと夕方になっていた。車の助手席で待機していた宮本のおかげで、車は冷房でいくらか冷やされていた。

「あ、ちょっと涼しい…酷いっすね…先日の領収書の件でしたよ。」

車に乗り込み、開口一番神谷は要件を告げる。

「だろうな。」

宮本は何か数枚の印刷物を見ながらそっけなく答える。

「帰ったら戦争だとか言って‥‥なんで俺一人なんですか?」

「前にも言ったろう。神谷君だと話が早く終わる。」

無精に伸ばした顎髭をなでながら、これまた不愛想を激しく煮込んだ顔で今まで宮本が読んでいた紙を神谷に渡す。

「なんですかこれ?」

神谷はシートベルトをしながら、紙を受け取り、その紙に目を通す。

「今朝入っていたメールのコピーだ。投稿者の中で久々に当たりかもしれない。」

編集長との話にこれだけ時間がかかったことについて、宮本は一切触れない。神谷ですらこれだけ時間のかかるお説教だ。これを早く終わると言い切る宮本は一体、編集長と直に話すと何時間話すことになるのか‥‥。

「お、都内ですね。」

神谷は愚痴を言うのも疲れ、頭を無理やり切り替える。ここに入って三年。幾らかこの切り替え作業が慣れてきたようだ。

この無精髭の不愛想の塊の宮本と神谷が所属している部署はオカルト誌月刊怪奇ファイルと言う。部署と言っても実質二人だけなので、そんなに大げさなものではない。月刊怪奇ファイルと言うマイナーオカルト誌にも根強いファンがいる。この雑誌は発刊から大きくヒットする事はないが、一定の売り上げを上げ続けている。宮本の直感が本物を引き当て続けているからなのか、その手の分野では知る人ぞ知る有名雑誌である。ただ、この分野的にそこまで大ブレイクする事はない。その雑誌には読者からの怪奇事件への募集も随時行っているが、殆どは【〇〇で幽霊を見た。】【〇〇は呪われている】など、何の根拠もないものばかりで、記事にならない事が多い。

「珍しいですね。宮本さんが食いつくなんて。」

普段投稿のチェックは神谷が主にやっている。一応はピックアップして宮本に見せるが、大概のものがその場で捨てられてしまう事が多い。

「ああ、今回もガセか呪いだ幽霊だと内容のないものだと思ったのだが‥‥」

宮本はもう一枚の持っていたコピーを渡す。

「あ、新聞の記事ですか。」

「そうだ。裏がとれた。いまから二年前、当時大学生だった投稿者はキャンプに行った。時期で言えば丁度今位だ。人数は5人。しかし、無事に家に帰ったのはその投稿者とその彼女の二人だけだった。最初は熊にでも襲われたか、何らかの事件に巻き込まれたか‥‥警察も自治体も、居なくなった二人を捜索しながらその線で捜査していたらしい。」

神谷は宮本の言葉に疑問を抱く。

「ん?二人?五人で出かけて二人しか生存者が居なかったのなら、三人じゃないんですか?」

宮本は、神谷に渡した新聞記事のコピーを今一度取り上げ、指をさす。

「そのうちの一人はテントの前で死んでいた。その件があったから、野生動物か、何かの事件かと言うことになったらしい。」

宮本は最後の一枚を神谷に渡す。一気に渡してくれればいいのにな、と少し思いながら神谷は最後の一枚に目を通す。

「生き残った彼女なんだが、事件から二年後の二か月前、詰まり、今年の六月に亡くなった。彼女の最後の言葉は【声が聞こえる。】この事件は我々の分野らしい。」

宮本はそう言うと、車を出す様に神谷に指示を出した。

 四谷から三十分ほど車を走らせて、たどり着いたのは練馬にある小さな木造のアパートだった。木造と言ってもそこまで古くはなく、アパートと言うよりはコーポに近い感じの比較的新しい一人暮らし用の建物だ。近くのパーキングに車を止め、そのアパートの203号室のインターフォンを押す。

中から出てきたのは、投稿者の瀧本一也であった。髪はボサボサと言うよりはベタベタしている。メガネの奥の瞳は恐怖にやつれていた。

「お待ちしておりました。」

宮本が事前にアポ取りを済ませてくれていたおかげで、すんなりと瀧本和也は二人を自らの部屋へと招き入れた。

「どうぞ」

一人暮らしらしいアパートの一室である。寝室とキッチンが縦に並んでいる間取り、そのどの部屋にもゴミや服が散乱している。寝室兼生活スペースであろう部屋に通される。八畳くらいの部屋には、小さな折り畳みテーブルと壁に押し当てたようなシングルのベット、床にはリビングと同じようにインスタントや弁当の空箱、それに脱ぎ捨てられた服などが放置されている。

この夏の時期であるが、エアコンのおかげで匂いは然程しない。程よく冷えた寝室の小さなテーブルにグラスに入れられたお茶が置かれた。

「投稿ありがとうございます。月刊怪奇ファイルの宮本と…」

「アシスタントの神谷です。」

神谷は瀧本一也に名刺を渡し、足元の散らばった服をそっと足でどけ、床に座った。

宮本は、立ったまま部屋を隅から見ている。たまに軽くこめかみを抑えている。どうやら何か見えているようだ。

「瀧本さん。この部屋では亡くなった彼女さんと生活されていたのですか?」

瀧本一也は、彼女と言うワードに反応するように見るからに動揺している。その姿は怯えているようにも見えた。

「はい、サチがいなくなる直前までこの部屋で住んでいました。」

瀧本一也の声は驚くほど無表情の声だった。その声に違和感を感じ、神谷は瀧本一也の顔を見る。声とは裏腹に、恐怖にも悲しみにも取れる深い闇を感じる顔であった。当たり前か‥‥彼女が死んでまだ二ヶ月、心の整理も付きはしないだろう。そんな事を神谷は思っていた。

「何が起きましたか?」

宮本は漸く小さなテーブルの一角に座り、出された麦茶に手を伸ばした。麦茶を置いたまま立ち竦んでいた瀧本一也もテーブルの前に腰を下ろした。

「キャンプに行っただけなんです。僕らはただ、二年前にキャンプに行っただけなんですよ。」

 ああ、この人に何か憑いているな。霊感など微塵もない神谷ですらそう思う。瀧本一也は恐らく、長い間風呂にも入っていない。ゴミの感じから、食事はコンビニや宅配で済ませているみたいだが、もう長い時間この部屋からまともに出てはいないのであろう。近くに座った瀧本一也から仄かに体臭が匂う。

「頂いたメールと、こちらの記事は読ませていただきました。今から二年前のお話ですね?」

宮本は淡々と話を切り出す。当時の様子などを詳しく聞きだす。瀧本一也は最初こそ、話辛そうにしていたが、水の溜まった風呂の栓を抜いたようにこちらもまた、淡々と話し出した。

「僕らは同じ大学の同じ学部で、自然と集まりだして‥‥きっと雰囲気と言うか空気と言うか…一緒に居て楽だったんですよね。良く集まって飲んだり、遊んだり‥‥そのキャンプもそんな延長上のものでした。」

瀧本一也の目が遠くを見ている。皆で遊んだ最後の記憶。楽しく終われれば青春の一ページにもなっただろうに。神谷と宮本は静かに話を聞いた。



 「うわぁ~最高じゃん。」

 大きな荷物を持った志村明達が、一面芝に覆われた広場で深呼吸をしていた。

「まだ荷物一杯あるんだから一人でさぼんないでぇ」

志村明達の少し離れた後ろからテント用具を担いだ三原奈緒が声をかける。

「OKOK!でもみろよ。この青々とした草原!あ、あそこの木の下位にテント立てるか!」

志村明達は荷物を抱えたまま小走りで、もう少し離れた所に見える木の根元に走り寄った。

「アッキーはしゃいでんなぁ」

三原奈緒の後ろから、柳流星が奈緒の荷物をそっととる。

「ありがとう。」

奈緒は柳に少し照れた感じでお礼を言う。しかし、柳の荷物量の多さに少し焦りだす。

「えっ、そんなに荷物持てる?」

柳流星は、最初から持っていた大きなクーラーボックスの上に奈緒の持っていたテント道具を乗せ、

「大丈夫大丈夫。アッキー気晴らしになればいいけどねぇ。」

二人は、遠くでテントの位置を確保して、笑顔で手を振っている志村明達を見ている。

「まさか、このタイミングでフラれるとはねぇ・・」

奈緒は遠くではしゃぐ志村を遠い目で見つめている。

「まさか、それでも来るとは思わなかったなぁ。」

柳も志村を見ている。

「あいつ、酒入ったら絶対泣くよね。」

悪戯っぽく奈緒が言う。

「まぁ、ギャン泣きさせて、スッキリさせてやろう。」

柳もにっこりと笑う。

「お~い、まだこっち荷物あるから取りにきてぇ。」

二人の後ろから、瀧本一也が声を張り上げている。

「お、じゃぁ、俺一回あっちに荷物置いてくるわ。」

柳が荷物を持ち、志村の元へ向かう。

「軽いのでいいからなあ。無理すんなよ。」

去り際にそっと言葉をかける柳。

「うん。」

少し照れたように奈緒が答える。

「アッキー!場所分かったから、荷物手伝ってぇ!」

柳流星の叫びに一人ではしゃいでいる志村明達が走りながら向かってくる。

「OKOK!」

楽しそうに志村が駆け寄る。奈緒は、振り返り受付へと向かう。受付では、色々と手続きを終えた階堂サチが食材を持って出て来る所であった。

「あ、奈緒。まだ、野菜とかあるからよろしくね。重いのは男連中に頼もう!」

「うん。了解。‥‥香奈来なかったねぇ。」

奈緒が少し寂しそうに言う。

「まぁ、アッキーと別れちゃったら来ないでしょ。元々アッキーつながりで仲良くなったとこあるし‥‥」

「なんでこの時期に別れるかねぇ。せっかく何ヶ月も前から予定してたのに…。」

「男女の中には色々あったのよきっと。さぁ、運ぼ運ぼ!お腹空いちゃった。」

サチが荷物を運びだす。それを見ていた瀧本が、にこにこと声をかける。

「あ、手伝うよ。」

「いらない。あんたはあそこの牧でも運びなさい。」

きっぱりと言われ、滝本は少し焦りながらワタワタとしている。

「そうだね。そりゃそうだね。」

と瀧本は牧を持つ。

「あんたん所は大丈夫そうだね。」

奈緒は二人のやり取りを見ながら深くうなずき感心している。

「あんたも今日、はっきりさせちゃえ。流星、まんざらでもないよ。」




瀧本一也の目が遠くを見ている。思い出から覚めた彼の目にはこの現実はどう映っているのだろうか。

「楽しかったなぁ。みんな笑っていました。キャンプ直前にフラれたアッキーも、付き合うのかどうなのはっきりさせようって意気込んでる奈緒も流星も…サチもさぁ‥‥皆笑ってたんですよ。夜が来るまで、ただただ、楽しかったんです。二泊三日のキャンプ…なんで…なんで‥‥こんな事に‥‥」

瀧本一也は、頭を抱えて、うなりだした。くしゃくしゃの顔からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。

「俺が‥‥俺がキャンプなんて企画しなけりゃよかったんだ。なんで…皆でさぁ‥‥行ったら楽しいかなぁなんて‥‥なんで…こんな事に‥‥・」

部屋の中は重い雰囲気で埋め尽くされる。

「それから何が起きたのですか?」

宮本は表情一つ変えずに説明を求めた。

「‥‥すいません‥‥」

瀧本一也は、なんとか自分を落ち着かせようとお茶を飲んだ。

「なんとかテントも無事に立ち、皆で少し早めの夕飯の準備をしていたんです。慣れていないもので、火を起こすのも一苦労で、カレーが出来た頃にはすっかり日も暮れてしまって、焚火を囲みながら、皆でお酒を飲み、楽しく過ごしていたんですよ。そしたら、奈緒が突然…」



「ねぇ、何か聞こえない?」

食べかけのカレーの皿を置き、立ち上がり、三原奈緒は遥かに続く闇の方を見ていた。

「ちょっと‥‥えっ?やめてよ‥‥」

階堂サチも闇に眼をやる。

「あれじゃね?アッキーの泣き声が反響して聞こえてるだけじゃねぇ?」

柳流星がスプーンで志村明達をさす。カレーとお酒と仲間と言う環境に早くもぐちゃぐちゃに泣いている志村明達が、カレーを掻き込みながら答える。

「しょうがないのはわかってたんだよぉぉぉ。でもさぁぁぁ、俺の気持ちもぉぉ。」

「アッキーうるさい!」

三原奈緒の剣幕に一瞬皆黙る。志村明達もあふれ出る嗚咽を必死で抑えながらカレーを掻き込んでいた。

「‥‥・ほら‥‥・えっ?聞こえない?」

あまりに真面目なトーンに一同も耳を澄ませる。この夏の時期なのにキャンプ客は自分達一組しかいない。だだっ広い広場を山で囲んだようなこの場所。耳を澄ませていても、虫の音と微かに聞こえると少し離れた所にある小川のせせらぎ位しか聞こえてこない。

「や、やめようよ。何も聞こえないって。あ、ちょっと遠くに川が流れてるから何か、水の音とかが、何か‥‥そう聞こえるだけじゃない?」

瀧本一也が恐る恐る答える。

「そんな話より、俺の話聞いて‥…」

志村が泣きながら自らのコップに入った安物のワインをまるで海賊のように飲み干す。

「お前、赤ワイン一人で全部飲んじゃったの?」

呆れたように柳流星が空の瓶を取り上げる。

「良いでじょう‥‥今日くらい飲ませてよぉぉ」

「おお、こいつ‥‥あと二日もあるんだからなぁ‥‥」

「明日はのびまぜん‥…」

グデングデンになり、呂律も回らなくなった志村明達は泣きながら動かなくなってしまった。

「まぁまぁ…こうなるのは想定してたんだし、お酒もまだあるし。」

瀧本一也が柳流星をなだめ、その場は落ち着いた。

「あ、また聞こえる‥‥ちょっと行ってくる。」

三原奈緒はそのまま闇の方に歩き出す。

一同がざわつく中、柳流星が立ち上がる。

「あ、俺行ってくるよ。二人で話したいこともあるし。」

瀧本一也の冷やかしを受けながら、サチが懐中電灯を渡す。

「あっち側、小さいけど小川が流れてるから、足元気を付けてね。」

少し緊張した面持ちの柳流星に階堂サチは背中を押す。

「あんたもちゃんと奈緒に気持ち伝えるんだよ。」

柳流星にだけ聞こえる声で、階堂サチは彼を送り出した。その様子を瀧本一也は微笑ましく見ていた。

食事も終わり、後片づけをしていても二人は帰ってこなかった。残された三人は、男女の仲の事、きっとうまくいっているのだろうと、誰も気にはしていなかった。酔いつぶれた志村明達をテントに運び、階堂サチと瀧本一也は焚火を囲みゆっくりと外の空気を楽しんでいた。お酒を飲みながら、焚火の赤い火に映るサチは普段より可愛く見え、瀧本一也はお酒なのか、その可愛さから来る照れなのか、階堂サチに顔を真っ赤にしながらプロポーズをした。と言っても、指輪を渡すわけでもなく、将来を誓っただけのプロポーズの真似事であった。階堂サチも顔を真っ赤にしながらそれを受け、嬉しそうに泣いていた。

何時間も二人は肩を抱き、焚火の前に座っていた。



クーラーの音が止まる、ちょうどいい設定温度だなと神谷は思う。

「あの時間が永遠に続けばいいと思っていました。」

人の恋話を聞いているのも少しこっぱずかしいと一瞬感じたが、その彼女が二か月前に亡くなったと思うと神谷はやりきれない気持ちに襲われる。どんな顔をして、宮本はこの話を聞いているのか気になり、チラリと宮本の顔を見る神谷。

「お気持ちはお察しします。それから、どうなりましたか?」

全く表情の変化はなく、進行を施す宮本に少しだけ神谷は引いていた。

瀧本は、顔を上げ、それに応える。

「その夜、テントに戻ってきたのは流星だけでした。」



「なぁ…奈緒戻って来てないよな?」

汗だくの柳流星がテントに戻ってきたのはあれから大分時間が経った午前二時頃であった。汗と泥にまみれた青い顔の柳流星が、テントの外に立っていた。男用のテントからは瀧本一也が出て来る。もう片方の女性用テントからは階堂サチが出てきた。志村明達は眠ったままである。息を切らしながら立っている柳流星のただならぬ雰囲気に階堂サチが声をかけた。

「どういうこと?何かあったの?」

階堂サチの問いに、この場に居ない事を察した柳流星は動揺を隠せずにいた。

「やばいよ。ここやべぇよ!奈緒、奈緒が居ねぇんだよ!奈緒が消えちゃったんだよ!」

あまりの気迫に瀧本一也と階堂サチもそれぞれ懐中電灯を持ち、山の方に駆け出したが、

「サチ!サチは受付の所で管理人に知らせてくれ。俺と流星で見て来る。」

階堂サチはうなずき、受付のロッジへと向かった。

「俺達も行こう。」

一瞬、瀧本一也は柳流星の顔が強張るのを見てしまった。

「何が‥‥あった?」

柳流星の顔を見て、思わずそんな言葉が出た。

「行きながら話す‥‥」

柳流星は、瀧本一也を見向きもせずに再度走って来た道を戻る。その後を追う形で瀧本一也も走り出した。山の中に入り、二人は三原奈緒の名を叫びながら小さな懐中電灯の明かりを山肌のあちこちへと走り当てる。真っ暗な闇の中で二人の声と息遣い、そして、近くなった小川の流れる音しか聞こえてはこない。

一方では、階堂サチは受付事務所の人間を起こし、友人が居なくなったことを告げた。初めは迷惑そうな顔をしていた係の人間も、奈緒が居なくなる前の行動を聞いた途端に顔色を変えた。

柳流星と瀧本一也は大分山の奥の方まで来ていた。小川に沿い上流の方へと向かう二人、必死で三原奈緒の名を呼ぶが、何の返答もない。柳流星が泣きながらその場でしゃがみこむ。

「俺がいけないんだ。俺があの時捕まえていれば、手を離さなければ‥‥」

普段はリーダー的な存在の柳流星が見る影もなく、動揺している。いや、何かに怯えていた。

「二人でいる時に、何が起きたんだよ。」

瀧本一也が汗をぬぐいながら、柳流星に明かりを当てる。

「あの後、すぐに奈緒に追いついたんだ。でも、奈緒おかしくてさ。」


数時間前

柳流星はすぐに三原奈緒に追いついた。

「奈緒、待てって。一人は危ないから‥‥」

柳流星が三原奈緒の手を取る。

「本当に聞こえない?ずっとお~いお~いって呼んでるじゃん。本当に聞こえないの?」

三原奈緒の顔が異様に焦っているように見えた。柳流星も耳を澄ますが、変わらずに虫の音といくらか近くなった川の流れる音しか聞こえない。

「ごめん。本当に聞こえない。奈緒、行くのやめよう?なんかおかしいって。」

柳流星の言葉を受けて、三原奈緒はその手を振り払う。

「なんで聞こえないの?おかしいのはそっちじゃん!呼んでるんだから行かないと!」

声を張り上げて、顔は怒りに満ちていた。さっきまであんなに可愛く笑っていたのに。その豹変ぶりに柳流星は動けなくなり、ただただ三原奈緒を見ているだけであった。

「あっちからだ‥‥」

三原奈緒は懐中電灯も持たずに先へと歩いて行ってしまう。我に返り、柳流星も後を追う。懐中電灯で三原奈緒の前を照らし、話し出すタイミングを見つけられず、無言のままどんどんと山の中へと入っていった。

どれくらい歩いただろう。とめどなく流れる汗をシャツで拭いながら、三原奈緒を見る。

「‥‥…」

柳流星は息をのんだ。汗一つ、息切れ一つしていない三原奈緒が隣を黙々と歩いていた。

「奈緒・・・・?」

懐中電灯の明かりに映し出された三原奈緒は何かをずっと話している。隣に居ても聞こえないくらいの小さな声で‥‥唇だけが動いている。

おかしい。そう思ったところで如何しようもなく、柳流星はただ、三原奈緒の隣を歩いていた。少しだけ、口元の近くに耳を傾ける。三原奈緒は同じ言葉をただ繰り返していた。

「見つけるよ。必ず見つける。見つけるよ必ず見つける見つけるよ‥‥」

三原奈緒の表情は変らずに無表情である。何かに憑りつかれた様に同じ言葉を繰り返す三原奈緒に柳流星は恐怖を覚えた。目は一点を見つめ、息継ぎもなく言葉を発している。柳流星は怖くなり、とっさに三原奈緒の腕を掴む。

「奈緒‥‥もう、帰ろう…。明日さ、明るくなってから皆で…」

振り向いた三原奈緒は笑っていた。人のそれではない表情で、三原奈緒は何かが折れる鈍くこもった音を立て、あり得ない角度で振り向いていた。体はまっすぐと斜面に向き、首だけが、真後ろの柳流星の方を見ている。

「ひっ‥‥‥」

三原奈緒は異様に口角を上げ、視点の定まらない瞳で柳流星にこう言った。

「あなたにもきこえているんでしょ?」

柳流星はその抑揚のない声に思わず三原奈緒の手を放してしまう。

甲高い笑い声が山全体に響くように聞こえる。そのまま、三原奈緒は消えてしまった。柳流星の目の前で、幻のように忽然と消えてしまったのだ。

「‥‥奈緒?・・・奈緒?」

暫く恐怖に固まっていたが、絞り出すように三原奈緒の名をか細く呼ぶ、が、何の返答もない。落ち葉などで隠れた古井戸にでも落ちたか、柳流星は辺りを探したが、それっきり三原奈緒を見つけることが出来なかった。


山肌に座り、怯え切っている柳流星を見て、今起きた話を聞いて、瀧本一也は息をのんだ。

「なんだよ…それ‥‥」

「わからないよ!何が起きたのかわからないんだよ。奈緒が‥‥奈緒の首が…奈緒が・・・忽然と‥‥消えたんだ。」

震えながら柳流星が答える。今にも叫びだしそうな気持を必死で抑えている。

「一度、テントの所に戻ろう。」

瀧本一也は、それが一番の考えだと思った。

「それとさ‥‥さっきから俺も聞こえるんだよ…」

柳流星は座ったまま、自らの耳をふさいだ。

「戻ろう。とにかく‥‥」

背を向け、来た道を戻ろうとした時、瀧本一也の耳元で声がした。

「見つけるよ。必ず見つける。見つけるよ。必ず見つける。」

驚いた瀧本一也は体制を崩し、山肌を転げ落ちた。が、それほど急な勾配ではなく、三メートルくらいの所ですぐに止まった。

「えっ‥‥」

体制を立て直し、柳流星の方に明かりを向ける。そこには誰もいなかった。自分が転げ落ちた時に方向感覚が狂ったのかとも思い、辺りを照らす。だが、さっきまでしゃがんで怯えていた柳流星の姿は何処にも居なかった。虫の音と川の音、さっきまでそこに居た柳流星が消えたこと以外何も変わらない。何事もなかったように時は流れる。

「…嘘だろ‥‥流星?‥‥おいって‥‥ふざけるなって‥…」

こんな状態でふざける人間ではない事を瀧本一也は知っている。知っているが、何かの冗談であってほしいと願う。山肌に立ち尽くす、なんの反応もない。どうするのか、本能は一刻も早くこの場所を離れ、テントの場所に戻りたい。しかし、居なくなってしまった友人をこのまま見捨てていいのか、友人の姿は何処にも居ない。これは自分にはどうする事も出来るものではない。色々な思考がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

「どこに居るんだよ!早く出て来いよ!もう、どうなってんだよ!」

恐怖を払うため、ありったけの声で叫ぶ。その声は山に反響し、辺りに拡散される。しかし、その短い反響が終われば、辺りはまた虫の音と川の流れている音だけになる。

「‥‥…」

静かに息を呑む。いつの間にか呼吸が荒くなっている事に気づく。額から流れ出る汗は塊となり、頬を伝い首へと流れていく。ここに居たらダメだ。帰らなくては‥‥そう思っている。思っているのだけど、自らの足は動こうとはしない。背中から地面に棒を差し込まれた様にただ、立っている事しかできない。瀧本一也の呼吸は荒くなる。いくら吸っても空気は肺には届かず、まるで何かの発作のように浅い呼吸は繰り返されていく。川の音や虫の音が遠ざかり、自らの呼吸音と心臓の音だけが聞こえてくる。目の前は段々と霞み、意識が遠くなっていく。ダメだ‥…逃げないと‥‥ここは何かがおかしい‥‥。

瀧本一也は薄れ行く意識の中で声を聴く。

「お~い‥‥お~い‥‥」

この声は遠いのか近いのか‥‥

瀧本一也は消えそうな意識の中で思う。ああ、奈緒と柳はこの声を聴いたのか…これはダメだ。だってこの声は耳から聞こえていないじゃないか。この声は頭の中で響いているのだから。

瀧本一也は気を失った。

「お~い‥‥お~い‥‥ここだぁ‥‥居たぞぉ…」

微かに聞こえる声と、ひどく湿った土の弾力を感じ、瀧本一也は自分が倒れる事が出来た事を感じる。だから何だと言うのか‥‥結局動けない事には変わりはないのではないか‥‥。


 目が覚めた場所はロッジの中であった。心配そうに見つめるサチが居る。

「良かったぁ・・・」

階堂サチが誰かを呼びに行く。ぼんやりとした頭で、辺りを見渡す。恐らくは受付のあったロッジの中であろう。ひどく気分が悪い。内臓をひっくり返されたような吐き気が襲う。

瀧本一也はその場で嘔吐をしてしまう。

「あぁ~大変だ。こりや、バケツとタオル持ってきて頂戴。」

管理人の中年女性の慌てる声が聞こえる。

「すいません・・・・」

何とか絞り出すように謝るが、体は鉛のように重い。

「すいません。後はやりますから。」

階堂サチがバケツとタオルを持って後始末をしてくれる。

「ごめ・・・・」

また、波が来る。内臓を裏返しにされた様にまた、嘔吐する。

のたうち回りながら、何度も吐く瀧本一也をどうしようもなく泣きそうな顔で介抱する階堂サチ。

「どうしちゃったの?ねぇ‥‥大丈夫?」

階堂サチの問いに答えたいのだけれど、声が出ない。のたうち回り、嘔吐を繰り返している中で、いつしかそれは自分の事ではないような感覚に陥ってくる。のたうち回っている自分とそれを少し離れた所で見ている自分が居る。苦しいのは変らないのだけれど、もう一つの視点は異様に冷めている。何かが、入っている。自らの体の中に何か異物が入りこんでいる。何回かの嘔吐を繰り返し、泣き叫びながら瀧本一也の背中をさする階堂サチの顔が目に入る。申し訳ない気持ちとこのままどうなってしまうのかわからない不安、うまく呼吸のできない絶望的な苦しみが瀧本一也を襲う。

管理人もただただ、そこにたじろぐことしかできずにいた。



瀧本一也は目の前のお茶を一気に飲み干し、コップを強く机に置いた。カンッと言う甲高い音が部屋中に響き渡る。それを合図にするように再びクーラーが動き出した。部屋の温度が上がったのだろう。

「入ってしまったのですね?」

宮本は先の話を聞いて、言葉を置くように瀧本一也に問う。

「入る…とは?」

キョトンとした顔で神谷が言葉を挟む。宮本は神谷と目も合わさないまま瀧本に説明を続ける。

「これはあくまで推測ですが」

と前置きをした上で宮本は話し出す。

「恐らく、瀧本さんをはじめ皆さんは山の何者かに気に入られてしまったのでしょう。そして…神谷君、さっきの新聞記事を。」

神谷は、カバンを漁り、先程車の中で受け取った新聞記事を印刷したものを渡す。

「詳しくはまだ、分かりません。が…何かがつながりそうだ。ここに行ってみませんか?」

宮本は記事に載っているキャンプ場を指さした。瀧本一也の顔はみるみると青くなる。

「宮本さん、それは怖いでしょうよぉ。行くなら二人で‥‥」

神谷がさすがに気を遣う。何と言っても二か月前に彼女をなくし、二年前に友人をなくし、その事件の原因の場所だ。瀧本一也にとって辛い場所であろうに。

「‥‥終わりますか?」

瀧本一也は震えながら小さな声でそう呟いた。

「終わる‥‥とは?」

宮本は答えをしっているように瀧本一也に問いを返す。

「まだね‥‥聞こえるんですよ。なんで僕達だけなのか…どうせ逃げられないのなら僕達も皆と一緒に一息に消してくれればよかったんだ。僕だけが残った‥‥サチも居なくなってしまった。僕だけが・・・。」

震えながら瀧本は応える。

「階堂サチさんも消えてしまってたんか?投稿していただいた文章には亡くなったと書いてありましよね…?」

神谷がもう一枚のメールをコピーした紙を広げ、文字を追いながら聞く。

「わからない…わからないんですよ。サチは目の前で‥‥この部屋で忽然と姿を消したんです。何もできなかった…目の前で消える彼女に何もできなかった。」

瀧本はうずくまり、嗚咽を上げた。そうか…まだ続いているんだこの事件は‥‥神谷は息を呑む。

「ああ・・・そう言えばもう一人の‥‥アッキーさんでしたっけ‥‥彼は‥‥」

神谷が思い出したように質問をする。新聞の記事には二人しか生存者はいないと書いてあった。そして、一人はテントの前で亡くなっていたと。

「その記事に書いてある通りですよ。アッキーは‥‥唯一‥‥帰れたんです。変わり果てた姿でしたけど…今となっては他の三人よりかは良かったんじゃないかとさえおもいます。」

瀧本一也は、志村明達の最後の顔を思い出す。吐き気が収まり、翌朝、テントに戻った時、倒れている志村明達を発見した。前日の事もあり、瞬時に嫌な予感が走る。志村明達は笑っていた。うつ伏せで倒れているのに顔はこちらを向いていた。奇麗に向いていたので、見えているのが背中だと暫く気づかないくらいであった。青い顔のまま言葉を続ける。

「僕を‥‥あの場所に連れて行ってください。」

宮本は静かにうなずいた。そして、

「一度風呂に入ってください。身を清めてから行きましょう。」

真夏の狭い車の中だ。宮本も気にはしていたのだなと神谷は思う。

宮本は険しい顔のまま言葉をつなぐ。

「我々に何処までできるかは正直分かりません。ただ、この事件を終わらせようと思っています。」

神谷は宮本の発言に些か驚いた。そして、何かを本能的に感じる。ああ、僕らはもう、この輪の中に入っているんだろうな。と。

宮本と神谷は時間を指定し、瀧本の家を一度離れる事にした。



何が起きたんだ。志村明達はテントの中でゆっくりと体を起こそうとする。

何にも分からない。瀧本が出て行く物音に気づき、目が覚めたらテントの中で一人だった。まだ、お酒の残る体はひどく気持ち悪く、くらくらとしている。異様に喉が渇く。飲み物を取りにテントの外へと出ようとテントのチャックを上げた。テントの少し前に泥だらけの柳と何か話を聞いている瀧本とサチが居た。声をかけようとしたのだが、酒が残った体はうまく動けない。テントからやっとの思いではい出ると、その時には柳と瀧本は山に走っていき、サチは受付のロッジの方へと走っていくところだった。何かトラブルが起きたのか‥‥。なんにせよ、こんな酔っ払いにできる事なんか何んにもない。クーラーボックスをあけ、多少ぬるくなった水を‥‥注ごうと思ったけれど、コップが見当たらない。まぁ、良いか‥‥これくらい飲むだろうと2リットルのペットボトルにそのまま口をつけて飲む。酒で乾ききった喉に水がしみこむのが分かる。大分飛ばしちゃったなぁ。明日は皆に謝ろう。こういう所がだめだったんだろう…自分でもわかる。昔から感情の起伏が激しい。楽しい事には全力で喜び、嫌な事やストレスを感じると、自分で制御出来なくなるくらい怒りや不安に襲われる。そんな俺に香奈は良く付き合ってくれていた。このキャンプだって香奈も行きたがっていた。なのに……。

原因は小さなことだった。冷蔵庫にある飲み物をそのまま飲むのをやめて‥‥そんな話だったかなぁ。前から仕切りたがりの所が香奈にはあった。その日、せっかく楽しい飲み会をしてきた帰りだったのに、詰まらない事で文句を言われたのが異様に腹が立った。自分を抑えることが出来なかった。俺は初めて、香奈に手を上げてしまった。香奈は腫れた頬を抑え、家を出た。何をやってるんだ…自分で自分が怖い。こんなこと誰にも話せない。女に手を上げるなんて行為は最低な行為だ。そんな事は分かっている。分かっていたんだ。小さい頃に酒に酔った父親が良く母ちゃんを殴っているのを見ていた。それがたまらなく嫌だったのに…自分も同じ事をしてしまった。なんで…なんでこうなるんだ‥。

「お~い‥‥お~い‥‥」

誰かの呼ぶ声が聞こえた。焚火の残り火が微かに明かりをともす。耳元で蚊の飛ぶ音がする。とっさに払うが、またすぐにそれは近づいてくる。

「あああああああああああ!」

イライラがまた声に出る。これを止めたいんだ。このぐわぁぁぁと上がる感情を抑えたいんだ。

「お~い‥…お~い‥‥」

どこだ?どこで呼んでいるんだ?瀧本の声とも柳の声とも違う。あれ?おかしい‥‥この声は男の声か?女の声か…?不思議だ。分からないんだ。近いのか遠いのか…そう言えば夕食の時に奈緒が言っていた。誰かが呼んでいると。奈緒、これは呼んでいるんじゃない。誘ってるんだよ。何故だか分からないけど、俺にはそう聞こえる。この声を聴いているとイライラする。確実に騙そうとしている奴の声に聞こえてくる。ん?だから、これは誰の声なんだ・・どこから聞こえる声なんだ。

「あなたにもきこえているんでしょ?」

耳のすぐそばで声が聞こえる。酒の残った体は酷く怠く、怯える気すら起こさせない。ああ、地面が回る。ああ、そうか…回っているのは俺の首の方だ。何者かは分からない、ゆっくりととてつもない力で首を回されていく。後ろのロッジから何人かの懐中電灯の明かりが山に向かうのが見える。体は真反対を向きながら、【後ろの】ロッジから出て行く人が良く見える。ああ~もったいない…まだ数口しか飲んでいないペットボトルが手から滑り落ち、トクトクと水が抜け出る音が聞こえる。

「お~い…お~い。」

誰を呼んでいるんだろうか‥‥だれを誘っているんだろうか‥‥多分永久に知ることはないんだろうなぁ。



待ち合わせの時刻に瀧本一也は駐車場に現れた。髪のべたつきもなく、きれいさっぱりとしている。

「どう?ちょっとはさっぱりした?」

神谷が軽口を叩く。さっきよりかは多少青味の減った顔で瀧本一也は少しだけ笑って見せた。

「さぁ、夜のドライブだ。瀧本さんは疲れたら寝ててくれても全然いいんで。いきますか。」

三人は車に乗り込み、東京を後にする。

 車を走らせて30分が過ぎた。夜の高速は車通りが少なく、予定より早く到着しそうであった。ハンドルを握る神谷は少し違和感を覚える。

「何か最近は山関係が多いですね。」

宮本が携帯で何かを調べながら応える。

「呼ばれているのだからしょうがない。」

神谷は運転をしながら、チラリと宮本を見る。宮本が少し笑っているように見える。

「呼ばれる・・・とは・・・?」

宮本が自らの目を指圧する。

「あぁぁ‥‥携帯で探すのは目が疲れるな…。」

「さっきから何を調べているんですか?」

宮本は、携帯をしまう。

「この前の取材からどうも山の何かに引き寄せられている。」

神谷が少し嫌な顔をする。

「えっ…この前の事件と何か関係があるんですか?」

「わからない。たまたま二件続いただけなのかもしれないけどな。少し嫌な予感がしている。神谷君は特に気を付けた方がいい。」

確信は何もつかず、脅かすだけ脅かされたような、不安だけを煽る宮本の口ぶりにまた深いため息が出る。

「はぁ~‥‥まぁ、いつも何かしら起きますもんね‥‥骨は拾ってください。」

憂鬱そうな神谷の顔を見て、少しだけ宮本が笑う。

「え…今笑いました?宮本さん僕見て笑いましたか?酷いな。その対応は酷くないですか?」

宮本は瞬時に面倒くさそうな表情になり、また携帯を開く。どうやら誰かと連絡を取り合っているようだった。

「ちょっ…えっ?結局、呼ばれてる意味とか何か説明はないんですか?」

運転をしながらチラリと宮本の携帯が目に入る。が、誰とやり取りをしてるか分かりはしない。

「はぁ…今回も無事に帰れるかなぁ‥‥怖いの嫌だなぁ‥‥」

神谷の言葉は自然と独り言となり、夜の闇に溶けていく。後ろの座席に座っていた瀧本一也も窓の外を見ながら、二年前の事、そして二か月前の事を思い出す。【呼ばれる】その言葉だけが異様に瀧本一也の耳にへばりつく。本当に呼ばれているのは僕だったのかもしれない‥‥何の根拠もないが、なんとなくそう感じていた。車は高速を降り、真っ暗な下道に入る。夜の闇にのまれ、辺りは何も見えない。きっと長閑なのであろう夜の闇を走る。あの場所が近づいてくる‥‥。

 三人の乗る車は一時間と掛からずに目的地に到着した。練馬とそう離れてはいない、埼玉の秩父にあるキャンプ場である。

時間は23時を超えている。車を降り、神谷はトランクからカメラを出し、懐中電灯を持ち、宮本は何か小さなバックを担いだ。三人はとりあえずロッジに向かう。ロッジには人の気配はなく、静かなものであった。

「まだ八月っすよね?ここ経営丈夫っすか?」

神谷が心配そうにロッジに近づく。

それを見て、宮本がため息交じりに応える。。

「ここのキャンプ場は二年前の事件から閉鎖されているよ。」

神谷は少し考え、

「ですよねぇ~。」

と間抜けな声をだした。それだけの事件が起き、未だ未解決。そうなるなと神谷は納得をする。ロッジの窓に懐中電灯を当てる。閉鎖を知らせる紙が中から貼ってあった。二年前に貼られたものであろうか、紙は薄汚れ、日に焼けて黄ばんでいた。ロッジの中には色々なものに白い布がかぶせてあり、長い間人が立ち入ってない事を示していた。キャンプ場の入り口には古びたキープアウトの黄色いテープがそのまま貼られており入り口を塞いでいる。

「行くぞ。」

宮本はそのテープをくぐり、中に入っていってしまう。

「ちょっ…宮本さん。逆に良いんですか?ここ立ち入り禁止じゃないんですか?」

神谷は入り口をカメラに収め、後を追いかけようとするが、後ろで立ち竦んでいる瀧本一也に気づき声をかける。

「あ…大丈夫っすか?」

瀧本は微かに震えだす右手を抑え、小さくうなずく。

「終わらせないと‥‥」

何かの覚悟にも似た表情をし、神谷を追い越し、宮本の後に続いた。

「‥‥あ、ちょっと、置いていかないで…」

神谷も跡へと続く。

入り口を抜けるとだだっ広い闇が広がっている。年単位で放置された芝は膝くらいまで成長を続け、ところどころ種類の違う草が生えている。宮本はこめかみに手を当てながら、このキャンプ地で最期に貼られたテントのあった場所へと歩みを続ける。後ろをついていく二人は無言である。

「ここか。」

大きな木の根元に着いた宮本。

「‥‥良く、分かりましたね。」

終始緊張をした顔の瀧本一也が答える。

「宮本さんは少し、変わった力があるんですよ。なんか別のものが見えるらしいんですよ。はは。」

ざっとした説明だなと宮本は思う。それを言われた瀧本も何とも言えない顔をしている。神谷自身も何故最後笑ったのか良く分かっていない。気を使い過ぎて何かおかしいテンションになっているようだ。

「あまり気にしないでください。ここであってますか?」

宮本は瀧本一也に問う。

「はい。そこがちょうどアッキーが死んでいた場所です。」

瀧本が答える。

「ひどい死に様だ。首がねじれてる。」

宮本がこめかみに手をやりながら少し苦しそうに応える。

「なぜ彼だけそんな死に方なんですか?と言うか、なぜ彼だけ遺体が残っていたんですかね?」

神谷が不思議そうに宮本に尋ねる。

「それを言うなら逆に、ほかの三人は何故消えたのか‥‥しかも掻き消す様に…。」

宮本は振り返り、瀧本に質問をする。

「瀧本さん、【例の】声は聞こえますか?」

声‥‥あの時聞いた声は聞こえない。あの頃と同じ、虫の音と遠くに聞こえる川の流れる音だけだ。あの時と同じ音。

「いえ‥‥まだ何も‥‥」

宮本はその返答を待ち、また歩き出す。瀧本は思う。この人は視えている…今彼は二年前の景色を見ているのか‥‥宮本が歩き出した方向は、自分と柳が奈緒を探しに行った方向だ。新聞の記事にもそこまで詳しくは載っていない。

「宮本さん!ちょっと!先行かないでくださいよ。ここ怖い場所なんでしょ?そんなおいていかないでくださいよぉ!」

この神谷と言う人物は何なのだろう。先を歩く宮本とは正反対に何も知らない感じがする。不思議なコンビだ。そう思いながら瀧本は二人の後を追う。

いくらか歩き、すっかりと山の中に入っている三人。宮本は、ピタリと足を止めた。神谷も瀧本も汗だくになり、息が切れている。

「ちょっと宮本さん。無言でツカツカ先行かないでくださいよ。この山危ない場所なんですよね?僕らが消えちゃったらどうするんですか?」

神谷が息も切れ切れ、宮本に文句を言う。宮本自身も肩で息をしている。

「瀧本さん。ここらへんですよね。三原奈緒さん、柳流星さんが消え、あなたが倒れた場所は‥‥。」

「はい。」

と瀧本一也は応える。流星は忽然と消えた。奈緒もそうらしい。どこに消えたかもわからないまま二年が過ぎてしまった。何もできないまま月日は流れ、自分達だけが助かったと勝手に思っていた。二か月前にサチが目の前で消えた。その時にやっと気づいた。何も終わってない事を、何にも解決していない事を‥‥自分の間抜けさと臆病さに気が狂いそうになった。どうしていいか分からなかった。警察や自治体に行ったところで何にもならない事は分かっていた。何とかなるなら二年前にこの事件は本当の意味で終わっていただろう。サチが消えてしまってから家から出る事もなくなっていた。たまに近くのコンビニに行くのがやっと。夜が来るのが怖かった。闇にのまれ、柳やサチのように消えてしまうのが怖かった。それとは逆に、自分も消える事が出来たなら、サチと同じところに行けるかもしれないと思ったこともあった。そんな時に必ずちらつくモノがある。志村明達の死体だ。サチがああなっていたら…俺は目を背けた。狭い家の中でただただ怯えるだけ。ある日、少しだけ外に出てみようと思った。こんな生活はいつまでも続けてはダメだと頭では分かっている。でも、恐怖に縛られ家のドアすら触れられない日々が続いてしまっていた。少しだけ外に出てみようと思い、近くのコンビニまで行くことにした。そのコンビニで月刊怪奇ファイルと言うオカルトの月刊誌を見つける。昔の自分ならこんな雑誌に興味を示すことはなかったであろう。何か手掛かりが欲しい。そう思いながらこんなコンビニで売っているオカルト誌に手を伸ばす自分がとてもバカバカしいと思う。そして、気が付いた時にはメールを送っていた。目の前の二人に言わせれば【呼ばれた】のであろう。車内の会話を思い出しながら瀧本一也はそんな事を思っていた。

「何やってるんですか?」

宮本は持ってきたバックから何かを出し、小さな声で何か呪文のようなものを唱えながら粉のようなものをパラパラと撒いている。

「昨日、このメールに目星をつけてから、色々と探ってみた。世話になっている奴にその呼び出し方と対処の仕方も一通りは聞いてはいる。ただ、何分、私らは化け物退治は本業ではない。うまくいかなければ三人ともこの場で呑まれておしまいだ。」

淡々とかいつまんで説明をする宮本に神谷は驚く。

「えっ、ちょっと‥‥失敗したら僕らも死んじゃうんですか?いやいやいや、そう言うのはプロに任せましょうって‥‥」

宮本は、香のようなものをいくつかの場所に置きながら話を続ける。

「そう願いたかったけどね。そいつ曰く、我々も時間がないらしい。」

「ああ‥…やっぱり僕らも取り込まれてるんですか‥‥宮本さん、どうして僕らはすぐに取り込まれるのでしょうか‥‥」

「職業柄だ。あきらめろ。」

ピシャリとふたを閉められたように、宮本は作業にもどる。神谷は小さく、

「そんなぁ‥‥」

とつぶやくしかなかった。宮本にもどこか緊張が走っているようにも感じる。携帯を見ながら一つづつ作業を確認する。

「すいません‥‥巻き込んでしまって‥‥」

居たたまれない表情の瀧本一也。

「気にしないでください。うちらも仕事と言えば仕事だし‥…逆に聞きますけど、記者の仕事ってどこまでが記者の仕事なんでしょうか?」

神谷はそっと涙をぬぐう。瀧本一也は、

「‥…すいません。分かりません‥‥。」

と口ごもるしかなかった。

「ははははは、ですよねぇ~頑張っていきましょう!」

神谷が無理やりな空元気を絞り出す。瀧本一也は思う。やはり、この神谷と言う男の存在が良く分からない。

「今から説明をします。」

一通り、準備を終えた宮本が最後の香に火をつけて立ち上がる。

「あなた方を襲った声の正体はどうやら、【山廻の衆(さんかいのしゅう)】と言う山の化け物である可能性が高い。山廻の衆とは字で記せば山を廻ると書く。発祥は四国、徳島のとある山奥の方だと言われています。もう何百年も前の話です。その峠には山賊のようなものが住み着き、夜な夜なその峠を通る人達を襲っては金品を強奪していました。史実には主に女性を標的に襲っていたと記してあります。老若関係なくそこを通る女性は襲われ、凌辱され殺されていたようです。無残に殺された者たちの怨念はいつしか形となり、山賊の頭領に憑りついた。頭領は七日七晩苦しみ、体中の体液を全て吐き出し、苦しみの中、八日目に息絶えたようです。」

神谷が顔をしかめながら応える。

「いや、それって自業自得ですよね。えっ?まさか、その八つ当たり的な奴ですか?頭領を呪い殺したけど、腹の虫がおさまらず今も彷徨い殺し続けてるぅ。みたいな?僕達には関係ないでしょうに。」

宮本は言葉を続ける。

「残念ながらそんな単純な話ではないんだ。この話はまだ続く。大勢の霊魂によって呪い殺された頭領だったが、そこで終わることはなかった。生前、数多の人を殺し、欲望のままに生きてきた男は死した後もその欲望は収まることはなかった。。苦痛から抜け出す事の出来た魂は自らを苦しめていた霊魂を飲み込み、自らの力へとしてしまったそうだ。」

「それが‥‥【山廻の衆】ですか…」

瀧本一也は一点を見つめながら宮本の言葉を反復する。

「そして、時間も距離も関係ない霊体の集まりは、獲物を探し、日本中の山を廻る。獲物は人間だ。奴らは動く、罠を張り、引っかかる波長を出す。まるで狩りを楽しむ遊牧民のように奴らは山を廻る。奴らが来た山には必ず特徴がある。」

瀧本紘一は志村明達の遺体を思い出す。

「アッキーの‥‥」

宮本はうなずく。

「そう、奴らに襲われた場所には必ず一体ねじれた遺体を残すのが習性らしい。まるで、モズの早贄のように・・・」

夜の闇の宮本の声が響く。神谷は疑問を呈す。

「あ、あの‥‥じゃぁ、その奴らってもうこの山にはいないんですよね?」

宮本は口元に印を結んだ指を持ってくる。

「そう、だから逆に私らが誘うのさこの山に。」

「えっ‥…」

「一度奴らにマーキングされてしまえば、どこに行こうが奴らの獲物だ。階堂サチさんの事を見ても分かるだろう?二年も間隔をあけても、あっさりと採り込まれた。一度つけられた印しを取るためには、奴と直接会わなくてはならない。」

瀧本一也は、口を固く結ぶ。震える体を必死に抑えている。宮本は一呼吸おいてこう結ぶ。

「覚悟はいいですか?瀧本一也さん」

瀧本一也は、静かにうなずいた。宮本はそれを見て、にやりと笑う。

「【山廻の衆】はいわば強い念に縛られた霊魂の集合体です。奴をバラして、力を分散できれば、その印も消えるかもしれません。」

瀧本も神谷も、宮本が何を言っているのか本当の意味での理解はできなかった。

「この【山廻の衆】と言う化け物にはもう一つ、特徴がある。それは【誰かを思う】と言う行為に奴らは反応する。大学生の青春真っ盛りなグループなんて言うのは奴にしてみれば御馳走以外何でもない。君たちはただ、運が悪かっただけだ。」

運が悪かった‥‥そんな言葉で片付くほど軽いものではない。でも、数多な事故や事件は得てしてそう言うモノだとも思う。交通事故、通り魔、ストーカー、強盗。それらに会う事は運が悪かったと思うしかない。瀧本一也は、唇をかみしめ、仲間たちの顔を、階堂サチの顔を思い出す。

ある日家に帰ると、うずくまり、同じ言葉を繰り返していた階堂サチ。恐怖に怯えながら目の前で消えてしまった自分の一番大事な人。それを見ていることしかできなかった。情けなく愚かな自分。瀧本一也の胸のあたりに激しい痛みが走る。

まるで、それを合図にするように宮本は呪言を唱え始める。

「おいおいと呼びし声に決して振り向くなかれ、汝の御霊囚われし御霊、解き放たれる事は成しえぬ事なり。一度は妙にあり、妙は二度へと続くまし、三度の念には薬を持ちてその場を記さん。」

何を発しているのか、神谷にはわかるわけもない。幾度となく繰り返される呪言は闇の中から聞こえるような不思議な感覚に襲われる。何度目かの繰り返しに何かが呼応する。さっきまでの雰囲気とは打って変わり、木々がざわめき、何かが周りをぐるぐると回りだす。それはいつしか大きな風となり、三人の周りを取り囲む。

「宮本さん‥…!何かおかしいですってぇぇ!」

神谷は叫ぶ。しかし、宮本は途切れることなく呪言を唱え続ける。

宮本が用意した香の外側を何かが走り回る。渦を巻き風を切り裂く音が人の【呼び声】へと聞こえだす。

「早い!もう来てますよ!これなんかいますよぉぉ!」

神谷が叫ぶ。三人を囲む黒い風は隙あらば三人を取り込もうと変則的に三人にその闇を伸ばす。が、何かにはじかれた様にその闇ははじき返される。

「み、宮本さんこれは‥‥」

瀧本一也が宮本に問う。それに答えたのはまさかの神谷だった。

「た、多分大丈夫!こ、これは宮本さんが張ってくれた結界みたいなもんだったんすねぇ!きっとぉぉぉぉっほぉぉっぉぉ怖い!」

神谷は悲鳴に近い声を全力で出しながら瀧本に説明をする。当たらずとも遠からず。良い線だと宮本は思う。

「‥‥‥汝御霊に問わんことを‥…」

宮本の呪言が終わる。それと同時に風は止み、夜よりも濃い闇は消え、あたりはまた、小川と虫の音の聞こえる場所に戻る。

「‥‥‥…」

神谷と瀧本は息を呑む。

「終わったんですか・・・?」

瀧本が緊張でかすれた声で宮本に問う。

「むしろ今からです。絶対にこの結界から出ないでください。それと、お互い何があっても絶対に触れないでくださいね。」

あたりは静寂が支配する。

「お~い‥‥お~い…なんだぁ。和也来てたんだ‥…こっちにこいよぉ。ねぇ、こっちにこいよぉ。」

瀧本一也の息が詰まる。聞き覚えのある声が少し離れた所から聞こえる。柳流星の声である。

「なんだあぁ…来てたんだぁ‥‥こっちにこいよぉ~」

柳流星の声は穏やかな雰囲気で瀧本一也に語り掛ける。

「み・・・宮本さん‥‥」

押し殺したように宮本に助けを求める。

「何か聞こえてますね。答えては行けません。」

瀧本一也は耳を塞ぎ、その場でうずくまる。

「ねぇ、こっちにおいでぇ~」

次に聞こえてくるのは三原奈緒の声だ。居ない。もう、二人ともこの世にいないのは脳内では分かっている。しかし、心が動きそうになる。瀧本一也を呼ぶ声はどんなに耳を塞ごうとも、聞こえてくる。まるで、頭の中で響いているようなそんな感覚に襲われる。

「こっちこいよぉ~」

志村明達が呼ぶ。瀧本一也の脳内に志村明達の変わり果てた姿がフラッシュバックをする。

それと同時に覚悟を決める。叫びだしたい恐怖と、次に聞こえる声を予測する。きっと‥‥

「ねぇ、あなたにも聞こえているんでしょう?」

階堂サチの声が耳の奥から聞こえる。何もできなかった。サチもつれていかれてしまった。大事だった。守れなかった。怯えていた。守れなかった。何もできなかった。ぐるぐると瀧本一也の胸中が渦を巻く。

「はぁ~い。」

脳内ではない。確実に隣から返事が聞こえた。とっさに頭をあげると、目のうつろな神谷がたっていた。

「なんで‥‥神谷さん?」

「よし、かかった。」

目を丸くしている瀧本の耳に確かに、確実に宮本の声が聞こえた。

「凛凛となりし鈴の音はやがて、冥界への門を開かんと。囂々と流れる水の音はいやしきものを流す音‥‥」

再び、宮本の呪言が始まる。神谷はゆっくりと声のほうに歩いていく。

瀧本は、それを止めようと神谷の手を掴もうとする。

「彼に触れるな!!」

宮本の罵声が響く、すんでの所で神谷に触れてしまった。

「くっ‥‥」

宮本は素早く印に切り替える。神谷の首はゆっくりと回りだす。今まで、引き止められたものがそうであったように、神谷の首は背中の方へとゆっくりと・・・・。

「侃」

宮本が印を結び、神谷に充てる。神谷はビクンと大きく波打ちその場で崩れ落ちる。

「予定変更。瀧本さん。お体お借りしますね。」

「えっ‥…」

宮本が印を変え、瀧本一也の首に触れる。触れられた瀧本は意識が薄れていく。苦しくもなく、痛くもない。むしろ心地いい。ゆっくりと倒れる中、夢にも似た感覚に襲われる。

「ああ、なんだぁ。皆も元気じゃないかぁ‥‥」

瀧本一也の周りに友人たちが集う。柳流星。三原奈緒。志村明達。そして階堂サチ。

「よかった‥‥サチ‥‥会いたかっ‥…」

瀧本が言い終わらぬうちにかつての友人たちは瀧本を掴み、採り込もうとする。わらわらと掴み覆い被さるように瀧本を飲み込もうとしている。その容姿は段々と姿を変えていく。

瀧本一也を片腕で掴み、余った片腕で自らの体を掻き毟る。掻き毟るというよりかはどこか指が自らの体に引っかかる場所を探しているようであった。奴らは体の一部に日掛かった指に力を籠め、自らの体を裂き始める。ボトボトと内臓を落としながら、その空いた隙間に瀧本一也を引き寄せようとしている。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

瀧本一也は叫ぶ。その叫びは何処にも届く事無く、徐々に距離を詰めていく。恐怖と嫌悪のなか、どこか冷静な思考がある事に気づく。サチ‥‥サチ‥‥これでサチと同じ場所へ‥‥引き寄せながらサチを探す。叫びながらサチを探す。皆がそれぞれに体を裂き、瀧本一也を体内に入れようとする。意識とは別に叫び続ける自分の声がどこから発されているのか分からなくなった時、サチの顔を見つけることが出来た。サチはにこりと微笑んで、自らの両目にゆっくりと指を差し込んでいく。自らの叫び声とは違う周波数のように異様に生々しく、ヌチャリと湿った肉に指を差し込む音が聞こえる。

「え‥…」

指の根元までが入ると、ボトボトと目玉や脳症などをこぼしながら自らの顔面を開けた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

瀧本一也の何かが壊れた。抵抗する力もなくなり、元友人達の肉塊へその身を流していく。


チリーーン

一つ、鈴の音が鳴る。


その音は絶望の世界の中に透き通るように響き渡る。

「凛凛となりし鈴の音はやがて、冥界への門を開かんと。囂々と流れる水の音はいやしきものを流す音‥‥」

 宮本の声が空間に響き渡る。

「古の怨念より、縛られし御霊、またそれを縛りゆく根源の開放を持って、邪を蛇へと返し、冥界へと送り届ける。山の神、海の神、大地の神、全ての森羅万象によりて流れゆきたり。」

声で支配された空間の中では動く者はいなかった。静かにその言葉を聞き、友人の形をかたどった者達はボロボロと形を崩していく。土くれの人形のように瀧本一也に纏わり着いていたものは土くれのようなものになって消えていってしまった。

「我ら万象のご加護、ここにあらん事を‥…」


チリーーン


宮本の呪言が終わり、今一度鈴の音が響く。

「終わったよ。瀧本さん」

その声を最後に瀧本一也は気を失う。湿った土の感触を感じながら、結局自分は何もできなかったことが悔しくて情けないと思いながら、それすらも伝える事が出来ぬまま瀧本一也は眠りについた。



どれくらい寝ていたのだろうか、瀧本一也は目が覚めると車の中であった。太陽は随分と高く上り、泥だらけの体のまま、後部座席に寝かされていた。

「今回何か全然分かんなかったんですけど、なんですか?無事に終わったんですか?」

神谷の声が聞こえる。皆無事だったんだと少しホッとする。

「宮本さん、何かですね、首が異様に痛いんですよね?何かしました?僕首ついてます?」

瀧本はその言葉に飛び起きる。あの時見た光景が一瞬脳裏に浮かぶ。

「あ、起きた?」

神谷は首をさすりながら、運転をしていた。

「良かった…首が付いてる。」

瀧本一也が神谷を見て安心をする。

「いや、それは付いてるけどさぁ、異様に痛いんだよね。瀧本さんなんか知ってる?宮本さん?何かしましたか?」

「うるさい。事務所に着くまで寝かせろ。こっちは一人で大変だったんだ。」

宮本は助手席で半ば強引に眠りにつく。

「はぁ~い、お疲れさまでしたぁ。」

神谷は首をさすりながら宮本の言う事をしょうがなく聞いた。

車は練馬方面へと向かう。日の光が異様に明るく、こんなに太陽を浴びたのは随分と久しぶりだなと、瀧本一也は後部座席の窓を目一杯開ける。風が心地よく車内を通り抜けた。



あの事件から一週間が過ぎた。宮本と神谷はまたいつも通りの日常へと戻る。PCを開き、メールを開く。何通かの下らない幽霊騒ぎの情報を見流しながら神谷はあくびをする。

「宮本さん、まだ首痛いんですけど、本当に何か知りませんか?」

いつも通り、不愛想な仏頂面を一瞬こちらに向け、

「病院行け」

とだけ言葉を発し、PC作業を続ける。

「あ、瀧本さんからお礼のメール来てましたよ。」

「そうか。」

「あの事件に関しては本当に何にも覚えてないんで、何かまぁ、うまく片付いてよかったですね。さぁ、次も探しておかないと…」

「そうだな。」

そっけなくそれだけ応えて、宮本は席を離れ、事務所を後にする。暫くすると缶コーヒーを二本持って帰ってくると、そのうち一本を神谷の机に置く。

「え‥‥どうしたんですか?これくれるんですか?えっ?嘘?気持ち悪いですよ。宮本さん?」

神谷は天変地異でも起きたのかごとく驚いている。宮本はあの事件以来少し、心にしこりが残っていた。あの日、神谷に内緒で神谷自身を依り代にしようとしたことはさすがにやり過ぎた感がある。【奴】からの指示とはいえ、少しばかり心が痛んだ。宮本は、缶コーヒーを置くと、何かを言おうとしかけたが、無言でPC作業へと戻っていった。

「‥‥なんなんですか?なんかおかしいっすよ?宮本さん?やっぱり何か知ってますよね?首の事なんか知って‥‥まぁいいか‥‥」

瀧本一也の一件は無事に記事になり、その界隈では中々の評判になっていた。瀧本一也と言う一人の人間は人知れず救われたのかもしれないが、結局、行方不明者はそのまま見つかる事はなかった。

「なんだかなぁ‥…」

手ごたえを感じられなかった神谷は少しモヤモヤを残したまま、宮本から貰った缶コーヒーに手を伸ばす。

「‥‥なんでホットなんすか‥‥このクソ暑いのに‥‥」

缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。まぁ、世界を救うヒーローになるつもりはない。僕らはまた次のターゲットを見つけるだけだ。

「あれ、このコーヒーうまいなぁ。」

会社のコーヒーと比べ、ちょっとご満悦の神谷であった。


       完




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