視えるか感じるのか良く分からない者に僕らは動かされている
@aw38
第一話 変わり・まじわり
そこに居たから悪いのだ。私は悪くはない。そこに居たあなたが悪い。私は悪くはない。その場に居なければあなたと出会わなければ私は何もすることはなかった。あなたはただ、道を歩き、私も道を歩く。たまに交差することが起きようとも、それは大した交わりではなかったはず・・。あなたは私に触れてしまった。あなたは私を認識してしまった。それと同じように私もあなたを感じてしまった。ただそれだけの事。ただそれだけの世界はゆがんでいた。まっすぐに居ようとすればするほど、他の人にはその世界はゆがんで見えてしまう。私は大きな声で叫ぶ。
「大丈夫だから」
その声は、相手に届くこともなく宙に消えるという表現では大きすぎるくらい、手前に落ちて消えた。ワァンワァンと鳴り響くこの耳鳴りのような音は、大きくもなく小さくもなく、ただただ鳴り続けている。私の存在する世界は実に不安定で覚束ないモノの塊である。何を知ろうが、逆に何も分からぬままでも、その世界には何の変化も与えるものはない。
「誰か聞いていますか?」
と投げかけたところで、その言葉は手前でポトリと落ちてしまう。ずっと先に居るあなたにはもちろん届く訳もなく、その言葉は土に吸収され、その姿を消す。土に吸収されたからと言って、それらのモノは、毒にも栄養にもなりはしない。地に落ちる雨が、その色を変えるような変化もない。私の放たれた言葉は、虚空をさまようこともなく、誰に聞かれるわけでもなく、その全ては、何の形もなさぬまま消えてしまうのである。
誰でもいい。私の言葉を聞いてくれ。私の存在を知ってくれ。その願いも虚しく消えていく。
すれ違ったあなたには責任がある。私の認識をしたあなたには責任がある。このドロドロと淀んだ私の中にあるものをあなたは受け取らなければならない。あなたは私を見てしまったあなたは私を知ってしまった。ただただ立ち尽くしているだけの私を・・・あなたは感じてしまったのだ。幾度となく繰り返される行為はもはや自らでは止める事は出来ない。あなたを巻き添える事には少々の改悛の情を抱かなくもない。だが、それは仕方のない事。私がここに居る事と同義。私はここに居る。あなたはたまたま出会ってしまったのだ。
本を閉じ、机に置くとすかさず宮本が話しかける。
「神谷君はこれをどう思う?」
神谷はまじめな顔をしながら頭を巡らす。正直な話どうとも思わない。むしろ意味が分からない。出社をした瞬間にこの本を渡され、理由も言わずに今すぐ読めと。
こういう状態に入った宮本に説明を求めても、それが叶った事はない。
神谷が勤めているのはマイナーオカルト雑誌の編集部である。新宿四谷にあるオフィス街の中、バブル期に乱立したコンクリート打ちっぱなしの古びた雑居ビルが並んでいる。その中の一段と錆びれたビルがある。一階には、最近インドカレーのお店が入り、二階は怪しげなマッサージ店が入っている。その中の三階から五階に入っているのがマイナーオカルト誌も取り扱う、E・ENDオフィスと言う小さな出版会社だ。オフィスと呼ぶにはお粗末な空間。狭い範囲に机が四つ向き合わせで固まっている。座れば後ろはすぐ壁だ。少し離れた所にこの場所の長、編集長の机がそれらを見渡せる位置に置かれている。席に着き、PCを開き、取材の元になるような場所を探したり、読者からのメールをチェックする。めぼしいものはない。その作業をひと段落終えた所で、先程の本を持った宮本が現れた。顔中髭で覆われていて、愛想と言う言葉を軒並み払拭したような男だ。宮本は鋭い視線でその本を神谷に渡した。
神谷は、何とか平常心を保ちつつ、その本を手に取り読み始めた。暫く読んでいると、宮本が少しイライラした様子で、
「何やってるんだ。そこじゃない。」
と不機嫌な顔を全開で吐き捨てるように言った。
「えっ・・そんな殺生な‥‥・」
思わず出た言葉を奇麗にスルーし、神谷から再度本を奪い、ページを開き渡した。
この宮本と言う男は、よく言えば天才肌なのだろうが、悪く言えば変人だ。この編集部に所属して大分長い間オカルト誌の記者をやっているらしい。神谷は三年前にこの編集部に入り、変人宮本とバディーを組まされている。編集長曰く、馬が合っているらしい。神谷は特に苦痛にも感じないが、たまにこの横暴なマイペースにため息が出る事がある。
「で、神谷君はどう思う?」
宮本が神谷に詰め寄る。神谷は髭面の割に目がクリっとしているなぁと、宮本の顔を見ながら考える。
「これはどう言う本なんですか?正直、ここだけ読まされても何にも分からないっすよぉ。」
こういう時は、素直に分からないと言った方がいい。昔、まだ宮本に気を使っていたころ、分かったふりをしてしまったことがある。最後まで分からないままで、挙句に死にかけた。その話はまた、別の機会にするとして、それ以降、分からない事は分からないとしっかり意思表示をすることに決めている。宮本は深いため息をした後、神谷に説明を始める。
「ああ、済まない。神谷くん。これはこの前、取材先で見つけた本なんだが・・・」
「えっ、また黙って持ってきちゃったんですか?」
宮本はあきれたように神谷の問いを返す。
「人聞きの悪いこと言うな。ちゃんと持ち主に許可を取って借りたんだ。」
まるで前科があるような口ぶりに宮本は少しむっとした顔をするが、それよりもこの一件が気になるようだ。
「先日、幽霊騒ぎで行かされた山奥の一軒家あっただろう。」
「ああ、はい。先月でしたっけ?随分遠かった奴でしたよね。ああ、宮本さんが途中インターでソフトクリームを…」
神谷は当時の事を思い出し、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。それを宮本がバッサリと切る。
「そんな話はどうでもいい。あの件自体は記事にはならない戯言だったが、あそこら辺はそういった話が多くてね。何かネタになるのではないかと、色々漁っていたんだ。」
「人の家を?」
どうしても宮本を盗人にしたい神谷の発言を軽く制すが、全否定も出来ない事に気づき、少し濁す。
「細かい所は気にするな。それでだ、あそこの家の屋根裏に通じるところの廊下に古い書物が山積みになっていただろう?」
神谷は、ひと月前の記憶を思い出してみる。
古いが手入れの行き届いた日本家屋。広い玄関を通され、客間への移動中、日の当たらない少し薄暗い廊下に書物が山積みになっていたのを思い出す。
「ああ・・宮本さん好きそうだなぁって思ってました。」
宮本はすかさず話し出す。
「あれは、あそこの家のご主人が書いたものらしいんだ。ご主人は民俗学や地形、その他あの界隈で起こる怪異について調べるのが趣味だったらしい。」
神谷は、訪問先の主人を思い出す。どうも、ぼやけている。はて、あそこの取材の対応は奥さんがしてくれたし、ご主人なんていたかなぁ…
「ああ…思い出した。ご主人ってあの仏壇の遺影の人ですか?」
「そうだ。趣味だったと言ったろう。まぁいい。」
「生きていたら宮本さんと趣味合いそうですね。」
「それでだ、せっかくなのでその書物をお借りしたんだ・・」
「えっ…全部ですか?いつの間に?」
「後日郵送してもらい、先日届いた。」
宮本の机の上にはその家で見た書物が山積みになっていた。近くには段ボールが転がっている。
「全部お借りしたんですか?」
あのか細い奥さんに荷物を詰めさせ郵送してもらったのか…少し気の毒にも思える。そんな奥さんの御好意の結果が、ただでさえ狭い机の上がその本で溢れかえっている様である。もうこの机の上では作業らしい作業は永遠にできないのではないだろうか‥‥
「まだ軽くしか目を通していないが、割と面白い。素人にしては良く取材が出来ている。」
宮本は本をパラパラと捲る。
「はぁ・・」
「その中の一冊がさっきの本なのだが、どうもこの本だけ毛色が違うんだ。」
宮本は、一息に話し終えるとコーヒーを一口飲み、また話し出す。神谷もコーヒーが欲しくなり、何十年使っているのかわからないこのオフィスのコーヒーメーカーにコーヒーを継ぎに行く。
「他の本はどれも取材場所や資料など詳しく書かれている。小説やエッセイと言うよりはレポートに近いものだ。あの近辺は昔から妖の伝説が色濃く残る場所だからな。ご主人は独自に調べ上げ、その様子を懸命に書き残していた。」
「はぁ…まぁ、そうですね。この本だけなんか物語と言うか…手書きなのが気になりますね…」
神谷は先程注いできたコーヒーに口をつける。この時になり神谷はいつも思い出す。ここのコーヒーは苦いだけだと。
「その本…ではないんだ。そのページだけと言った方が的確だ。そこだけ、そんな書き方になっているんだ。」
神谷は宮本から本を取り、パラパラとめくり何ページかを読む。
「あ、本当だ・・えっ・・何か気持ち悪くなってきましたね。」
本をそっと宮本に渡し、神谷は自らの手を払う。
「調べてみないか?」
「それをですかぁ?」
「どうせ今月ネタないだろう?」
神谷はPCを開き、宮本に見せる。
「まぁ・・めぼしいものはなさそうですね。」
宮本はPCを覗き込み、
「ああ、詰まらん内容ばかりだな。」
宮本が取材をしたがっている…いや、外に出たがっているのは明白だった。神谷は宮本との三年の付き合いの中で分かった事の一つに、この男は屋内の事務作業が嫌いだと言う事がある。何かにつけて、外に出ようとする。
「あんまり遠出ばかり続くと、また編集長に怒られますよぉ。」
神谷は、チラリと編集長のデスクに目を向けると、不機嫌で三日三晩煮込んだような顔の編集長がこちらに近づいてくるところだった。それを察した宮本は神谷の肩を叩き、
「うまくやれ。俺は下で準備しといてやる。」
宮本はそう神谷に告げると、そそくさとその場を離れた。
「ちょっ・・宮本さん!」
後ろから妙に力強い手が神谷の両肩を捕らえる。
「神谷ぁ。ちょっと話しようか・・・」
身長は特に高いわけではないが、何故かがっちりとした肉体を持ち、短髪色黒。プロレスラーにスーツを着せたような男だ。一度掴まれた肩は、もう二度と動かないのではないかと思うほど、がっしりと編集長の手に捕らえられている。神谷は思う。
「ああ~帰りたいなぁ・・・」
思わず音声となって出たその言葉を聞き、編集長はニヤリと笑う。
「まぁ、いつかは帰れるから安心しろぉ神谷ぁ」
編集長はまるで神谷を連行するように、一つ上の階の会議室へと連れていった。
それからいくらかの時間が過ぎ、神谷は宮本を助手席に乗せ車を走らせていた。車は長野方面へと高速を走っている。
「勘弁してくださいよぉ。編集長カンカンでしたよ。普通こう言うのは先輩の宮本さんが庇ってくれるものなんじゃないですか?」
車内では先程とは別の本を開き、窓の外もこちらも一切振り向きはしない。本に目を落としたまま宮本は応える。
「あいつは口ばかりで、金にうるさいから俺はあまり話したくない。こっちはちゃんと取材しているんだ。文句を言われる筋合いはない。」
チラリと宮本の横顔を見る神谷。仏頂面の二連続はさすがに辛いなぁと神谷は運転に集中する。
「編集長曰く、取材に行ったならちゃんと記事にしろって事らしいですよ。」
「ふん、あんな勘違いの話をどうやって記事にするんだ?くだらん。そもそも、あそこに行けといったのはあいつじゃないか。」
「まぁ、そうですけど…ああ…なんで俺が間に挟まらなきゃならないんすか・・。」
「俺よりも神谷君の方が話が早く終わる。」
淡々と語るこの先輩の言葉を聞いていると、神谷は内蔵の奥の方からまるでフロントガラスが曇るような勢いで溜息が出る。異様に疲れる。
「はぁ・・・勘弁してくださいよ。」
「そう、腐るな。そこのSA入れ、蕎麦位奢ってやる。」
「ありがと~ございま~す。」
無感情のまま、宮本に礼を言う。
神谷は宮本に就いているおかげで大分精神は鍛えられている。前の職場では、仕事こそ楽しかったが、人間関係はあまりうまくいかなかった。色々目に付く性分故に、雑な仕事に追われ、他者の仕事も手伝わされ・・・ある日、神谷はパンクした。いや、どちらかと言うとプツンと糸が切れてしまったのだろう。それからは早かった。翌日には辞表を出し、有休を消化し、次の職を探した。今の編集部もその時に見つけたものだ。第一線でバリバリと働くよりも、少しマニアックな所でじっくり過ごすのも面白いかもなと、面接に出向いた。結果はその日のうち、その場で採用となり、翌日からこの宮本と組まされた。
噂で聞いたが、ちょうど前任が泣きながら会社を飛び出した直後だったらしい。
良い大人が泣きながら出て行く職場にただただ不安を覚えたが、とりあえず指示に従い三年が経ち今に至る。
「ほかの資料と照らし合わせて、少し分かった事がある。」
宮本は、SAのさしてうまくもなく、かといって不味くもない蕎麦を啜りながら話を始める。
「何が分かったんすか?」
神谷は月見蕎麦の卵を今崩すのか、後で崩すかを考えながら、とりあえず卵のかかっていないそばを啜る。
「この男、真西孝弘は触れては行けないものに触れてしまったようだ。」
「お…なんか穏やかじゃないっすね。」
「元々、この地域では神隠しが頻繁に起こっていた。」
宮本は、掛け蕎麦を一啜りして、七味をかける。
「入れすぎじゃないですか?」
「資料には、もう何百年も前から度々、人が居なくなった事が記されている。上は40代から下は一桁まで・・一般的な神隠しのイメージは主に子供が多いのだが、この村では大人もその被害にあっているらしい。…少し辛いな…。」
宮本の丼ぶりの表面は結構な量の七味が浮いている。
「ですよね。結構入りましたもんね。」
神谷は、卵を軽く潰し、その下の蕎麦を掬うように卵をつけ、それを一気に啜る。
「うまい。でも、珍しいですね、宮本さんが「らしい」なんて。明確な資料はなかったんすか?」
宮本は水を飲み、
「ああ。借りた資料には特にこれと言った・・新聞の切り抜きや、何か実際に起こった事を証明するものはなかった。もちろん、検索もかけてみたが、見つける事は出来なかった。」
「ええ~・・ネットでも見つからないって言うのは・・・ガセの可能性高くないですか?」
余程蕎麦が辛かったのか、宮本は七味の入れ物を手に取り、今一度観察する。
「あ、それ内蓋取れてますね。」
一瞬、嫌な顔をして、入れ物を元に戻す。
「その可能性はないとは言い切れない…が、【ああ言う村】は情報が外に出にくい事がある。調べるにはちょうど良い機会だ。」
神谷は少し嫌な予感に襲われる。
「宮本さん…これでガセだったら…」
宮本は神谷にその先を言わせんとばかり立ち上がり、丼ぶりを返しに行ってしまった。
「マジですか…次、記事にならなかったら本当にヤバいっすよ。」
「神谷君。いつまで食べてるんだ。早くいくぞ。出発だ。」
「…は~い。」
神谷は色々な思いごと蕎麦を掻き込み、荷物を持ち丼ぶりを返し車へと乗りこんだ。
それから二時間位走っただろうか、高速を降り一般道へと入る。少し走ると辺りは野山や畑、田んぼが広がる風景にかわる。
「随分と長閑になってきましたね。」
「先月行った場所より大分東側だ。先ずは現場を調べる。」
宮本は地図を片手に神谷へ指示を出す。
「この車、そろそろカーナビ付けませんか?」
「今から行くところはどうせ住所がない。次、右」
高速をおりてから、小一時間は走っているだろうか、辺りには民家も畑もなくなり、段々と心細くなってくる。
「宮本さん。本当に道あってますか?」
「もうすぐだ。」
辺りはうっすらと夕日が差し込んできている。少し赤みがかった山々は奇麗ではあるが、それを楽しむよりも、神谷は不安に襲われている。いよいよ辺りには民家らしきものは見えなくなる。すれ違う車も、もう随分と見ていないような気がしている。
「宮本さん・・もしかして・・山登りますか?」
宮本の手に地図はなく、軽くこめかみを抑えながら何かを見ている。
「神谷君。おめでとう。大当たりだ。」
宮本の時折発せられるナビにより道を進める。人気のない山のふもとのちょっとした広場に車を止める。宮本はこめかみを抑えながら時折目を細くさせ、何かを見ている。
「うわ・・宮本さんもしかして、また何か【受信】してますか?」
「よくは分からないが、なかなかだ。日の落ちきる前に行こう。」
宮本と神谷は、車から荷物を出し、山へと入っていった。カメラを抱え、宮本の指示で異様に重いバックを持ちながら宮本の後に続く。宮本は、獣道と言うにも申し訳程度の道と言えぬ道を何かに導かれるように進む。
「ちょっと…ええ…ここもう、道じゃないですよ?宮本さん…これ大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかは分からん。ただ…」
宮本は時よりこめかみを抑え、何かを感じ取ったように歩き出す。
「何が見えてるんですか?」
突如止まり、何かを感じ突如歩き出す。その後ろを神谷はただついていくだけしかなかった。
神谷は思う。神谷自身は幽霊や怪異など、今まで全くと言って良いほどに関わりのない人生を歩んでいた。精々、夏の特番で怖い話を見るくらいだ。三年。この宮本と言う人間に関わりだしてから、それらは自分のすぐ側にあるものだと認識した。そして、この宮本の特異体質も思いの外すんなりと受け入れることが出来た。
彼は何かが視えている。
自分には入れない世界の話だと思う。何がどうなって、いつ頃からそうなったのか神谷は知らない。今の所、特に詮索する気もない。ただ、こう言うモノだと受け入れているだけである。
「見つけたぞ。」
ガサガサと歩いていた宮本の足が止まる。そのすぐ後ろを大荷物を抱え、息を切らした神谷が茫然と立っている。
「はぁ・・はぁ・・はぁ・・あの・・少し、荷物持ってくれませんか・・」
道なき道をもうどれくらい歩いただろうか、景色は変らず、木と草と山肌だけである。同じ景色の中で斜面の存在だけが体感ができる。息の切れた神谷は宮本の肩越しにその先を見る。
小さな祠があった。今にも朽ち果てようとしているが、何故か異様にはっきりと見える。すでに朽ち果てている元は鳥居だったと思われる朱い木の杭が二本間隔を開けて地面から生えていた。
「これは・・何の祠ですか?」
宮本が息を整え、汗をぬぐっている神谷の担いでいるカバンを奪い開く。それを見た神谷は思わず力が抜ける。
「ちょっと・・・そんな厚い本五冊も入ってたんですか?ねぇ・・人に何を持たせて、山を登らせているんですか?」
宮本はその言葉は聞き流し、そのうちの一冊を手に取り、パラパラとページをめくる。
「あった・・。神谷君この祠は今から百年も前に建てられたものらしい。こんな山奥で・・何を鎮めていたんだ・・。」
山の斜面には陽の光は届いておらず、見上げた空が薄暗くまだかすかに夕日の赤色を残しているだけである。
「宮本さん・・もう、暗いです。日が完全に落ちました。」
宮本は神谷の言葉に動じず、何かを探している。
「神谷君。明かりを持っているか?」
「もう・・帰りたいなぁ・・今日はずっと帰りたい・・」
神谷は、携帯のライト機能をオンにして、宮本に渡す。
「宮本さんの携帯でもこれ出来ますからね。」
宮本は携帯を受け取り、祠の中を照らす。
「鬼の・・・道祖神・・・か?・・珍しい・・・」
新しいものに興味を持ってしまった。こうなると宮本はテコでも動かない。
「何かここ・・嫌だなぁ・・あ、何か肌寒いっす。宮本さん。明日来ましょうよぉ。明るいうちにぃ。」
神谷は自らの両腕をさすりながら宮本に訴える。宮本はその言葉を聞き流し、道祖神を細かく見ている。コケに覆われ、その全容は中々抑えることはできない。裏には文字のようなものが彫られている。経文…宮本は本をめくり、照らし合わせる。
「神谷君、これは本当に珍しいものだ。そもそもこういう道祖神と言うのは山の神を模したり、道中の安全を願うために人の通る峠や道端に置かれるものであって、こんな人の通らない場所に置く事はまれなんだが…この場所は…」
宮本を激しい頭痛が襲う。激しい頭痛の中、宮本の周りだけ重力が増したように体が重くなる。宮本は何かいけないものを【受信】する。
「…くっ…ああ…これは…あまり長くここに居てはいけないみたいだ。神谷君。車に戻る…」
宮本は頭を押さえながら倒れこむ。辺りはすっかりと闇に包まれ、神谷が渡した携帯の明かりだけが光っている。
「嘘…ちょっ…宮本さん…車までは倒れないでください…ちょっ、嘘でしょ?この荷物に宮本さんおぶるの?無理ですから…宮…」
宮本が絞り出すような声で神谷に言葉を投げる。
「すまない…神谷君…囲まれている。」
すっかりと暗くなった辺りは時折、生暖かいような冷たいような湿気を含んだ風が吹きぬける、山の日暮れはしっとりとした空気をはらみ、倒れ込んでいる宮本と、それを見ている事しかできない神谷の不安を煽る。宮本は何とか中腰にはなったが立ち上がれそうにない。
何かが居る。自分達のほんの数メートル先、確実にこちらを認知している何かが居る。
【足音】とか【影】とかではない。何かの圧迫を感じる。霊感のない神谷にもわかる。さっきまでの山の雰囲気とは違い、生き物のそれとは違う気配が、自分達の周りを囲んでいる。
闇よりも深い闇の塊が神谷と宮本を取り囲むように揺れている。
・・・・ここは気軽に来てはだめな場所だ・・・・
神谷と宮本を囲むなにかは徐々に輪を縮めていく。このまま、恐怖に支配され、動かなければ何かが起きる。それはどう言うモノかはわからない。神谷の本能が告げる。このままではだめだと。自分の意思とは関係なく、神谷の口からは少し裏声がかった悲鳴が垂れ流されていた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁ」
神谷は走り出す。宮本を担ぎ、荷物を持って。
神谷は走りながら思う。緊急事態だ。荷物など置いて逃げればいいと思う。何故、自分は律義に荷物も持っているのだろう。そういう性分なのだと、諦めながら神谷はがむしゃらに走る。来た道なんか覚えていない。ただ、あの祠から、そこに向かって距離を縮めてくる複数の何かから離れるためにがむしゃらに走った。
真っ暗な闇にのまれ、地を這う草が神谷の足に絡みつく。何度もバランスを崩しそうになるが、神谷は踏ん張り、ただただ、足を前へと出す。
どれくらいの時間、どれくらいの距離を走っただろうか。真っ暗闇の山を抜け、舗装されている道に出た後も神谷は走り続けた。振り向けばさっきの【何か】がまだ近くに居る気がした。舗装された山道の先に、煌煌と照らす看板が目に入る。いつも見ている蛍光灯の灯りがこんなに嬉しく感じた事はない。その看板には【明郎庵】と言う名が記されている。古い旅館であった。
「驚きましたよ。お連れさん、気が着きましたか?」
着物姿、60代半ばの妙に色っぽい女将、大谷静江が夕食の準備をしながら宮本に話しかける。
「まだですが、もう少し休めば時期に復活するでしょう。」
宮本は、急な来訪に対応してくれたことに改めて、感謝を伝えた。
「息切らして、ドアをガンガン叩くから強盗かと思いました。」
「驚かせてしまってすいません。」
「ちょうど閑散期ですので、普段のモノは出せませんけど、その分お安くしときますから堪忍してくださいね。」
いたずらっ子のように女将は微笑む。十畳ほどの和室で畳からは微かに井草の匂いがし、昔ながらの赤いテレビと小さな金庫、床の間には小奇麗なガラス製の器に、この女将が活けたのであろう花が飾ってあった。
「っはぁぁぁぁあ!」
畳に寝かされていた神谷が息を吹き返す。
「ほら、目覚めました。」
神谷の突然の復活に目を丸くしながら、大谷静江は神谷に言葉をかける。
「まぁ、凄い汗・・よろしかったら、食事の後にお風呂でもどうぞ。一応、ここの旅館の売りですので。お浴衣とタオルは、そこの棚に入ってますので。何か足りないものありましたらお気軽にフロントまでお言いつけくださいな。内線は#001番でフロントに繋がりますので。それではごゆるりと」
女将は多くは聞かず、食事の準備を済ませ、部屋を出る。神谷は寝起きで少しぼーっとする自らの頭を軽く掌でたたく。異様な倦怠感と疲労で体は重い。辺りを見回し、どこかの宿泊施設である事を悟る。
「ちょっと宮本さん・・泊りなんか聞いてないですよ・・・」
「しょうがないだろ。君が倒れてしまったんだ。」
「このお金・・どこから出るんですか?」
「帰ったら戦争だな。」
「勘弁してくださいよ・・・」
「せっかく用意してもらったんだ。先ずは飯だ。」
「ああ・・疲れた・・ああ・・おいしそう・・。」
二人は夕食をとる。小さく仕切られた器に色とりどりの料理が繊細に配置されている。神谷はおひつから二つの茶碗へ米を継ぎ、一つを宮本に渡す。
「いただきまぁぁす。」
先程まで倒れていたとは思えない勢いで、神谷は飯を口の中に放りこんでいく。
「宮本さん!これめっちゃうまいです。良いですねぇ~旅館のご飯!」
夕食後は風呂に入ろうと、心なしか楽し気な宮本に連れられて、大浴場へと向かった。
湯を頭から浴び、今日一日の疲れを取る。こんなに走ったのは何年ぶりだろうか・・人を背負いよくあんな山を駆け下りられたものだと神谷は自分に感心していた。
「宮本さん・・さっきのは・・・」
宮本はしっかりと肩までつかりながら、湯船の奥にある大きなガラス窓を見ている。外は真っ暗だが、大浴場の漏れ明かりで、下に川が流れているのがかろうじて見える。
「朝は山も見えるだろうなぁ。」
暢気なものだなと神谷は思う。
「あそこは何かを祭っている訳じゃない。何かを封印している。」
さっきまでのテンションとは違い、その言葉は緊張を帯びていた。
「なにを・・」
「そこまでは今は分からない。少し・・・気になる事が出てきた。明日もう一度、あの奥さんの所に行こう。」
宮本はそれだけ言うと目を閉じた。神谷も肩までつかる。今さっき起きた事が夢であったかのようにぼんやりと断片的に思い出す。
「あ・・露天風呂あるんですね。」
神谷は、室内風呂をでて、露天風呂に移動する・・・が、すぐに戻ってきて、室内風呂につかりなおした。
「どうした?露天風呂は?」
「カエルが煮立ってました。」
「山だからな・・しょうがないさ。」
二人は湯船に溶け込むように疲れをいやす。
部屋に戻ると、真っ白いシーツにふかふかの布団が敷かれていた。
「はぁぁぁ・・・癒されますねぇ。」
お風呂で温まった体で布団に倒れこむ神谷。一瞬のうちに眠りに入る。宮本は、明かりを落とし、窓際に置かれている椅子に座り、外を見る。月が奇麗に出ていた。鋭利な刃物のように細くとがった下弦の月だ。その周りには星も見える。東京の景色とは大分違うなと暫く月と星を眺めていた。
ふと思い立ち、再び明かりをつけると、小さく神谷がうなるが、起きる様子はなさそうだ。神谷が大事に抱えて走ったカバンを漁り、一冊の本を・・・
「・・・ん?」
気のせいか・・少しカバンの中に違和感を覚える。
「やれやれ・・」
本を一冊取り出すと、その本に一本の長い髪の毛がひっついていた。
「ここも何か関係がありそうだな。」
宮本は誰に言うわけでもなくそう呟くと、部屋の灯りを消し、備え付けの手元の灯りをつけ、本を開く。
そこに居たから悪いのだ。私は悪くはない。そこに居たあなたが悪い。私は悪くはない。その場に居なければあなたと出会わなければ私は何もすることはなかった。あなたはただ、道を歩き、私も道を歩く。たまに交差することが起きようとも、それは大した交わりではなかったはず・・。あなたは私に触れてしまった。あなたは私を認識してしまった。それと同じように私もあなたを感じてしまった。ただそれだけの事。ただそれだけの世界はゆがんでいた。まっすぐに居ようとすればするほど、他の人にはその世界はゆがんで見えてしまう。私は大きな声で叫ぶ。
「大丈夫だから」
その声は、相手に届くこともなく宙に消えるという表現では大きすぎるくらい、手前に落ちて消えた。ワァンワァンと鳴り響くこの耳鳴りのような音は、大きくもなく小さくもなく、ただただ鳴り続けている。私の存在する世界は実に不安定で覚束ないモノの塊である。何を知ろうが、逆に何も分からぬままでも、その世界には何の変化も与えるものはない。
「誰か聞いていますか?」
と投げかけたところで、その言葉は手前でポトリと落ちてしまう。ずっと先に居るあなたにはもちろん届く訳もなく、その言葉は土に吸収され、その姿を消す。土に吸収されたからと言って、それらのモノは、毒にも栄養にもなりはしない。地に落ちる雨が、その色を変えるような変化もない。私の放たれた言葉は、虚空をさまようこともなく、誰に聞かれるわけでもなく、その全ては、何の形もなさぬまま消えてしまうのである。
誰でもいい。私の言葉を聞いてくれ。私の存在を知ってくれ。その願いも虚しく消えていく。
すれ違ったあなたには責任がある。私の認識をしたあなたには責任がある。このドロドロと淀んだ私の中にあるものをあなたは受け取らなければならない。あなたは私を見てしまったあなたは私を知ってしまった。ただただ立ち尽くしているだけの私を・・・あなたは感じてしまったのだ。幾度となく繰り返される行為はもはや自らでは止める事は出来ない。あなたを巻き添える事には少々の改悛の情を抱かなくもない。だが、それは仕方のない事。私がここに居る事と同義。私はここに居る。あなたはたまたま出会ってしまったのだ。
本を開いたまま、宮本は無精髭で覆われた自らの顎を撫でる。
「これはどこからの視点で・・・誰からの視点なんだ・・。そもそも・・これは誰に言っている・・。」
前のページを開く。その直前までは今まで神隠しにあった者たちの事が書かれていた。百年以上前の事から、十数年前の被害まで。その鮮明な記載に舌を巻く。
「よく一人で調べられたものだ。」
そして、被害者の中に一人見覚えのある名前があった。
「真西孝行・・1975年5月・・今から50年前・・・・・」
名前から察するに真西孝弘の親族だろう。真西は未だこの者を探し出したくて、神隠しの事を探っていたのか・・。実に長い年月だ。気が遠くなる。宮本は本を閉じる。部屋の中では気持ちよさそうに寝ている神谷の寝息が聞こえる。動けなくなった宮本を背負い、懸命に走ってくれた。顔こそは見えなかったが、必死な顔だっただろう。あの山を駆け下り、たまたま見つけたこの旅館の扉をガンガン叩き助けを呼んでいた。女将の顔を見るなり気を失ってしまった神谷。
「助かったよ。ありがとう。」
寝ている神谷に礼を言い、その隣の布団に自らも入る。
「この件は根が深そうだな・・」
一つあくびをしたかしないか。宮本も深い眠りへと落ちて行った。
神谷は夢を見ていた。
幼い兄弟が山中を歩いている。お兄ちゃんと思われる少年はどこからか長い枝を拾い、それを振り回しながら歩いている。弟と思われる兄よりいくらか小さ目な少年は、すでに疲れ、兄の大分後ろにしゃがみこんでいた。
「もう帰ろうよぉ」
前に居る兄に叫ぶように言う。兄はその言葉を無視・・と言うよりは、草や木を剣に見立てた枝で叩くことに夢中になっている様子だ。兄はどんどんと山奥に入っていってしまう。
「お兄ちゃん・・」
神谷は気づく、これは弟の視点なのだと。弟の目から見える世界ではない。弟の姿をとらえている。弟は、しょうがなく立ち上がるが、もう歩く気はないようだ。草木の中にポカンと浮き出た大きめの石に腰を下ろす。
「お兄ちゃ~ん」
どれだけ叫ぼうとも兄の返答は帰ってこない。自分の声が山彦にのり、幾重にも聞こえる。弟はそれしか聞こえない山に少し不安を覚える。急に心細くなる。汗が渇いた体が少し肌寒くも感じる。何かの気配を感じ、振り向くが何もない。通ってきた道が先に延びているだけである。さっきより山が暗くなったように感じる。日が沈む時間ではないはず・・静かな山に時折、気が狂ったような鳥の鳴き声が聞こえる。何かに襲われたのか・・ただの威嚇なのか・・山では普段よく聞こえるただの鳥の鳴き声なのに・・今は少し怖い。兄は戻ってこない。だんだんと耐えられなくなり、とうとう弟は泣き出してしまった。
神谷は思う。こんな所に一人でいたら大人でも怖いだろう。
「お兄さんは誰?」
少年は泣きながらその顔を上げ、神谷を見る。
「え・・あ・・・」
神谷はこの夢の世界で、自分は存在しないものだと勝手に思っていた、急に声を掛けられ大層驚いた。
「お兄さんは僕のこと知っているの?」
さっきまで石の上に座り泣いていた少年は無表情で神谷の前に立っていた。神谷は驚く。
「お兄さんは何を探しているの?」
「え・・いや・・」
軽い眩暈を覚える。景色がガタガタと揺れだす。神谷は思う。これはダメだ。早く夢から覚めなくては。これは関わっちゃダメな奴だと。
「もう逃げられないよ。僕もそうだったから。」
無表情の少年の顔にはあるべきものがない。白いタンクトップに半ズボン。髪は短くどこにでもいる普通の少年なのだが・・・その顔には瞳がなかった。ポッカリと開いたその穴は虚空に通じているような深い闇が宿っている。目を背けたいのだけれど、体は動かずその穴をずっと見させられている。少年は言う。
「こうやって出会ってしまったんだ。あなたが悪いんだ。」
少年の声はすでにさっきまでとは違う、低くくぐもったモノに代わっている。
「僕に気づいてしまったあなたが悪いんだ。僕は悪くない。」
少年の瞳の穴からあふれるように鮮血が流れ出す。神谷は思う。これ以上はダメだ連れていかれる。これはただの夢ではない。少なくもない経験がそれを伝える。・・が、動くことも目覚める事も出来ない。
「ねぇ、一緒に行こう。皆待ってるよ。」
少年だったモノが神谷の腕をつかむ。力は少年のそれではなく、腕がそのまま握りつぶされる音がする。
「うわぁぁぁぁぁあぁあ・・・」
自分の口から出た叫び声とは自らも気づかないうちに叫んでいた。骨の砕ける音が妙に現実的に鼓膜に響く。
「さぁ・・行こう・・一緒に行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう・・・」
その声は壊れたレコーダーのように繰り返し流れ続ける。神谷は夢の中で気を失った。
「・・みや君・・・・みや君・・・」
途切れる意識なのか、逆に覚醒しようとしている意識なのか、神谷には判断が付かなかった。ただ、聞き覚えのある声が自分を呼んでいる。いつものあの声だ。神谷は思う、この声がこんなに安心する時が来るなんて夢にも思わなかったと。もう大丈夫だ・・。
「これで終わらないからね。」
覚醒する寸前、少年の声がはっきりと耳元で聞こえた。
「こわっ!」
神谷が目を覚ますと、宮本はすでに朝の準備を済ませ椅子に座っていた。
「やっと起きたか。大分うなされていたぞ。」
「宮本さぁぁぁん」
神谷は、宮本の顔を見て抱きしめたいくらいに安心した顔を宮本に向ける。
「・・・神谷君・・・その気持ち悪い顔を早く洗ってきなさい。」
宮本は大分引いていた。少しずつ頭も起きてきているが、まだボーっとしている。
「・・・・あ・・・はい・・。」
神谷は朝の支度を始める。
「もうすぐ朝食の準備ができるそうだ。さっき朝風呂に行ったとき女将が言ってくれた。」
「朝風呂・・・いいなぁ・・」
「残念ながらもうそんな時間はない。早く着替えろ。飯を食ったらすぐ出るぞ。」
宮本は地図を広げながらある場所を指さす。
「しかし君はすごいなぁ。ここが今いる場所だ。そして、車が置いてある場所だ。」
二つの点は山の正反対側にある。どうやら真反対に下山している事が分かった。
「・・・だって・・しょうがないでしょ!あんなのパニックになるでしょう!ええ!ああ!また山登るんですか!ああ!またあそこ通るんですか!こわいなぁ!嫌だなぁ!」
順々に理解したことを全て口に出す神谷に特に表情も変えず宮本が答える。
「安心しろ。訳を話したらここの人が車でそこまで送ってくれると言ってくれた。山を迂回する形で道はつながっているらしい。」
「よかったぁぁぁぁ。」
服を着替え終わった神谷。準備が出来ましたと言わんばかりに立っている。
「寝癖くらい直せ。身だしなみは記者の基本だぞ。」
何を言っているんだこの髭面が・・・神谷はそう思いながら手櫛で髪を撫でつける。
旅館を出て、30分位車を走らせると、昨日の夕方ごろに到着した場所に着く。見覚えのある車が昨日のまま止まっていた。当たり前の話だ。宮本と神谷は旅館の人にお礼を言い車を降りた。
「おお、そのままですねぇ。」
「当たり前だ。」
「いや、こう言うのって車に戻ると車がボロボロで落ち葉や埃に覆われていて、まるで何年も放置されているようなのよく聞くじゃないですか。」
「すでにこの車はボロボロだ。早く鍵を開けろ。」
神谷がポケットに手を突っ込む・・鍵の感触がない。
「!!」
落としたか、と一瞬ひやりとするが、
「あ、悪い悪い、鍵は俺が持っていた。」
宮本が神谷に鍵を投げる。
「勘弁してくださいよぉ。ああびっくりした。こんな所で落としたら見つからないっすよ。」
神谷は鍵を開け、荷物を後部座席に積み、運転席に座る。
「あっえ?今日も運転僕なんですか?」
「細かいことは気にするな。少し調べたいものがあるんだ。」
「は~い。」
神谷は渋々エンジンをかけ、車を走らせる。
運転中宮本は持ってきた本をずっと読んでいた。数ある本の中で何故この五冊だったのか神谷は聞きそびれていた。
「宮本さん。その持ってきた本は何が書いてあるんですか?一冊は僕も読みましたけど・・」
宮本は本から目を離さず答える。
「一冊は簡単に言えば行方不明者リスト、二冊目はこの界隈の奇譚をまとめたものだ。三冊目はあの祠の事が記されており、四冊目は【彼の生い立ち】が書かれている。そしてこの五冊目には【あそこの家】の事が書いてある。」
神谷は、先月行った家を思い出す。
「・・・でも、記事にはならないって・・・」
宮本はため息とともに本を閉じる。
「編集長の伝文が間違っていた・・・と言ったところだ。この前、奴は俺たちに何を言ってここまで来させたか覚えているか?」
「ああ、はい。夜な夜な怪奇現象に悩まされている夫人が山奥に一人で住んでる。どうせ暇だろ?言って取材でもして来い。・・・でしたっけ?」
宮本の顔が不機嫌になる。
「あいつはいつもそうだ。怪奇現象と言えば俺達が動くと思っている。」
「違うんですか?」
「実際どうだった?ただの野生動物が侵入して、モノを動かしたり、走り回っているだけだったじゃないか。馬鹿らしい。本当の取材はこれだ。」
宮本は少し声を荒げ、本を後部座席に投げ捨てる。
「神隠し・・・ですか?」
「あの奥さんは何か知っている。この本を読んで分かった。その事を懸命に調べていた真西と言う男は数年前に他界している。これは推測だが・・真西はあそこにはいない・・・。」
宮本は神谷が何かを言う隙を与えぬように次の言葉を吐く。
「これらの本を見つけなければ、ただの動物珍道中の記事を書かされるところだったんだぞ。」
動物珍道中と言う言葉が少し面白かった。神谷は想像する。タヌキやイタチなどをこの髭面の男が必死になって追っている姿を。
「神谷君、このフンはまだ暖かい。あいつらはまだ近くに居る。」
似合わなくもない。きっと神谷達はテントを張り、暗視カメラで一晩中、獣たちの動向を追っているのだろう。それはそれで面白い。
「何ニヤついている。」
宮本は、編集長の事を思い出し、怒りのメーターが徐々に上がりだしていた。これは面倒くさいと、話を戻す。
「あの祠の一件もその本に?」
「当たり前だ。さっきの本に書いてあった。あそこが【神隠し】の発生源なのは間違いない。」
「発生源・・とは?」
宮本は後部座席に投げ捨てた本に手を伸ばし、もう一度手に取りパラパラとめくる。
「面白い記事を見つけた。【山中にて、異界に通ずる穴あり、その穴、天井はさほど高くはない、が、奥行きは底知れぬものなり。】と。多分だが、あの祠の奥には冥界への入り口があるのだろう。そして、確実にその穴は今も開いている。」
「冥界やら異界やら怖いですねぇ。」
「日本には全国に何箇所か異界に通じる穴が未だに現存している。その中の一つだろ。」
神谷は昨日の事を思い出す。祠を中心に目に見えぬ何かが自分達を取り囲んでいたことを。あの闇をかたどった得体のしれぬモノ、足音しか聞こえなかったそれらは、自分達を祠の方へ追い詰めようとしていた事を。
「あのままあそこに居たら・・・」
「我々が数年ぶりの神隠しの被害者になっていただろう。」
あの感じを思い出すと神谷は寒気を覚える。複数の目に映らぬ者たちの足音、どんどんと強くなる恐怖心。そして、あれ以上近寄られていたら、神谷は走り出すことが出来なかっただろうと思う。
「めちゃくちゃ危なかったんじゃないですか!」
「ああ。無事でよかったよ。」
宮本は他人事のようにまた、本に目を移す。
「どうやら、彼らの正体は民衆の【衆】と書いて【おおい】と言うらしい。何かのタイミングで発生し、人を異界へと引き釣り込む。連れていかれた者は二度とこちらの世界には戻ってくることはない。・・・と書かれている。」
「こわっ・・・。なんなんですかそいつらは?」
宮本は顎のあたりの髭をなでながら答える。
「主に精霊の類ではないかと思う。これはまだ、調べる必要が多分にあるが、彼らに意思はない。奥に居る何者かによって動かされている・・言わば使いみたいなものだと思う。」
宮本の言葉をかみ砕き、神谷は想像する。
「悪魔の使いとか、天の使いとかの?」
「そうだ。・・・もう着くか・・・」
「はい。意外と近いもんですね。」
「車だとな。」
車が止まる。宮本はすぐに下りて、大きなお屋敷のインターフォンに近づく。インターフォンを押すと暫くして、70代の女性、真西和江の声が聞こえる。
「先月はお世話になりました。月刊怪奇ファイルの宮本です。」
真西和江は、二人を中へ入るようにと誘った。
門をぬけ、広い庭を抜けると、大きな屋敷がある。古民家のような作りになっているが、手入れが行き届いていて、古さはさして感じはしない。宮本と神谷は客間に通される。
「突然の訪問すいません。」
少し青みがかった涼し気な着物姿の真西和江はにこにことお茶を入れている。
「いいんですよ。こんな所訪ねてくる人も少ないですからね。話し相手が来てくれるだけでも嬉しいものです。あ、この前の本は無事に届きました?」
宮本はいつ用意したのか、紙袋を差し出す。
「お手数おかけいたしました。無事に受け取れました。これは詰まらないものですが、本のお礼にと思いまして。」
真西和江は口に手を当て、可愛らしく喜んでいる。
「あらぁ、そんな気なんか使わなくてもよかったのに・・。」
「どうぞ。」
「じゃぁ、今皆でいただきましょうか。あら・・この袋・・」
真西和江は紙袋の絵柄を見て、一瞬、ほんの一瞬顔を曇らせるがすぐに笑顔へと戻る。
「地元のモノですいません。昨日そこに泊まったもので。」
紙袋から箱を取り出し、包みを解くと
「あそこのどら焼きは地元でも有名なんですよ。」
漆の施されたお盆にどら焼きを並べ、差し出す。
「そうなんですか!宮本さんいつ買ったんですかぁ。うわぁ、おいしそうだなぁ。」
神谷がすかさず一個取るのを宮本が睨む。それを見て、真西和江は楽しそうに笑う。
「あらあら、どうぞどうぞ。もう、お婆ちゃんだからこんなに頂いても、腐らせてしまいますから。頂いたもので恐縮ですけど、良かったら何個か食べて行ってくださいね。」
神谷はにこやかに返事をする。
「はい。」
宮本も茶を啜り、話を戻す。
「本も大変助かりました。しかし、ご主人は中々才能のある方ですね。とても参考にさせていただいております。」
「そうですか。それは良かった。」
心なしか真西和江の表情が少し曇ったように見えた。
「和江さん、今日来たのはいくつかお聞きしたい事がございまして。」
「なんですか改まって。あまり難しいことに私は答えられませんけれど、何か答えられるものでしたら何なりと・・・」
何かを覚悟したような表情に見える。この婦人が何を隠しているのか・・いや、隠しているというのは些か言い方が悪い。何を言わなかったのか・・宮本は一度強張った空気を戻すように柔らかい口調で質問を開始する。
「そんなたいしたことではありません。」
と前置きをした上で、
「前回僕らがここに来た時、本当に聞きたいことを聞きませんでしたね?」
真西和江の顔は、何か諦めたように優しい表情へとなった。
「あなた達に来て貰いたかった本当の理由・・・聞いていただけますか?」
宮本は優しく答える。
「そのために来たのですよ。」
真西和江は視線を遠くに移し、ぽつりぽつりと話し出した。
「私と主人はね、ずっとこの村で育ち、生活をしていたの。生まれてから死ぬまでこの村が私たちの世界だった。お互い、農家の生まれでね、主人の方はここら辺の畑を持っている地主さんのお家だったの・・ちいさな村の小さな風習とでも言いましょうか、私達は幼い時から結婚を決められていました。所謂、許嫁と言う奴です。今でこそ、そんな風習はほとんど残っておりませんが、一昔前はそれが当たり前でした。でもね、私はそれが嫌ではなかった。そう言うモノだと理解していたし、何より、幼いころから夫の孝弘さんの事を兄のように慕っておりましたから・・・夫も私の事を好いてくれていたように思います。ずっと一緒に年を重ねて・・・ある時、神隠しがこの村で起きたの。夫の弟、真西孝行が兄と一緒に山に入ったきり、姿を消してしまったの。」
神谷は、今朝の夢を思い出し、胸騒ぎを覚える。真西和江は話を続ける。
「二人は午前中に皆と遊んでくると言ったきり戻ってこなかった。日も暮れ、真っ暗になった頃、孝弘さんと孝行さんが帰ってこないと、真西の母親が当時の村長の所へ駈け込んできました。村の人達総出で探したのを覚えています。松明を持った村の男衆が山を登っていく光景がすごく怖かった。いつもはのんびりとした大人達の顔がとても怖い顔に見えた。このまま、孝弘さんと会えなくなるのではないかって、いたたまれなくてね・・私も何かをしたいのだけれど、当時はまだ小さかったから・・子供のできる事なんて、お留守番くらいしかなかった。家の中で無事に帰ってくることだけを一生懸命お祈りしていました。暫くするとね、村の男衆の一人が駆け込んできたの。「孝弘が例の山の麓でみつかった」って・・ドロドロで擦り傷だらけの兄の孝弘だけがあの禁忌の山の麓で発見された。泣きわめていている訳でもなく、茫然と立ち尽くしていたと・・。」
神谷がおいしそうに幾つ目かのどら焼きを頬張りながら質問をする。
「禁忌の山・・・というのは?」
その問いに答えたのは真西和江ではなく宮本だった。。
「我々が言ったあの祠のある山の事だ。今では立ち入り禁止の札もロープも朽ち果てていたが、その名残はあったぞ。」
「えっ!!宮本さん!あそこやっぱり近づいちゃダメな所だったんですか?えっ?知ってて入ったのですか?宮本さんは!」
宮本は、面倒くさそうな顔を一瞬だけして、真西和江の話に戻す。
「1975年5月・・当時10歳、今から50年も前の話ですね。」
宮本は本を和江に差し出す。和江は本を開く訳でもなく、そっと抱きしめるように本を持つ。
「それからです。夫が変わってしまったのは・・・それまでの夫はガキ大将のようないたずらっ子で活発な男の子でした。」
お茶で口を湿らせ、和江は続ける。
「その一件以来、夫はあまり笑わなくなりました。きっと、自分のせいで弟が消えたとでも思ったのでしょうか・・月日は流れ、私も、夫も結婚し、日々の生活に追われていく中、消えた弟の事は自然と薄れていきました。夫は農家をしながら、新種の開発に勤しみ、私はその手伝いをしながら、子育てを・・子供が大きくなり、手が離れ、夫も仕事の一線を退いてからです。この本を書き出したのは。」
和江はもう一度お茶を飲む。
「旦那さんはずっと心にこの事件が残っていたんですね。」
宮本の言葉に深くうなずき、和江は再び話し出した。
「ええ・・その行動を見た時、私は思いました。この人はずっと縛られているのだなと。書くと言う行為によって、少しでも夫の気が済めばと・・そう願っておりました。」
「だが、旦那さんは前より増して、自責の念に押しつぶされるようになった。」
「よくご存じで。書けば書くほど、調べれば調べるほど・・・その場所に弟を連れて行ってしまった自分が許せなかったのでしょう。」
神谷が言葉をはさむ。
「兄弟ですもんねぇ。旦那さんは50年間ずっと苦しまれていたんですね。」
神谷の言葉に、うなずきながら、真西和江は思い出す。この本を書き出してから、また変わっていった夫の事を。
夫は優しすぎたのだ。
夫は幼いころから人望もあり、分け隔てなく人と付き合うことのできる人であった。幼いころの私は、人見知りも激しく、引っ込み思案で、よく親に呆れ顔でこんなことを言われていた。
「そんなんじゃ、嫁の貰い手見つからないぞ。」
そんな私にも孝弘さんは声をかけてくれた。女の子の集団にもなじめず、いつも遠巻きに孝弘さん達が遊んでいるのを眺めているのが当時の私の楽しみだった。
「一緒に遊ぶか?」
どこからか拾った小枝を剣に見立てて、遊んでいた彼は随分前から私の事を見つけていたらしい。私は恥ずかしい反面凄く嬉しくて、顔を真っ赤にしてうなずいたのを覚えている。
それからどこに行くのも孝弘さんについて言っていた。当時の子供たちからは、女の私が入る事を嫌がり、よく泥を投げられたり、カエルを背中に入れられたりと子供時代の洗礼を受けたのは、今では笑い話だ。
当時は何かされる度に泣きながら家に帰っていた。それでも、次の日にはまた遊びに行く。
人見知りだった私が皆と遊ぶようになって両親は大喜びだった。
悪戯の主犯格は、孝弘さんの弟の孝行さんだった。年は私と変わらず、孝弘さんとは三つ違いの兄弟だった。
私はその孝行さんの事はあまり好きではなかった。周りの大人たちからは、
「孝行はお前の事好いてるから大目に見てやってくれ。」
と、笑いながらよく言われていた。当時の私は好きな人にそんな事する訳がないと、その言葉を信じる事はなく、数少ない同級生である孝行さんとはあまり話さなくなっていった。
「和江ちゃんは孝行嫌いか?」
ある日、川辺で座っている私の隣にそっと座り、そんな事を聞いてきた。私は・・
「意地悪するから・・・嫌だ。」
とだけ答えた。それを聞いた孝弘さんはカラカラと笑い、
「あいつはまだガキなんだよ。堪忍してな。」
と言い、また他の子供たちの所へ行ってしまった。周りの大人も、孝弘さんも、なんでそんなに孝行さんの事を聞かれるのか分からなかった。
私が好きなのは・・あなたなのに・・・。
そんなある日だった。山で孝行さんが消えてしまった。あの日以来、孝弘さんは笑わなくなり、前のように田畑を駆け回る姿は見なくなってしまった。学校以外は殆ど家にこもり、たまに外ですれ違うだけ・・その時は昔と変わらない笑顔を見せてくれる。私はそれが楽しみだった。
幼い心に宿った恋心は日に日に私の体と共に大きく成長していった。
時が流れ、私は結婚した。小さな村だ。他に出会いも特になく、私は幼少の頃からの思い人と一生を添い遂げる事になったのだ。
幸せな時間だった。仕事に子育てに・・・それは大変な時期もたくさんあったけれど、私はその日常がとてつもなく幸福で幸せな日々を過ごせていた。子供は無事に巣立ち、夫も第一線を退き、穏やかな隠居生活が待っているはずであった。
最初に違和感を覚えたのは、夫が仕事を引退してから幾分も立たない時であった。
夜中にふと目を覚ました。私は何とはなしに隣を向くと、寝ているはずの夫の姿がなかったのである。トイレかなとも思い、その時はあまり気にも留めなかった。
それから幾度となく、夜中に夫の姿は消えた。少し気になりだした私は、ある晩に夫の後をつけることにした。つけると言っても大したことはなかった。深夜に布団を抜け出した夫は書斎へと入っていくのが見えた。夫は仕事を引退してから書斎には寄り付きもしなかったのに・・少なくとも昼間は・・・。夜になり、コソコソと書斎に入っていく主人をその日をはただ見ているだけだった。次の日の朝、珍しく夫は所用で家を出た。ほんの悪戯心と少しの好奇心で、私は夫の書斎へと入ってみた。同じ家に住み、ずっと暮らしていて、特に書斎に入る事を禁じられている訳でもない。普段も掃除をしに入っている何の変哲もない部屋である。なのに・・少しドキドキしたのを覚えている。夜な夜な夫は一人で何をしてるのだろうか。何かやりたいことがあるなら、一言言ってくれれば、勿論邪魔などはしないのに。深夜に夫は布団から抜け出し、足音を殺し、書斎へと入る。何か【秘密】めいたものがそこにある。好奇心と同時に、少し裏切られたような寂しい気持ちにもなった。私は夫を信用している。なのに夫は私を信用していない。飛躍しすぎているかもしれないが、私にはそう感じてしまった。
書斎のドアを開けるといつもの見慣れた景色が広がる。本棚は壁一面に建てられ、どの本棚にも本がビッシリと入っている。昔の仕事の本がほとんどだ。「遺伝子工学」「環境」「地質」・・新種の苗の研究や成果はここから生まれ、世にへと出て行ったのだろう。私には良く分からない本がたくさんあった・・・その中の一つに背表紙に何も書いていない本が数冊並んでいた。引き抜いてみる。パラパラとめくるとそれはノートであった。年号と人の名前が書かれていた。
「1975年五月、真西孝行・・・」
これは、行方不明者の名簿だ・・。夫は未だ弟を探しているのか・・。なぜ、それを私に隠しているのか・・・。軽い好奇心から始まったこの行動はスッキリとするどころか何か深い靄を私の胸に降誕させた。
冷静になり、夫が自ら言うまでこちらからは話を振らないでおこうと心に決め、本棚に戻し、私は書斎を後にした。
(そうか・・孝弘さんはまだ孝行さんの事を・・)
一人っ子で育った私にはそこまでの感覚は真に理解はできない。ただ・・50年と言う月日を超えてなお、思い続ける事・・忘れてしまえば楽だっただろうに・・そんな事を考えていた。それからは毎晩、夫が書斎に入るのを見送り、私は眠りについた。特にやましいことは何もない。いつも通りの生活だった。
ある日の夜、寝付けなかったのもあり、私は夫にお茶を入れてあげようと準備をする。書斎のドアをノックして、ドアを開ける。
夫が目の前に立っていた。
「なんだ・・起こしてしまったか。」
孝弘は特に表情を変えるわけでもなく、探していた本を取り、書斎の椅子に深く腰をかけた。一瞬は驚いたが、私はお茶を書斎の机に置く。
「ありがとう。」
夫は礼だけを言い、また視線を本にと落とす。
「・・・何を・・お調べになっているのですか?」
自らのルールを破ってしまった。夫が自ら話すまでは見守ろうと思っていたのに・・なんとなく夫の冷たい視線に耐えられなくなってしまった。
「君には関係のない事だ。まだ、時間が掛かる。先に休んでなさい。」
今まで聞いたことのない声だった。私を完全に邪魔者扱いするような・・そんな冷たい声だった。
あの時、素直に布団に戻ればよかった。夫に初めて線を引かれたような気がして、私は駄々をこねてしまった。良い大人が、詰まらないことで駄々をこねた。とても情けなくて、恥ずべき行為だと今も思う。ただ、なんとなく、夫が私に線をひいたのが、線を引かれたのが、悔しくて、恥ずかしくて、それを撤回させたかったのかもしれない。
ずっと一緒だった。何も隠し事もなく、私は夫の良き伴侶であろうと尽くしてきた。いつも同じ立場に居るものだと思いあがっていたのかもしれない。
「早く寝なさい。」
まるで子供の様に諭されたのが、その時は何故か凄いショックを受けてしまった。
「孝行さんのことお調べに?」
夫がそこまで言わない理由をもっと察するべきだった。何度も思う。私はあの時どうかしていたのだ。
「・・・見たのか?」
夫の表情は変らない。が、静かに怒っているのが分かる。私は、夫を怒らせたことを知りながら、まだ強がりを続けてしまう。
「この前掃除の時に・・・」
しばらくの沈黙の中、夫は立ち上がり、
「・・・暫く留守にする。」
夫はそれだけを言うと、数冊の本をカバンに詰め、荷物を持ち、家を出て行ってしまった。私は、その場に残され、ただ、茫然と立ち尽くしていた。車のエンジン音が遠ざかるのをただ・・聞いているだけだった。凄くみじめで、凄く恥ずかしく私はしばらくその場で泣いてしまった。あの時、なぜそんなにショックを受けたのか・・夫もなぜそんなに怒っていたのか・・私は、今も理解できていない。なにかが壊れた感触だけがずっと心の奥に残っていた。
夫はそれから数日に一度くらいの間隔で家に帰ってくる生活になった。帰ると言っても下着や着替えなど必要なものだけを取りに帰ってくるだけである。あの事件以来、昔から口数の多い方ではなかったが、それ以上に話さなくなり、夫は私を避けているようにも感じた。
「なんでなんですか・・・」
玄関から出る夫の背中に思わず叫んだ。
「・・すまない・・全てが終わったら・・・」
夫は、その言葉だけを残し、家を出て行ってしまった。
夫がどこで何をしているのかも分からない生活がしばらく続いたが、夫の居場所はすぐに分かった。どうやら【明郎庵】と言う村の外れにある古い旅館に滞在しているらしいと村の者達の噂で聞く。小さな村だ。聞きたくない情報も入ってくる。
「最近、真西の夫婦はうまくいっていないらしい。」
「奥さん捨てて逃げたらしい」
「あそこの旅館で見たやつがいるらしいぞ。」
好き勝手な噂と笑えればよかったのだが、捨てられた事はなんとなくあたっている気がして・・・。
「真西の旦那さん、どうやら、あそこの女将と・・・」
たまたま、買い物に出かけた時に聞いてしまった。ただの井戸端会議だ・・わかっている。この小さな村ではそれくらいしか楽しみはない。分かってはいるが・・いざ、自分の関係する事を聞いてしまうと、思いの外きついものである。私は、周りを見ないように、誰にも見られないように、そっと遠回りをして、家に帰った。雨戸を閉め、その日は夜まで泣き続けた。
「なんでこんな事に・・・なんでこんな目に・・・」
憎かった。情けない自分への憎しみと、真実はどうあれ、変な噂を流される夫が憎かった。
その日からはあまり外にも出ない日が続いた。外に出れば聞きたくもない情報が嫌でも入り込んでくる。夫もその時期から家に帰って来る事はなかった。それは今もなお続いている。
夫の消息が途絶えたあの日から夫は今も戻ってはいない。お飾りのような仏壇と、平和だった頃の夫の笑顔の写真だけが、仏間に形式上並んでいるだけである。長い月日を共に歩んできた。幸せも沢山共に感じてきた。どこで何が狂ってしまったのか…私は何も入っていない仏壇に毎朝、手を合わせるだけになってしまった。
記さなければ。
私は開けてはいけない扉を開けてしまった。私は触れてはいけないものに触れてしまった。幼かったあの日、幼い弟の孝行が付いてきている事に気づけなかった。その山は村では禁忌とされている山であった。大人達すらもあまり近寄ることのない秘密の場所。子供だった私達にはその場所についての様々な噂が飛んでいた。あそこに入ったものは皆行方不明になるだの、あそこには殺人鬼が住んでいるのを見た者が居るだの、入った者が戻ってこないのはあそこには鬼が居て、食われてしまうからだ・・・など、大人になった今となればどれも信憑性に欠ける話ばかりだった。だが、まだ幼かった私達は、その噂に恐怖し、誰もその山に近づく者はいなかった。私もその一人だった。興味本位で近づいてはいけない場所。幼い頃からそう言われ続けた私達は洗脳に近い形でその言いつけを守っていた。
ではなぜ、私はあの時あの山に入ったのか・・・。
声がしたのだ。当時の私より、幾分幼い女の子の声がした。それは実際に聞こえていたものなのか、はたまた、頭の中にだけ聞こえてきた声なのか、当時の私には判断できなかった。声は言う。
「助けて・・・」
「もうやだ・・・」
「私はここ・・・」
その現象は、ある日突然始まった。いや・・突然ではない。あの日からだ。
風で飛ばされた弟の帽子を取りに行ったあの日から聞こえるようになった。断じて山には入っていない。風に飛ばされた帽子を追いかけ、私は山の麓まで来てしまった。帽子は私を誘うように禁忌のロープを超え、山の中へと飛んで行ってしまった。幼い私は途方に暮れた。山は風に吹かれ、大きく揺れる木々がザワザワと音を立てている。怖かった。だけど、その少し後ろで、帽子を飛ばされ泣いている弟の姿が見える。帽子は山の奥へと飛ばされ、その姿は確認することが出来ない。暫く悩んだが、もう見えなくなった帽子を探しに山に入るのは危ないと思い、私は弟の元に行こうと山に背を向けた。その時だった。探していた帽子は誰かが山側から投げたみたいにクルクルと私の前に落ちたのだ。
「えっ・・・・」
私は振り返るが、勿論誰の姿もない。ごうごうと音を立て、木々が揺れているだけであった。
言われもせぬ恐怖が一瞬私の中に芽生え、私は帽子を拾い弟の手を取り、家路を目指した。風の音に交じり、幼い女の子の笑い声が聞こえたような気がして、私は弟の手を取り、必死に走った。その日から私の脳にはその子の声が聞こえだす。四六時中聞こえている訳ではない。まどろんでいる時、学校の帰り道、一人でいる時が多かったように思う。最初は風の音に近いような不明確なものだったが、日に日にその音は明確に聞こえてくるようにとなった。
「この子は助けを求めている。」
初めこそ怖かったが、その子の声を聴くたび、そんな事を感じるようになっていった。一方的に聞こえる声は、やがて、夢にまで現れるようになった。夢の中では姿も風景も見える。着物姿の小さな女の子はいつも泣いていた。
「お母さん・・どこにいるの?」
「お父さん・・・」
小豆色の着物を着たその子はいつも泣いていた。山の中で一人、ずっと泣いている。その子を見ると恐怖心と言うより、胸のあたりがキュッと締め付けられる感覚を覚えた。幼いころの妻に出会ったのもちょうどそのころである。弟の孝行と同じ年の和江と、その小豆色の着物の女の子が被って見えたのであろう。木の陰から仲間に入りたそうに見ている和江がとても可愛らしく、健気に見えた。人見知りで、最初はオドオドしていた和江が日に日に笑うようになり、一緒に遊ぶようになる。その姿がなんとなく嬉しかったのを今でもたまに思い出す。
比べてしまったのだ。あの着物の女の子は今も一人で泣いている。しかもあの山の中で・・何とかしてあげたいと・・そう思ってしまった。私は、ある日、その子を助けに行くことを決めた。
可笑しな話だ。今思えば、あの時、私は完全に憑りつかれていたのだろう。あの山に一人でそんな小さな女の子が居る訳はない。居るとすれば、それは鬼か妖だ。
だが、当時の私はそんな事を考える事が出来なかった。助けたい。何とかしたい。自分一人で、あそこに行かなくては・・・
恐怖心は全くなく、何かの使命を帯びたように私は禁忌の山に行くことを決めたのだった。ある日、私は作戦を実行に移す。周りに怪しまれないように、いつも通り遊びに出かける。その足で、友達には合わずそのまま山へと入る。途中、手ごろな枝を拾い、それを剣に見立て、草木をたたきながら、実在しているかも分からぬ女の子の元へと向かったのである。どれくらい歩いただろうか、周りの景色は木と斜面しか見えなくなっていた。獣道と言うにも心細い山肌、小枝を杖に一生懸命登った。何かに呼ばれた気がして、振り向くが誰もいない。当たり前だ。ここは禁忌の山。誰かが居たなら、即連れて帰られただろう。ここまで来れるということは誰にも見つかってないという事だ。時折、気が違ったのかと言うくらいの鳥の声が聞こえる。何かに襲われたのか、はたまた、何かを威嚇しているのか・・。その鳴き声を聞き、少しだけ怖くなる。一人で来るのではなかった・・・弱気な自分に気づき、気を引き締めなおし、山を登る。突然と視界が広がる。真っ赤な鳥居と小さな祠がそこに突如現れたのだ。いや、現れたように私には見えたと言う方がいい。小さな祠は、異様にはっきりと見える。そして私は誰もいないその祠を見て、確信する。
「ここだ。」
近くに女の子などいない。それどころか人の気配などどこにもしないのだが・・何故か、声の主の女の子はここに居る気がした。
「神谷君はどう思う?」
音読していた本を閉じ、助手席の宮本は神谷に問う。
「何がですか?」
緊張感のない神谷の声に些かやる気をそがれるが、負けじと聞き返す。
「君は何を聞いていたんだ。真西和江の話と、今、私が読んだ真西孝弘の手記の事だ。」
神谷はまっすぐ前を向きながら、一瞬眉間に皺を寄せる。
「僕の意見としては・・・真西孝弘もやられてますね。」
「貴重なご意見をありがとう。」
宮本は深いため息を着く。どうやら神谷の意見はお気に召さなかったようだ。
「神谷君!!」
宮本は突如運転中の神谷の腕を掴む。それにより、車は急カーブし、中央線を大きくはみ出す形で急ブレーキをし、止まる。
「ちょっとぉぉぉぉぉぉ!宮本さん何考えてるんですか!!死んじゃいますよ!」
さすがの神谷もこの件に関しては声を荒げた。運転している人の腕を掴み引っ張るとは常識外れのレベルではない。殺人か心中だ。だが、宮本はその腕を離さなかった。
「神谷君・・この腕はいつからだ?」
神谷はこれを引き金にいい加減溜まったものが爆発しそうになり、宮本をにらんだ。
「本当に何考えて・・・・・」
「いつからだと聞いているんだ!早く答えるんだ!!」
宮本の方が怒っていた。神谷はその雰囲気にのまれ、宮本への愚痴を本人に吐き出すきっかけを奪われてしまった。
「・・・・今朝です・・・・」
神谷の右手首には、何者かが握りこんだような手の形をした大きな痣がしっかりとついていた。
「まずいな・・・・。時間がない。運転を代われ。」
終始宮本のペースに飲み込まれ、神谷は渋々運転を代わった。特に運転が好きでもなく、運転をさせられているだけなのに・・・何故か渋々変わっている自分に小さな疑問を持つ神谷。
「君も見たのか・・・」
まさかの返答であった。【君も】とは・・
「えっ・・宮本さんも?」
「ああ。夢の中で私は山中に居た。多分だが、今の山の中ではない。50年前の景色だ。私は・・多分だが、幼い【真西孝弘】の姿をずっと見ていた。」
神谷は驚く。
「宮本さんもあそこに居たんですか?僕は多分弟の【真西孝行】の方だと思います。」
何かを考えながら、宮本は大きくバックをし、車の体制を立て直すと、また車を走らせる。
「まずいな・・・」
「なんか・・今回まずい事ばっかりじゃありません?」
「そうだな。一度戻る。」
「どこに?事務所ですか?」
「残念ながら事務所に戻っている時間はない。」
「ははは・・・もう・・そんな怖い顔で・・」
「明郎庵だ。」
「あそこも今回と何か関係あるんですか?真西孝弘の事ですか?」
宮本は一度も視線を神谷に向けず、
「今回のキーはあの女将だ。」
「わぁお。」
車は明郎庵へと走り出した。
終わりが近づいている。
庭の掃除を終え、ふと顔を上げると山の隙間に真っ赤な太陽が沈んでいるのが見える。日の明かりの届いている場所は赤くきらめき、すでに明かりが届かない場所は夜の準備を始めるように薄暗くその色を落としている。
私が居るこの世界は短い【まやかし】なのだろう。私の世界は随分と前に終わっていた。それも分かっている。沈みゆく夕日を眺めながら大谷静江はそんな事を考えていた。
幼きあの日、私は山に捨てられた。今よりもずっと昔、気の遠くなるような昔の話である。
当時、この付近一帯は大規模な飢饉が続いていた。農作物の不作や疫病などがはやり、人一人が生きていくのさえ、苦しい状態だった。そういう状態になった村はとある方法をとる。他の地域同様に【口減らし】が行われた。各地にも伝文や資料が残っているように、年老いた親を捨てる姥捨て山、幼子を人買いに売り渡すことなども行われていた。この村では、【衆】に捧げる事が風習としてあった。神様への生贄、お供えモノに近い感覚であったが、勿論供えられるのは幼子である。
うすうすとは感じていた。自分がそのお供えになる事を。子供心に思ったことがある。
「ああ…自分は捨てられたのだ。」
幼い日の記憶はいつになっても薄れる事はなかった。
捨てられた頃の絶望はどれほどに時が流れていても、鮮明に私の心に残っている。
夜の闇の中で、泣き声も涸れ果て、震えながらただ時が過ぎるのを待っていた。
私はここで死ぬのだ。幼い心に芽生えたそれは、ただの恐怖ではなかった。覚悟にも絶望にも似た何かが心の中に湧き上がっていた。
しかし・・・私は死ぬことはなかった。私を待っていたのは死ぬよりも辛い、未来永劫の闇だった。木の根元で泣きつかれ、少しの間眠ってしまっていたのだろうか。目が覚める寸前にこれが夢ならばどれ程良いか…少しの願いを込めて目を開ける。辺りは、夜の闇に支配された山の中だった。虫の音とたまに獣か何かが通る時に発する草の音。それ以外は何も聞こえない、真っ暗な闇。山の夜は温度が急激に下がる。自分の意思とは関係なしに、体は強張り小刻みに震え、歯はカチカチと細かい音を響かせる。飢えと寒さに、小さい体をより小さく丸めていた。
全ての音が止んだのだ。
さっきまで聞こえていた虫の音も、草木がすれる音も、風の音も…自分が鳴らしている歯の音すらも聞こえない空間。その代わりに存在するのは幾つかの何かの気配だった。人のそれではない。得体のしれぬ何者かは低くくぐもった言葉にならない何かをブツブツと発している。その何かは自分の周りを囲み、その輪を小さく小さく縮めていく。さっきまでとは違う恐怖が自らを襲う。
真っ暗な闇の中でそれよりも暗い黒がゆらゆらと揺れている。
怯える私に、その闇は近づき、あっという間に私を飲み込んだ。
私の鮮明な記憶はここまでだ。
・・人間としていて生きた時間は、自分がそれまで生きていた時間より短い。ぼんやりとは覚えている。暗闇の中で飢え、足掻き、もがき続けたあの時間より・・ずっと短いのであろう。そして、再び意識が戻った時、私は山の入り口に立っていた。姿は当時の年齢のままであった。過去の事を忘れるように、私は普通の生活をしていた。私を引き取った「明郎庵」の先代も、その事には一切触れずに私を大事に育ててくれた。
あの人と出会い、自分の過去を話してからはその感覚は日に日に強くなっていった。
正直忘れていた。いや、忘れていたかった。もう、限界なのだろう。私はあそこに戻らなくてはならない。あの人の代わりに私はあそこに戻らなくてはならない。私はあの人を誘ってしまったから・・・。
あの頃とは違う。小さく震えていたあの頃とは…。今、こうして外の世界で生きられたことはきっと幻だったのだろう。私の人生はあの時終わっていた。この暫しの【まやかし】を私は十分に楽しんだ。私が戻れば、あの人もきっと…そう思っていた。本気でそう思っていたのに…一陣の風が頬を撫でた時、私の考えは変わっていた。
そうだ・・あの二人を誘えばいいんだ。私はいつも通りの生活に戻れる。私は悪くない。あの人達が勝手にこちらの領域に首を突っ込んできたのだ。私は戻りたくない。あの世界へは戻りたくない。どんなに声を上げても決して届く事はない。関わらなければ何も起きる事はなかった。50年前のように私の領域に入ってしまえば・・・何も変わらない生活を送れるのかもしれない。そうだ・・・そうしよう。
「少し、お話を。」
まるで刑事ドラマに出て来る刑事のような声が大谷静江の後ろから聞こえる。振り向くと、朝に別れた二人が立っていた。私は思う。
(ああ、この二人が蓋をしてくれるのだ。)
と。安堵にも似た感情の中に、叫びだしたいほどの恐怖心を抱え、私は覚悟を決める。
「どうぞ、おあがりください。」
私は二人を中にと誘った。
大谷静江に案内され、二人は客室ではない、小さな和室へと案内された。茶室のような作りになっているその部屋は、普段は使われていないようだったが、掃除や手入れは行き届いている感じがした。
「ここは・・」
神谷が周りを見ながらポツリと言う。
「先代の頃に使われていた茶室です。今では、使うこともなく、月に二度か三度、私が掃除に入るだけですが・・」
大谷静江は、蝋燭に火をともす。
「すいません。ここ電気を通してないもので。」
ゆらゆらと揺れる蝋燭の火を見て宮本が口を開く。
「和蝋燭ですか。」
マッチの火を振り消しながら大谷静江は答える。
「これも、先代の趣味の一つでした。」
ツンとマッチの火の消えた後の匂いが鼻をつく。揺れる一本の炎にあぶりだされた影が二人の背後に形を成す。
「何か・・私に聞きたいことが・・あるのですよね。」
小さな炎に照らされた顔は、いたずらっ子の面影もなく、少し怒っているようにも悲しんでいるようにも取れる顔をしているように見える。
「大谷静江と言うのは偽名ですよね?」
宮本は入ってきた入り口を見ながらポツリと答える。
「えっ・・・」
神谷は間抜けな顔をしながら大谷静江を見直す。
「どこまで・・書かれていましたか?」
大谷静江は動じない。その質問が来るのを知っていたように、問いを返す。
「恐らく、あなたが真西孝弘さんに話した事は大方書かれていると思います。」
宮本もそれに並び、ゆっくりと視線と問いを返す。
「そうですか。」
真西が嬉しそうに大谷静江に質問をしてきたことを思い出す。大谷静江は真西孝弘にとってやっと見つけた手掛かりであった。
「あなたは、あの神隠しの唯一の生還者ですね?」
少し、大谷静江の顔がゆがむ。それは当てられた事への気まずさではなく、【神隠し】と言う言葉に紐付けられる嫌な記憶。
「うわぁ・・ちょっと待ってくださいよ!えっ?連れていかれたら二度とは戻れないんではなかったでしたっけ?」
神谷の間抜けな顔を流す様に、大谷静江は宮本を見る。
「良く・・お調べになりましたね。」
「あなたは今から50年前、真西孝行さんと引き換えにこの世界に戻ってきた。」
神谷はすでに言葉が出ないようだ。交互に二人の顔を見比べている。
「・・・・・」
少しの間を挟み、大谷静江は答える。
「私は・・・」
一瞬の静寂が辺りを埋め尽くす。詰まった言葉を埋めるようにあたりに違う感覚をもたらしていた。空気が変わる。
「う・・・・」
宮本はこめかみのあたりを抑える。
「また、何か受信したんですか?」
神谷が青ざめたか顔で心配そうに宮本を見る。
「呼びましたね?」
宮本は表情を変えることなくそう呟く。その呟きを聞き流す様に大谷静江は話始める。いや、【唱え】はじめた。
「あなた達がいけないんですよ。私は悪くない。あなた達が関わるから。私は・・」
さっきまで大谷静江と呼ばれていたこの女性は光のないうつろな視線を宮本と神谷に向ける。蝋燭の火に照らされたその顔はひどく憔悴しているように見えた。大谷静江は言葉を続ける。
「すれ違ったあなた達には責任がある。私の認識をしたあなた達には責任がある。このドロドロと淀んだ私の中にあるものをあなたは受け取らなければならない。あなたは私を見てしまったあなたは私を知ってしまった。ただただ立ち尽くしているだけの私を・・・あなたは感じてしまったのだ。幾度となく繰り返される行為はもはや自らでは止める事は出来ない。あなたを巻き添える事には少々の改悛の情を抱かなくもない。だが、それは仕方のない事。私がここに居る事と同義。私はここに居る。あなたはたまたま出会ってしまったのだ」
大谷静江は淡々と言葉の羅列を吐く。その言葉は目の前の二人に言っているようにも、淡い蝋燭の灯りにより生み出されたその後ろの陰に言っているようにも聞こえる。小さな小さなその茶室はその言葉に埋め尽くされるように空気に重さをまとわせていく。
「ひぃ・・・み、宮本さん!!」
神谷の叫びにもならない声の先に、大谷静江の顔が浮かぶ。その顔にはあるべきものがない。
今朝方見た夢の中の少年と同様、人のそれではなかった。目のあるべきところに瞳はなく、真っ暗な闇がそこにあった。
「真西孝行の書いた本にはこう記されている。「闇より戻りしその少女は過去の一切を消した者。その深き闇が再び訪れる時はその少女記憶、戻りし時」と・・恐らく、真西孝弘の取材により、彼女の記憶は徐々に思い出されてしまったのだろう。そして弟、孝行を救い出すどころか、自らも採り込まれてしまった。」
「え・・じゃぁ、もしかして、僕たち今、採りこまれて居る最中ですか?」
「当たらずとも遠からず。神谷君、残念ながら良い線だ。」
「うわぁぁぁ・・初めて誉めてくれましたね。でも嬉しくないなぁ・・・」
狭い茶室の壁の外に、昨夜の祠で感じた大勢の者が取り囲んでいる感覚がよみがえる。
「宮本さん・・・これ・・逃げられないですよね?」
「逃げた所で、私達はすでにマーキングされているよ。」
「マーキング・・・こ、これですか?」
神谷は痣の着いた腕を宮本に見せる。
「だからいったろ。時間がない。このまま何もせず、奴らに採りこまれ、永遠の時を奴らとすごすか、可能性は少ないが、元凶を叩くかの二択しかない。」
「元凶・・・って・・この目の前でブツブツと言っている・・・」
大谷静江は瞳のない目でこちらを見ている。その口は微かに動き、声のない声で何かを発している。
蝋燭の火がフッと消えた。
日も完全に落ち、光と言うモノが一切存在しない空間。かろうじで、入ってきた小さな入り口だけが月の光を受け、ぼんやりと姿をかたどっている。
「・・・・・」
神谷の唾を飲み込む音だけが聞こえる。それ以外は何も聞こえない。さっきまで隣に居た宮本の存在すらも消えてなくなってしまったように感じる程の闇。怖くなった神谷は宮本が居ると思われる方向へ手を伸ばす。すると力強く神谷の手首をつかむ感触がある。神谷はいくらかホッとする。しかし聞こえてきた声は宮本のこえではんかった。
「み~つけたぁ~」
孝行だ。明け方に見た弟の孝行が、両の目から血の涙を流し、虚空に開いた真っ黒な瞳で神谷を見ている。低くくぐもった声が神谷の耳に張り付く。
「ひっぃぃぃぃぃぃ」
神谷は自由の利く片方の手で両耳をふさごうとバタバタと暴れている。
「遊ぼうよ向こうで遊ぼうよ。行こう行こう行こう行こう行こう行こう行こう・・・」
神谷の腕には弟、真西孝行だったモノが神谷の体に這うように絡みついている。
「み・・宮本さん!!た、助け・・・」
「来い来いと呼ぶ声にこたえてはならぬ、その声のする方向へは言ってはならぬ、遠き山より出でる物の怪の声は決して聴いてはならぬもの成り。」
宮本の呪文のような言葉が終わると、絡みついていた真西孝行はまるで、蛇のようにシュルシュルと神谷から離れていく。
「宮・・本・・さん?」
「良かった・・少しは効果がありそうだ。神谷君、そこから動かないように・・・」
一瞬は安心した神谷だったが、神谷の耳元で憎しみに満ちた声で言葉にならない何かを発している。
「はいぃぃでもぉぉぉ孝行さんがぁぁぁぁぁこっち見てますぅぅぅぅう。」
神谷の嘆きを聞き流し、宮本は大谷静江に問いかける。
「この五十年はいかがでしたか?」
「私に問うのですか?」
「あなたのいた世界は恐らく百年以上昔ですよね?」
「やめてください。」
「そのころのこの村は飢餓や疫病で普通に生きる事は困難だった。」
「黙れ」
「幼いあなたは山に捨てられ、そして、【採りこまれた】」
「私は・・・・ただ・・」
「そう、あなたはただ普通に生きたかった。異界に誘う【衆】と言う存在。この地域に古くから存在する神隠しの要因。」
「なぜ私だけがこんな思いをしなくてはいけないの?私が何をしたの?」
「あなたはすでに気づいているのでしょ?」
「答えて・・なんで・・・どうして・・・」
「あなたは真西孝弘さんに恋をしてしまったのではないでしょうか?」
女の顔が曇る。瞳のないその目に悲しさが宿る。
「・・・・」
「50年前、偶然か必然か真西孝行さんを誘うことによって、あなたは【衆】から抜け出ることが出来た。それから、この家の先代に拾われ、普通の女の子として育った。真西孝弘が現れるまで・・」
女は口を固く閉ざす。宮本は質問と推測を織り交ぜながら問いを続ける。
「あなたは本当に覚えていなかったのでしょ?真西孝弘がここに泊まり、親しくなるまで、あの山の中で起きた事は夢か現かくらいにしか思っていなかった。違いますか?」
女は小さく口を開き、また独り言のような呪文のような言葉を繰り返す。
「「大丈夫だから」その声は、相手に届くこともなく宙に消えるという表現では大きすぎるくらい、手前に落ちて消えた。ワァンワァンと鳴り響くこの耳鳴りのような音は、大きくもなく小さくもなく、ただただ鳴り続けている。私の存在する世界は実に不安定で覚束ないモノの塊である。何を知ろうが、逆に何も分からぬままでも、その世界には何の変化も与えるものはない。
「誰か聞いていますか?」
と投げかけたところで、その言葉は手前でポトリと落ちてしまう。ずっと先に居るあなたにはもちろん届く訳もなく、その言葉は土に吸収され、その姿を消す。土に吸収されたからと言って、それらのモノは、毒にも栄養にもなりはしない。地に落ちる雨が、その色を変えるような変化もない。私の放たれた言葉は、虚空をさまようこともなく、誰に聞かれるわけでもなく、その全ては、何の形もなさぬまま消えてしまうのである。」
女の言葉に呼応するように止まっていた圧はどんどんと強くなる。小さな茶室の壁一枚向こうに人のそれではない気配が近づいてくるのが分かる。昨夜と同じだ。昨夜と違う事は小さな部屋に閉じ込められている事。走って逃げてくれる神谷はすでに動けない事。それと・・宮本の意識がはっきりとしている事。
「あなたに問います。あなたはこの世界で生きて何がしたいのですか?人のふりをして生きる事に何の意味があるのですか?あなたの大事な人をその身代わりにして、生き延びる事にあなたは何を感じているのですか?」
大谷静江は表情にならない表情をしている。分かっている。自分の不運を押し付け、逃げる事がどれだけ卑劣な行為なのか。でも、なんで私が…正反対のその思いは大谷静江の口を閉ざした。
「・・・・・・・・・・・」
女の口が止まる。女は震える唇で小さく言葉を紡ぐ。
「違う・・・私だって・・好きで・・あの人を誘ったわけじゃない・・聞こえるの・・頭の中にずっと・・「もってこい」「もってこい」って・・あの穴の中からずっと聞こえるの。私達は・・その声に支配され、ただただ動くしかないの・・・だから・・」
「十数年前・・あなたは孝弘さんの質問により、記憶を取り戻した。それと同時に穴の声も聞こえだした。」
「はい・・・私は・・・」
「あなたは今もその事を後悔しているのでしょ?」
「・・・はい・・・」
女の返事に呼応するように締め切っている茶室に強風が吹き荒れる。
「ちょっとぉぉぉぉ怖い怖い怖い!」
強風の中に複数の黒い影が取り巻いている。
「きゃぁぁあぁぁぁぁぁぁ」
神谷の悲鳴は無視され、その影達は大谷静江を名乗る女を取り囲む。
「やだ・・・戻りたくない・・やだ・・・」
女は必死にその影を払うが影達がかぶさるように、女を埋め尽くす。
「わたしはただ普通に生きていたかった・・・・」
闇よりも濃い黒木闇の住人の隙間から、悲痛に満ちた大谷静江の顔が見える。声にならない声を発しながらあがく大谷静江を闇の住人たちは何の慈悲もないまま飲み込んでいく。最期に女が絞り出した声だけが、微かに残り、影は集まり、一つの穴になる。その穴は闇事全てを吸い尽くす様にその影もろとも掻き消されるように消えてしまった。
辺りは再び静寂が支配する。
「・・・・・え・・・・・」
神谷は自分の腕を見る。
「あ、いない。孝行さんも痣もない。えっ?」
宮本がふかく息を吐き、その場に倒れ込んだ。
「み、宮本さん?」
「だ・・大丈夫だ・・・今回は・・危なかったなぁ・・」
宮本の顔にはまだ若干の緊張が残っている。
「かわいそうだが…我々も連れていかれたくはない。過去の亡霊と割り切ってみたが…あまり気持ちのいいものではないな。」
その言葉を聞いて、神谷も我に返る。大谷静江もこの怪異に巻き込まれた一人にすぎなかったのだ。遠い昔、一人山に捨てられ、取り込まれ…彼女は何も悪い事をしていない。自分が同じ立場なら、どうしただろうか。同じように他人を・・・・・。神谷の頭の中で答えの出ない問題がグルグルと回る。
「疲れた。」
宮本がバタリと倒れ込んだ直後、茶室のドアが勢いよく空く。
「のふ・・」
神谷の短い悲鳴の先に、一人の男が立っていた。
「あの・・すいません・・ここは・・・・」
宮本は疲れ果てた体をなんとか座り直し、にこやかに答える。
「大丈夫ですよ。一緒に帰りましょう。」
茫然と立ち尽くしている真西孝弘の姿がそこにあった。宮本はその言葉を最後にぱたりと倒れ、動かなくなってしまった。
「ちょっ・・・宮本さん?大丈夫ですか?みやも・・・」
担ぎあげようと神谷が顔を近づけた時、安らかな寝息が神谷の耳元に聞こえてきた。
「びっくりさせないでくださいよぉ~もぉぉぉ・・」
キョトンとする真西に軽く挨拶をし、
「とりあえず、帰りましょう・・か・・ね」
宮本を担ぎ、自らの車に誘い、神谷は真西和江の元へと車を走らせた。
大変な二日間だった。
あの晩、くたくたになった宮本を連れ、事務所へと帰った。たった二日しかたっていないが、狭い会社が、いや、日常がどうにも懐かしく、神谷は汚い自分のデスクや、狭い間取りを見て、ちょっと泣いていた。
「ああ~職場なのにぃ職場なのにぃ~ただいまぁぁぁあ~」
宮本は事務所に着く頃にはすっかり復活して、帰るや否や、PCの前に張り付き、カタカタとこの一件の記事を書き出していた。
なんとか編集長には怒られずに済みそうだ。いや、旅館代は怒られるかも・・・そんな事を思いながら神谷も事務所に残り宮本の手伝いをする。
「あ、結局あの人は・・・」
「なんだお前、分からずに届けたのか?」
「はい。まぁ、多分ですよ?多分そうなのかなぁと・・思いながら・・・」
「真西孝弘本人だ。あの女将が戻ったことにより、はじき出されたのだろう。」
「結局、この事件は何だったんですか?」
「さぁな。ただ分かった事は、問いに答える事により誘われ、問いを返すことにより誘う相手を変えることが出来た・・それだけだ。」
神谷は機材の返却の一瞬手を止め、宮本の顔を凝視する。
「もしかして・・山勘だったんですか?」
「しょうがないだろ。撃退するには資料がなさすぎる。まぁ、今までの経験と知識で無事に乗り切ったんだ。文句言うな。」
「勘弁してくださいよぉぉ・・・・こわかったなぁ~・・・今回の取材。」
「【衆】と呼ばれる存在に数の増減がないように思える。七人岬に似ている感じがするが・・・今の所、分からん。」
「えっ・・まだ調べるんですか?」
「いや、これ以上関わるのも危ないだろう。この件はこれでいいさ。良い記事になる。十数年ぶりに神隠しの被害者生還。それにまつわる不思議な話。来月号はこれでいけるだろう。」
大谷静江の顔が二人の頭によぎる。幼いころに親に捨てられただけ・・そして採りこまれてしまっただけ・・自分達を守るために、彼女を犠牲にした感覚はある。もやもやとした感覚を振り払うように神谷は宮本に。
「あの・・これ書いたら、お疲れ様で一杯行きませんか?」
「原稿上げたら朝だぞ?」
「えっ?今から徹夜ですか?」
「しょうがないだろ?明日の午前10時には印刷開始だ。」
神谷は携帯で日にちを確認する。
「うそ!あっ火曜日!23時!わぁお!急ぎましょう。」
「まぁ、間に合うさ。コーヒー淹れてくれ。濃いやつな。」
「わかりましたぁ!」
「それ入れたら帰っていいぞ。」
「えっ?いや、居ますよ。」
「なんで?」
「良いじゃないですか別に!」
完
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