第2話 東京シンデレラシリーズ 灰かぶり姫-麗良-
ささくれ立った心を無理やりジャケットの中に収めて、日付が変わる前に何としても、家にたどり着きたかった。麗良は、表通りでタクシーを拾おうと、夜中のオフィス街を急いでいた。
週末とあっていつもより人出が多く、赤ら顔の酔っ払いを避けながら、肩にかけたバッグを胸の前で抱え直した。
それにしても忌々しい。出来の悪い新人二人のために、さして年の変わらない自分が尻拭いをするなんて、理不尽すぎる。舌打ちをこらえて、ふと見上げると凝った造りの街燈が目に入った。昼間は全く気付かなかった小さな店のウィンドウを柔らかく映し出し、思わず店の前で立ち止まると、決して派手ではないが、洒落た造りは品が良く、手入れの行き届いた調度品は、如何にも高級品とわかる、繊細な飾りに彩られていた。
へえーこんな所にお店があったんだ。深夜のオフィス街に、胸をときめかせる発見など、期待していなかったが、それはまるで引き出しの奥に仕舞われていた秘密の小さな宝石箱の様に、麗良の冷めきっていた心を温めてくれた。
そして、そこに優雅に並んでいたのは、豪華で魅惑的なデザインの靴であった。
靴など買う気は無かったが、クリスタルのシャンデリアが浮かび上がらせる、夢のような空間に、思わずドアを開けて足を踏み入れていたのだ。
まぁ。 麗良の小さな溜息のような感嘆は、気高く並ぶ靴への称賛であった。
「いらっしゃいませ」 奥のデスクから立ち上がり、声を掛けてきたのは、六十代後半と思しき真っ白い髪の小柄な老婦人だった。
「初めてのお立ち寄りでしょうか?」「あ、はい。そうです。もしかしたら、ここは会員制のお店ですか?」 うふふ、と小さく嬉しそうに笑った後、老婦人は「いえいえ、うちは夜中に店を開けますもので、どうしてもお客様は常連の方ばかりに
なってしまうのです。それで、お顔は大概見知った方なので、つい余計なことを言ってしまいました。申し訳ありません」「いいえ、とんでもありません」
夜中に開くという店を、訝しく思いながらも、好奇心には勝てず、麗良はディスプレイされている靴を、丹念に見て回った。
伯爵夫人の小さな隠し部屋、のような店なので、厳選された靴を決まった数量だけ並べているのであろう。大した時間もかからず、殆どの靴を見終わった頃には、鉛を飲み込んだように重かった心も、すっかり癒され、優しさを取り戻していた。お礼を言って帰ろうと振り向いたとき、ふと夫人のデスクに置かれた箱に目が行った。
箱の蓋は開けられ、広げられた薄紙の中にあったのは、ひどく華奢でつま先までの流れが、えも言われぬ優美さを見せている、芸術品とも言うべき靴だった。
麗良は吸い寄せられるようにその靴の入った箱に、近づいて、
「これも、売り物ですか?」
「まあ、お目が高いのね。これはついさっきフランスから取り寄せたものなんです。履いてごらんになります?残念ながらサイズは、これだけなんですけど」
「はい。是非」 不思議なことに、麗良の足はその優美な靴に、ピッタリと収まりまるで、誂えたようだった。
「これいただきます」 随分と嫌な思いをした自分を慰めるにしても、少し高価な買い物ではあったが、良く母が「素敵な靴に出会ったら、買い渋っては駄目よ。
二度と巡り合えないから」と言っていたのを思い出した。
翌日、良く晴れた土曜日、麗良は、デートする相手もいなかったが、思いっきりめかしこんで、甲高の足を最も美しく見せてくれる、この上なく典雅な靴に足を滑り込ませた。
運命論者ではないが、何か特別な出会いの予感を感じていたのだ。
「新出さん」銀座駅を出て直ぐに、突然名前を呼ばれたので、一瞬は聞き違いかと思いながら、辺りを見回した。 「ニイデ」と言う苗字はさして多くないので、他に振り向く人もなかった。
急ぎ足でにこやかに近づいてきたのは、以前マーケティングを担当した、クライアントだった。
「ご無沙汰しています」「いやあ、その節は大変お世話になりました。お陰様で新商品発売の目途が立ちましたし。すいません、思わず声を掛けてしまったけど、お約束がありそうですね」
「いえ、今日は一人で気晴らしです」「そうなんだ。僕は商品リサーチを兼ねて、個人的な好奇心を満足させるために、デパート巡り。もし、良かったら、どこかで待ち合わせてお茶でもいかがですか。スイーツが抜群に美味しいところを見つけたんでね。ご案内しますよ」
麗良は少し迷ったが「ありがとうございます。お誘いに乗ってしまおうかしら」
「お、良かった。これで僕も楽しみが出来た。それじゃ、分かりやすいから、3時に銀座プレイスでいいかな」「はい。楽しみにしています」
じゃぁ、という風にちょいと頭を下げて、軽い身のこなしの、長身痩躯の背広は風をはらみ、ひらひら揺れながら、あっという間に人込みに紛れた。
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