おん・ゆあ・まーく

ブリル・バーナード

げっと・せっと・ごう!


 On your marks!


 シーンと静まり返る。緊張する。

 彼女は一礼して膝をつき、鋭い目つきでゴールを睨んだ。

 ふぅっと大きく息を吐いてスターティングブロックに足をかける。

 この瞬間から勝負は始まっている。

 集中しろ。雰囲気に呑み込まれるな。神経を研ぎ澄ませ!

 バクバクと胸を打つ鼓動がここまで聞こえてきそうだ。

 赤いゴムの競技場トラックを見つめてその時が来るのをじっと待つ。

 異様に長く感じる数秒が経ち、選手たちが動きを止めた。


 Set!


 お尻をあげる。クラウチングスタート。

 誰もが息を止めた。


 パァンッ!


 張りつめた空気を炸裂音と閃光がぶち壊し、選手たちは同時に弾丸となって飛び出した。

 一気に湧き上がる観客席。仲間を応援する陸上部員や先生。子供を激励する保護者たち。

 彼女たちは足を動かす。腕を振るう。スピードに乗る。

 最初は低姿勢。徐々にスピードに乗って上体が起き上がる。

 この間、僅か4~5秒。

 最高速度に到達した選手たちは瞬く間に半分の50メートルを駆け抜ける。


「……頑張れ」


 最下位を独走する彼女には、目の前を走る他のレーンの選手たちの後ろ姿が見えていることだろう。

 でも、彼女は最後まで諦めない。諦めていない。


「……いけ! いけいけいけっ!」


 彼女は走る。髪をたなびかせ、歯を食いしばり、真っ直ぐにゴールを見つめて。

 少しでもタイムを縮めるため、胸を突き出してフィニッシュ。

 ゴールした彼女は息を荒げながら、その顔はポカーンと呆けていた。『もう終わり?』と言いたげ。

 100メートルという距離はあまりに短くて、走った直後は実感が湧きにくいのだろう。


「はぁ~……」


 大きく息を吐いて俺は背もたれにもたれかかった。

 彼女の走る姿に自分を重ねていた。呼吸すら忘れていた。緊張の糸が切れる。

 ドッと疲れが押し寄せてくる。でも、どこか心地良い。

 部活の先輩や後輩たちが声をそろえて『おつかれぇ~!』と叫んだ。

 それに気づいた彼女は笑顔で手を振る。


「なにボケーっとしてんだ!」

「ほらっ! 嫁さんのところに行って来い!」

「嫁が走り終わったぞ! タイムはこっちで記録しておくから出迎えてやれ!」

「専属マネージャーだろ! 仕事しろ!」

「マネせんぱーい! いってらっしゃーい! 爆ぜろ!」


 先輩や同級生、後輩までが俺の身体をビシバシ叩いた。


「いや、アイツは嫁じゃねぇーし」


「「「 はいはい 」」」


 なに言ってんだコイツ、と言いたげな仲間のいい加減な様子に釈然としない。

 そこに笑顔の後輩女子から何かを押し付けられた。


「先輩、これ結愛ゆあ先輩に頼まれていた荷物です! どうぞ!」

「どうぞって何で持っていってやらないんだ?」

「えっ? まぁくん先輩は結愛先輩の夫ですよね? 先輩が持っていくのが当然では?」


 結愛が預けた貴女が持っていくべきだと俺は思うのだが。

 あと、俺は結愛の夫じゃないし。まぁくん先輩って呼ぶな!


「俺、走れないんだけど」

「ゆっくり歩いてゆっくり帰って来ればいいじゃないですか! 2~3時間ほど誰も走らないので、ゆっくり休憩してきてください! お二人で!」


 確かに、今のが午前中最後のレースで、今から一時間ほどお昼休憩。そして、その後一時間ほどは誰も走らないけどさ。

 そのニヤニヤ笑いを全員やめろぉっ! サムズアップをやめろぉおおっ!


「……わかりましたよ。行けばいいんでしょ!」


 背中に突き刺さる温かい眼差しは無視だ無視!

 少し薄暗い競技場の階段をゆっくり下りて、100メートルのゴール地点へと向かう。


「あっ! まぁくん!」


 走り終え、汗だくの身体にスポーツジャージを羽織っただけの結愛が駆け寄ってきた。手に持っているのは競技用のスパイクシューズ。


「ほれ、荷物だ」

「ありがとー! 水! 水が欲しぃ~!」


 荷物を漁って水筒を取り出し、コクコクと飲み干した。汗が滴る喉が動く。なんか艶めかしい。

 ジャージのチャックが開いていて、薄くて露出が多いユニフォーム姿は目に毒だ。


「ぶはぁー! 生き返るぅー!」


 激務を終えてお風呂上りにビールを飲み干すOLみたいだぞ。


「ぶっちぎり最下位おめでとー」

「みんな速かったねぇ」

「でも、ベストタイムだったな」

「うんっ!」


 咲き誇る大輪の笑顔。最下位なんか彼女は気にしていない。


「クールダウンに行くか。俺もついて行くから」

「えっ? いいの? お昼だよ?」

「結愛を置いて一人で帰ったら女性陣に殺される」

「あぁー。じゃあ、一緒に行こっか」


 というわけで、俺たちが向かうのは少し離れたサブトラック。

 試合前に動いて体を温めたり、試合後のクールダウンを行ったりする場所だ。

 ゆっくり歩く俺たち。俺の歩みに結愛が合わせてくれる。



「……もう俺のために走らなくていいんだぞ」



 気付けばそう呟いていた。

 彼女が走り始めてからずっと抱いていた罪悪感。もう限界だった。


 ――結愛が陸上競技を始めるきっかけとなったのは俺。


 ――俺が陸上競技を辞めるきっかけとなったのは結愛。


 きっかけは二年前。

 中学校時代の俺は、短距離走で全国大会の表彰台に上がるほど足が速かった。

 テレビや新聞、雑誌の取材もあったほどだ。将来はオリンピック選手かと言われたことも数えきれない。

 でも、今の俺はもう走ることが出来ない。


 下校中、信号をよく見ていなかった結愛を車から庇ったせいで――


 歩くことはできるが、走ることはできない。重い物も持つことはできない。

 事故直後、親は足を切断する可能性もあると宣告されたらしい。当時の俺は気を失っていて、最近になってその話を聞いた。

 そんなことがあって、高校に入学後、陸上部に入部した結愛と陸上部のマネージャーとして入部した俺。

 走ることは出来なくても、マネージャーとして選手のサポートにやりがいを感じている。


「俺の分まで走る必要なんかないんだ。結愛は結愛の好きなことをしていいんだぞ」


 あんな些細な事故のせいで俺に縛られることなんかない。

 一世一代の告白。好きな人に好きと告白するよりも勇気を出したと思う。

 ずっと言えなかった胸の内を聞いた結愛は――




「えっ? 別にまぁくんのために走ってないけど。私は好きで走ってるよ?」




 ――キョトンとしていた。




「確かにね、最初はまぁくんのために、まぁくんの分までって思ってたよ。でもさ、すっかり楽しくなっちゃって。走った後の爽・快・感っ! たまらないよねぇ! まぁくんが昔から走ってた気持ちも今ならわかるよ。やめられない、とまらない!」


 練習は滅茶苦茶キツイけどね、と結愛はケラケラと笑う。

 彼女の笑い声を聞きながら、俺は愕然とした。そして、こみ上げてくる猛烈な恥ずかしさ。


「嘘……だろ。ずっと俺は一人でウジウジ悩んでいたのか……? 超恥ずかしいんですけど!」

「まぁくんは真面目だからねぇ。というわけで、まぁくんが気にする必要はなーし! まぁくんから走ることを奪った私が言えることでもないんだけど……」


 彼女は空を見上げた。真上に昇る太陽が眩しい。風が吹く。白い雲が流れて行く。


「走るのって楽しいよね……」

「あぁ……楽しいよ」


 あのドキドキとワクワク。張りつめた緊張感。風を切って走る気持ちよさ。悔しさと嬉しさ。どれも忘れられない。

 結愛の慈愛に満ちたこげ茶色の瞳が真っ直ぐに俺を見つめていた。


「私は走るよ。走って走って走り続ける。辞めたいって思う時まで」

「……割と頻繁に思わないか?」

「実は練習中は心の中で辞めたいって何回も思ってる」


 えへっと悪戯っぽく舌を出す結愛。

 だよなぁー。練習きつそうだもん。傍から見ていても疲れる。

 結愛はニカっと笑った。


「まぁくん、ずっと見てて。私、走るから。まぁくんの分も」

「……ああ。見てる。ずっと見てる。結愛の走る姿を」


 俺たちは見つめ合う。汗でしっとりと濡れた彼女の髪が、風に吹かれて揺れた。


「――って、思いっきり俺の分まで走ってるじゃねぇーか!」

「バレたっ!? んじゃ、クールダウンに行ってきまーす! 逃げろっ!」

「待てやコラ! 戻ってこい! お説教だ!」

「嫌でーす!」


 結愛は笑いながら走って逃げて行った。

 まったく、結愛のやつは! 俺が走れないのを良いことにあっかんべーまでしやがって!

 まあいいや。どうせ最後には俺のところに戻ってくる。その時にお説教しよう。

 俺は芝生に腰掛けて、結愛が走る後姿を眺める。

 彼女が走る姿はとても綺麗だ。腕を振り、地面を蹴る。とても気持ちよさそうだ。


 俺は優愛がクールダウンを終えるまで、ずっと彼女の姿を目で追っていた。



finishおわり











 <Next raceおまけ


「あっ、夫婦が帰ってきた」

「お早いお帰りですねぇ。まだ30分も経ってないですよ」

「頬を紅潮させてスッキリした表情の汗だくの嫁。夫のほうもどこか清々しさを感じる……」

「「「 ま、まさかっ!? 」」」

「まさかじゃねぇーよ! 先輩たちも悪ノリしないで後輩を注意してください!」

「避妊はちゃんとするんだぞ」

後輩おれに対するそういう注意じゃなくて!」

「ま、まぁくん……私、もっと頑張るから!」

「「「 きゃー! 」」」

「「「 ちっ! 死ねっ! 」」」

「結愛、絶対にわかってやってるよな!? あぁもう! 俺、部活辞めていいですかっ!?」


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おん・ゆあ・まーく ブリル・バーナード @Crohn

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