なつもどき

Planet_Rana

★なつもどき


 ショウジョウバエが手を擦る。ザトウムシは糸を吐く。


 夏に近づいた春の一歩手前。すっかり暖かくなった気候に順応するように、待ってましたと言わんばかりに大量発生した虫たちは、顎を開いては他の虫を食いつぶす。


 アリの行列に飲み込まれていった解体済みのバッタを横目に、テントウムシが赤い光を反射した。目に入ったそれは、人の網膜に跳ね返って色彩情報を脳に伝達する。


 何とも暑い。3月なのに、こんなに暑い日があってたまるものか。

 空の青さが恨めしいほどに輝いている。細めた視界に、瞬く間に小鳥が横切った。逆光で羽の形状すら認識できなかったが、多分スズメか何かだろう。


 ぼんやりと、道路の向こう側を眺める。


 中央帯を設置する余裕などない細道。道の向かいとこちら側に、少しの間隔を置いて停留所が立っている。1本足のそれは、現代式ではない昔ながらのパイプ製だ。ペンキで塗られた鮮やかな黄色は、スズメバチの色に似ている。


 流れるように道を下る車と、えっちらおっちら上っていく車と。


 人が走るにはいささか急勾配が過ぎるこの道の片側に、木製の古びたベンチ。青いペンキで塗られたそれに腰を下ろして、大分経つ。


 待ち人は来ぬし、待つバスも来ぬ。


 夏の陽気を前借りしたような、肌に纏わりつくような湿気と土から立ち上る熱気。カスタードを塗りつけられたかのようなべとべと具合。日焼け止めは意味を成すのだろうか。30分に一度と言われたそれを塗り直しながら、麦藁帽の木漏れ日が膝に落ちた。


 停留所に到着したのは15分ほど前のこと。この辺りはバスの本数が少ないので、2時間に1本というのはざらである。おまけに時間通りに来やしない。


 燦燦と照り付けるお日様を睨む気力も体力も削ぎ落とされ、誰もいないベンチに腰掛けること15分。風呂を浴びて出てきたというのに、その手間を顧みない熱波によって全身水を被ったように汗だくである。たすき掛けた虫かごも、右腕に抱いている網も、無風の酷暑の中では何の役にも立ちやしなかった。


 集合はこの坂の麓で、そこまで歩くとかなりの時間を食う。歩道のないこの下り坂を危険を冒して歩くよりも、バスに乗った方が遥かに良い――そう判断して、停留所で待っているのだが。首に提げた汗を拭く為のタオルも、背中から下ろして久しいリュックサックも、まさかこの場に長時間放置されることになるとは夢にも思わなかったことだろう。


 停留所に示された時間はとっくに過ぎている。公共交通機関の車両がこの場を通りかかる気配は微塵も無く、肌に感じるのはたまに吹く温い微風のみだ。


 そうこうしている間にまた一台、車が坂を上っていった。

 暑さに耐えかねて、手元の経口補水液を喉に流し込む。ひと口、ふた口。


 スマートフォンがバイブした。開いてみれば、私を待つ人からの着信である。


 ……。……。……。……。……。……。


 電話越しにしばらく話して、ふと思う。


 停留所の時刻表。思わず左に貼られた方を読んでいたけれど。

 はて、今日は水曜日だったはずだ。


 右端の時刻表も、左端の時刻表も無視して、恐る恐る確認する。


 水曜日だけが、3時間に1本だった。







 院生による環境調査。遅れたのは私だけ。

 どうやら、麓まで走った方が早かったらしい。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なつもどき Planet_Rana @Planet_Rana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ