薬草を求めた男
憂杞
薬草を求めた男
男には急いで手に入れたいものが一つありました。重い病にかかった妻を治すための薬草です。村の医者からは保って七日と言われております。男は妻子が引き止めるのを振り切って、一人で薬草を採りに発って行きました。
「わたしの薬は山奥の薬草には劣る」
医者が言っていた言葉です。そう言って何度も男ら家族に謝っておられました。
その村外れの山はたいへんに険しい場所ですが、男は承知の上です。相応の備えをし、勇んで奥を目指して歩いて行きました。
木陰の急な坂道を進んでいくと、男は目当ての野草を見つけました。しかし、それは岩ででこぼこした細い崖の端に生えております。
男は息を呑みつつ、慎重に歩を進めました。妻のために急き立つ気持ちはあっても、みだりに走って足を踏み外しては元も子もありません。
長い緊張を堪えた末に、男はやっとのことでその野草を手にしました。それからゆっくりと来た道を戻り麓へ下りると、男は安堵して村へ帰りました。
ところが、採ってきた野草を医者へ見せると
「これは薬草ではない」
と言って眉を顰められたのです。
男は確かに聞いた通りの場所から採ったはずだと嘆きました。どうやら、医者が薬草の居どころを勘違いしたようなのです。
すると横で聞いていた医者の助手が教えてくれました。
「薬草は山ではなく、遠方の森の奥にある」と。
負い目を感じた医者は助手を遣わせ、森への薬草採りを手伝わせることにしました。妻の容態は日に日に悪くなっていきます。男は苦しげに呻く妻に胸を痛めながら、助手を連れて森へ向かいました。
鬱蒼と茂る木々の間を抜けて、二人はひらけた平地に着きました。その奥の方には、背の高い植物が一束生えているのが見えます。
「あれが薬草だ」と、助手は指をさして言いました。
しかし同時に、横から嫌な気配に気付きます。見ると野生の大きな熊が、体を丸めて眠っていたのです。寝顔はこちらを向いており、ひとたび物音を立てればたちまち餌食となることは明らかでした。
助手は怯えてその場で腰を抜かしましたが、男はどっと冷や汗をかきながら、それでも退くわけにはいかないと奮い立ちました。
助手が息を殺し周囲を見張る間に、男は忍び足で植物に近付いていきました。徐々に目前まで迫った宝のもとへ、今すぐ駆け出したい気持ちでいっぱいでしたが、男は最後まで気を抜きません。
てのひらが届く場所まで忍び寄ってから、男は丁寧に植物を手折りました。引き返して助手と合流すると、やっと一息つきました。
ところが、助手は採ってきた植物をまじまじと見た後、肩を落としました。
「これは薬草に似た別種である」と。
男は大いに落胆し、とうとう堪忍できなくなりました。弱った助手を拳で叩き伏せ、大声で泣いて怒鳴ったのです。
「こうしている間にも妻は死にゆくのだ、この無能者が」
そんな二人に、眠りを妨げられた熊が襲い掛かりました。
男は一心不乱に逃げ走ります。助手は倒れた体を起こせないまま、遠ざかる背中へ手を伸ばしておりました。
男は無事に森から出られましたが、助手が後に続くことは二度とありませんでした。
ここまで何の成果もない。これでは妻に何もしてやれない。男は自分の無力さを呪いました。薬草を探すあても他になく、疲弊した体は路上で膝をついてしまいます。
そこへ、初めて嗅ぐ芳香が漂ってきました。顔を上げると、黒装束を纏った女が傍に立っております。その表情は頭布の影に覆われよく見えません。
女は手に麻袋を持っており、中には緑の葉が山ほど入っていました。その葉は男が手にした植物と瓜二つです。女は同じ森へ薬草を採取した帰りらしく、欲しければ分けてやりたいと言いました。
男はなおも疑いましたが、藁にもすがる思いで葉を受け取りました。村では妻が必死に男の助けを求めています。もはや躊躇う猶予はありませんでした。
女の肩を借りながら、男は浮き上がるような意識の中で歩いていました。目線の遥か先では帰るべき村が、霞に隠れながら待っております。男は懸命に前へ進みますが、妻のもとへ間に合うか何度も不安に駆られました。
「大丈夫」
隣の黒装束が囁きました。蕩けるような芳香に惹かれて、男は時おり女の方を見ます。
「大丈夫です」
男はこれ以上は悪いと思い、右腕を肩からどけました。それから拳を握りしめて己に発破をかけ、歩みを少しでも速くしようと意気込みます。
「大丈夫ですよ、あなた」
男ははたと立ち止まりました。女の優しい声色に、ひどく聞き覚えがあったのですから。
女は頭布を脱いで目を細めます。
「あなた、ありがとう」
男は仰天しました。隣で妻が微笑んでいます。
「あなたが薬草をくれたおかげよ」
横になってばかりいた妻が、隣で青白い笑みを浮かべて立っています。
男はその場に頽れました。気抜けして震えてばかりの両手は、一枚きりの葉を掲げることで精一杯です。代わりに大粒の涙を流して叫びました。
「すまない。本当にすまなかった」
自分の非力さを叫びました。魯鈍さを叫びました。醜さを叫びました。
細い腕が男の首を抱きながら、取り上げた葉を慣れた手つきで擦り潰します。やがて葉屑がどこかへ消えたかと思うと、二人はそっと口付けを交わしました。
愛する者の温もりを受けて、男は天に昇るような心地でした。男にはもう、何も要りませんでした。
その半月後、男は自殺しました。傍らにいた黒装束の女が、カナビスを売り歩く商人と知ってからのことです。お客を失った商人は森へ姿を眩ましたといいます。
村には誰も帰りませんでした。人手を喪った医者は休みなく働き続け、過労でこの世を去りました。
母の最期を見届け取り残された一人息子は、ただ途方に暮れるしかなかったのでございます。
薬草を求めた男 憂杞 @MgAiYK
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