27. 【地】楓 前編
遥と楓は最初から仲が悪かったわけでは無い。
小学校低学年の頃までは遥は楓の面倒をよく見ており、楓も優しい遥を慕っていた。遥はぼっちだったので友達と遊ぶことは無く、放課後毎日のように妹の遊び相手になってあげており、楓視点では良いお兄ちゃんだった。
だが小学校三年生になったある日の朝、悲しい事件が起こった。
「ねぇねぇ、楓ちゃんのお兄ちゃんって遥って名前なの?」
「うん、そうだよ」
「やっぱりそうなんだ」
いつものように登校して友達と雑談をしていたところ、あまり話したことの無いクラスメイトの女子が楓に話しかけて来た。
「私のお兄ちゃんがその人と同級生なんだけどさ、楓ちゃんのお兄ちゃんってダメダメな人なんだってね」
「え?」
「小学校六年生になってもちゃんと本を読めないんだって!」
「ええーなにそれー」
「私でも読めるよー!」
その子の言葉を聞いた近くの女の子達が次々と反応し、自然と遥を嘲笑する雰囲気になってしまう。
クスクス……クスクス……
この時はまだ楓はお兄ちゃん大好きっ子だったため、遥が侮辱されていることが信じられず、かっとなって元凶の女の子を叩いてしまった。
「お兄ちゃんはダメなんかじゃない!」
だが相手がどれだけ酷い言葉の暴力で殴りかかって来ようとも、実際に手を出したら負けなのは子供の世界でも同様。
「うわああああん!」
「あ~楓ちゃんが殴った~」
「泣ーかせた。泣ーかせた」
「やっぱりダメなお兄ちゃんがいるとダメなんだねー」
殴られた女の子が泣いてしまったことで煽りは更に酷くなり、楓の怒りは更に増す。
「絶対に許さない!」
煽った他の女の子達にも殴りかかり、大乱闘になりかけた。
「止めて!」
それを止めたのもまた、楓のクラスメイトだった。彼女は楓と女の子の間に強引に割って入って楓の動きを止めたのだ。下手したら自分が殴られるかもしれない行為であるが、彼女はそれを恐れなかった。
「どいて!……あ!」
幼い楓は感情を止められず、その女の子も殴ってしまう。流石に無関係の女の子を殴ってしまったことで冷静さを取り戻したが、自分がやってしまったことに気付き真っ赤だった顔が逆に青ざめる。
「ご……ごめ」
「あーまた殴ったー!」
「ひどーい!」
「先生に言わなきゃ!」
楓の動きが止まったのを良いことに、周囲の煽りが復活する。彼女達にとってすでに楓は悪であり自分達が正義であると決めつけられていたのだ。
「楓ちゃんの悪口を言うのは止めて!」
しかし、最後に殴られた女の子はそれをよしとしない。周りの女の子達を睨みつけて毅然とした態度で彼女達を糾弾する。
「みんなが楓ちゃんのお兄ちゃんの悪口を言うから、楓ちゃんが怒ったんでしょ!」
「なんで殴られたゆっけが怒るのさー」
「本当のことだしー」
「そうだよー」
「それじゃあみんなは自分の家族の悪口を言われて平気なの!?怒らないの!?」
楓にどれだけ怒りを向けられても何も思わなかった彼女達が、ようやく自分達のしでかしたことに気付きかける。
子供の頃は親の行動について不満を感じることが多いものだ。
嫌いなご飯が食卓に上がる。
自分は悪くないのに怒られる。
外で他人に悪態をついている。
ちょっとだけならと軽微な交通違反をする。
些細なことかも知れないが、それらの小さな問題は子供心に強く印象に残るのだ。
だがそれでも子供は家族が大好きだ。それなのに、その欠点について馬鹿にされたら自分だって怒るだろうと理解した。
「楓ちゃんに謝って」
『…………』
バツが悪そうな顔で黙り込む女の子達だが、それを許してはくれない。
「謝って!」
まるで先生に叱られたかのようにしゅんとしてしまう女の子達。中には泣き出す子もいた。
「わだじわるくないぼんー!」
「泣いたってダメ、ちゃんと謝って!」
大人は子供の涙に弱いし、男の子も女の子の涙に弱い。だが、女の子同士ではその威力はやや弱まる。彼女は涙を見せた相手にも謝りなさいと強く迫った。
『ごめんなさい』
結果、全員が楓に謝罪をした。殴られた子は不満な表情を隠そうともしないが、それでも謝れたということは悪い子ではないのだろう。
次に女の子は楓の方に向く。
「良かったね、楓ちゃん。次は楓ちゃんだよ」
「え?」
「楓ちゃんは怒って良いけど、殴っちゃダメだよ。だから謝って」
楓に対しても、怒りは認めるけれども殴ったことは謝るようにと伝えたのだ。楓の場合は自分が悪いことをしたと分かっていたため、素直に従った。
「殴ってごめんなさい」
「うん、あと私だけじゃなくてみんなにも」
「……殴ってごめんなさい。でもお兄ちゃんの悪口言わないで」
「あ……うん、ごめんね」
「ごめんなさい」
ごねることなく素直に謝ったのが良かったのか、女の子達は楓に謝り仲直りした。
――――――――
この日を境に、楓は『ゆっけ』と友達になった。
ゆっけは皆で仲良くがモットーの心優しい女の子。クラスの中でトラブルがあれば仲裁役となり、遺恨を残さず解決出来るように尽力する。女の子同士の関係というものは小さい頃から難しい物ではあるが、彼女にはその難題をクリア出来るだけの資質があった。
しかしそれは彼女がいるクラスに限った話だ。楓とゆっけは小学四年生の時に別クラスになってしまう。楓は再度、情けない兄について女子から揶揄われ始めた。それでも、昼休みや放課後等にゆっけが相談にのってくれていたことで、最初の頃は軽く受け流すことが出来ていた。
だがある日、気付いてしまう。彼女達の言葉が真実であることを。
「こんにちわー」
「あらこんにちわ」
「こんにちわ。お出かけ?」
「うん!友達の家に遊びに行くの!」
「車に気をつけてね」
「はーい!」
ゆっけの家に遊びに行く途中、近所のおばちゃん達が世間話をしていたので挨拶をした。そのすぐ先の角を曲がったところで忘れ物に気が付き引き返そうとした時、そのおばちゃん達の会話が聞こえて来た。
「楓ちゃんはちゃんと挨拶出来て良い子よねー」
「ほんと、遥くんとは大違い」
「遥くんねぇ、確か友達いないんでしょ?」
「まともに挨拶も出来ないんだもの、そりゃそうでしょ」
「小さい頃は失敗している姿が可愛く見えたんだけどねぇ」
「流石に中学生にもなってまともに人と話せないとか、笑えないわよ」
「ほんと、楓ちゃんもあんなお兄ちゃんがいて可哀想に」
そしてそれから延々と続く遥をディスる世間話。それは楓にとってまったく知らない
牧場体験に行き、指導のお姉さんとまともに会話が成立しなかった姿。海水浴に行き、飲み物を一人で買ってくるように父から言われて頑なに断る姿。スーパーに買い物に行き、同級生らしき男子が近づくと逃げるように移動する姿。
兄の情けない姿を思い出そうとすればキリがない。
もちろん、だからといって兄が嫌いになるわけでは無い。この時点ではまだ優しい兄を慕う気持ちの方が大きく、おばちゃん達の言葉に激怒した。
だが、学校生活を続けていると何度も何度も繰り返し兄のことで揶揄われる。
あんなにもダメな兄をもって可哀想。
楓も実はダメなんじゃないか。
そんな子供の純粋な悪意が楓に降り注ぐ。悪意から守ってくれるゆっけはその場には居ない。そして楓は耐えきれずに兄にこの言葉を放ってしまう。
「お兄ちゃん、もっとちゃんとしてよ!」
一旦狂い出した歯車は止まらない。遥と楓は頻繁にケンカするようになり、大好きだった気持ちは急激に冷め、真逆の憎しみの感情が募り出す。その苛立ちは揶揄ってくるクラスメイトにも波及し、楓はまた耐えきれずに暴力を振ってしまう。
家族を巻き込んだ大問題になるが、だれも楓のことを理解してはくれない。教師は全面的に楓が悪いと思い込み楓だけを叱り、両親も暴力を振ったことを咎めるだけで楓の言い分は聞いてはくれない。近所の大人達も『やっぱりあの兄の妹だね』と本人にも届くような大声で陰口を叩く。
大人という味方を得たクラスメイトはここぞとばかりに楓を責め、楓はクラスで孤立する。
この地獄のような状況は二つの要因によって終わりを迎えた。
一つは楓が怒り狂い暴力に身を委ねたことだ。人は純粋な暴力に恐怖する。何かを言われたら全力で机を叩き、相手の胸倉を掴み睨みつける。これだけで大抵の女の子は泣き叫び退散する。教師に注意されようとも、すでに楓にとって教師など信用出来ない大人として認識されており意にも返さない。殴ることは自重しているが、その暴力性だけでクラスメイトを大人しくさせるには十分であった。
そしてもう一つはゆっけだ。ゆっけは楓のために小学校四年生の一年間ほぼ全てを費やしたと言っても過言ではない。自らのクラスの平穏よりも楓のことを優先して小学生とは思えないほどの行動力で状況を変えたのだ。
教師を説得して楓が被害者であることを納得させて全面的に悪いと決めつけていたことを謝罪させた。
楓の両親に楓が何を思いどれだけ苦しんでいるのかを説明して怒る以外にやることがあるのではと諭した。
両親に頼んでPTAや町内会の会合に参加させてもらい、悪口は良くないことだと大人達を糾弾した。
いずれも簡単なことでは無かった。様々な組織に電話して力となってもらえる人を探し、両親だけではなく優しくしてくれる年配のご近所さんにも助けを求めた。ネットも活用し、助けてくれる『仲間』をひたすら探し集めて挑んだのだ。
通っていた学校の上層部が腐り切ってはいなかった、ご近所さんにまともな人が多かった、などの幸運にも助けられ、ゆっけは楓を取り巻く状況を改善させた。
そして最後はもちろん、楓に殴ってしまったことを謝罪させた。どれだけ叱られても決して頭を下げなかった楓がいとも簡単に謝罪した。それも、しっかりと心をこめて。クラスメイトも教師達もあまりのことに驚いた。
「楓ちゃん、頑張ったね。殴らなかったの凄いよ!」
楓が相手を殴りつけたのは最初だけ。それ以降は圧力をかけても決して殴る事だけはしなかった。それはゆっけにそれだけはやらないでと懇願されていたからだ。
小学五年生に上がって以降、ゆっけは楓と同じクラスだった。教師が楓の暴走を恐れてストッパーを配置したのではと陰で言う人が多かったが、それが事実かは分からない。だが結果として、それが大成功だった。
一度やさぐれた楓は元に戻らない。暴力で相手を大人しくさせられることを理解してしまったからだ。また、暴力に身を委ねる楓に対し、陰で悪口を続ける人は多かった。それを聞き咎めた楓が怒り、ゆっけが止める。それが日常化していた。
「あぁ?今何て言った!?」
「ダメだよゆっけちゃん!あなたもそんなこと言っちゃダメだよ」
ゆっけは楓が怒ることそのものは止めずに、むしろ自分事のように共感して一緒に怒ってくれた。だが、誰かを殴ることをただ一度を除いて許さなかった。
その一度はゆっけが質の悪い風邪で学校を三日間休んだ時の事。楓の肩を持つゆっけのことを不満に思っている女の子が、楓ではなくゆっけについて悪口を言ってしまった。それが楓の耳に入って激怒して思わず手を出してしまった。風邪が治って登校したゆっけは楓に対して咎めるどころかむしろ感謝した。私のために怒ってくれてありがとう、と。
楓とゆっけは中学、高校、そして大学まで一緒になった。これは楓がゆっけと一緒に居たいために努力した結果だ。
暴力的な楓と心優しいゆっけ。絶妙なバランスを保ちながら、名コンビとして共に成長する。
だが、そのバランスはあっけなく崩れ去った。
『楓、ごめんね』
それがゆっけが楓に送った最後のメッセージだった。
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