273.晴れる靄
「マリア姉様程、情熱的な恋慕を抱いているわけじゃないけど」
「……キリユ、それは」
「分かってる、成就するとは思ってないよ。身分云々もそうだけど、そもそもエイムの方にその気がなさそうだし」
英夢のキリユに対する態度を見れば、それは明らかである。
もっとも、あの夜の襲撃を考えれば当然のことではあるが。
「……キリユはそれで良いの?」
「うん。だからと言って、簡単に諦めるつもりもないし」
「生まれて以来、こんなにも欲を出さない人間はキリユくらいではないかと常々思っていたが、ようやくそれらしき片鱗が見えてきたか」
キリユは日本の枠組みに当てはめるのであればまだ未成年だが、それでも結婚を考える年齢、王族としての血筋を考えれば遅いくらいだ。初恋の相手が異世界の一般人というのはともかく、子孫を残すことも王家に生まれて来た者の使命。国王としても、キリユの心境の変化は進展だと言って良い。
「……私のことはまた今度。それより、グリードハイドへの処罰なんだけど──」
「……キリユ、それは!?」
「!?」
「……ほう」
第三王女の落としたもう一つの爆弾は、会議室を大きくざわつかせた。
♢ ♢ ♢
(……ん?)
先日のキリユによる襲撃の影響で、睡眠中でも研ぎ澄まされていた俺の感覚が、ベランダの扉が開かれる音を捉える。
「流石に、こんな頻繁に来ることはないと思いたいが……」
何せ相手はあの考えが読めない第三王女だ、油断するわけにはいかない。そう判断した俺は、ベッドから身体を起こし、ベランダへと向かう。
するとそこにいたのは……。
「あら、起こしちゃった?」
「……いや、俺も眠りが浅くてな」
そこにいたのは、第三王女ではなく、俺の相棒とも言うべき剣士、シルヴィアの姿だった。珍しくワインを手にしたシルヴィアは、儚げな表情で夜景を見つめている。
「……そう。なら、少し付き合ってくれない?」
「ああ、喜んで」
注いでくれたワインを手に取り、シルヴィアの隣に立つ。深夜とは言え、城の周囲は僅かながらも淡い光に満たされている。直接目にしたことはないが、蛍の光を連想させるような美しさだ。
「……昼間のことか?」
「ええ」
昨日の今日どころか、まだ一日も経っていない。思い当たる節は、それくらいしかないだろう。
「とても……とても不思議な気分。心の靄が晴れたような、ぽっかりと穴が空いてしまったような……言葉で表現するのが難しいわね」
「無理に言葉にする必要はないさ、言いたいことは、大体伝わってる」
しがらみの多い生活だったとはいえ、シルヴィアがグリードハイド家で生活を続け、その中で僅かながらも喜びを享受していた事実に変わりはない。
今日の出来事はある意味で、そういった思いでとも決別したことになる。
「どうしようかしらね、これから」
「………」
「勿論、まだ完全にこの一件が解決したわけじゃない。だけど、私の考えは向こうに伝えた」
「ああ、そうだな」
その上であれだけ徹底的に実力差を見せつければ、少なくとも表立って行動してくることはないだろう。エルドリッドはともかく、ドレグはそこまでの愚か者ではないはず。
「だから、これからは大したしがらみもなく、憂いもない、自由な生活が送れる。そのはずなのに……全然見えてこないのよ。次の目標、生きる目的が」
「良いんじゃない?それでも」
そう答えたのは、俺じゃない。
「……リーゼ?」
「目的を失っても、前に進もうとしているその姿勢が残っていれば、何も問題ないと思う。歩いていれば、自ずと目的の方からやって来るものだよ」
それは、ダークエルフとして長きの時を生きるリーゼだからこそ言える言葉だ。
「私にもそれ、頂戴」
「……ええ」
シルヴィアからグラスを受け取ったリーゼは、それに軽く口をつけた後、シルヴィアの隣に寄り添う。
「大丈夫だよ、私よりは短いかもしれないけど、人の生はとても長い。ちょっと速度を緩めたくらいで、日常は大して変わらない」
「……リーゼの言う通りだな。特にここ最近は少しばかり生き急ぎ過ぎた。ちょっとくらい羽を休めてみるのも、いいかもしれない」
「……ふふっ。私としては、エイムと出会ってからずっと全速力なのだけどれど」
確かに、俺もシルヴィアと出会ってから、止まっていた時計の針が凄まじい速さで動いていた気がする。
「なんだか共感しているみたいだけど、どう考えても原因は私じゃなくてエイムの方にあるからね?」
「おいおい、俺のせいかよ」
「私もそう思う」
「……」
何も言えなくなった俺を見て、二人は小さく笑い合う。
種族も年齢も大きく異なるが、こうして並ぶ二人の姿は、髪色も相まって姉妹のように見える。どちらが姉らしいかは……妹らしい方の名誉のためにも、言わないでおこう。
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