182.団長の思惑
「ふふ、それで良い。君が娘を見守っているなら、私も安心して動くことが出来る」
「…もうお嬢様は、十分独り立ちなさっていると思いますが」
桜は今年でニ十一。もしまだ大学という施設が存在していれば、そろそろ就職に向けて動き出す頃だ。もう親元を離れても、なんら不思議のない年齢だと言える。
「…確かにそうだな。もし世界が平穏を許してくれていれば、今頃はどこか別の家庭に入っていたかもしれない。時が経つのは早いものだよ」
「………」
貴方はゼロか百でしかものを語れないのか。と思う菊川だが、勿論それを口に出すことは無い。『混沌の一日』以前、桜の周囲に、男性の姿はほとんどなかった。
嫌われていたわけではない。彼女の持つ経歴や、霞ヶ丘グループの令嬢という立場もあって、周りからは遠慮されていたのだ。高嶺の花、という言葉がこれほど似合う女性も珍しい。
『混沌の一日』以降は以前に比べ、かなり交友の輪は広がった。だがそれでも、同年代の友人は未だに極僅かと言わざるを得ない。
今は避けられているわけではなく、彼女が重役に付き、更には調査団として各地を飛び回っているため、そもそも交流の機会がないのだ。調査に赴くときにはほぼ必ず正真団長も参加しているため、団員の中に彼女に言い寄ろうとする人間も存在しない。
(それを思えば、彼との再会は幸運でしたね)
菊川が脳裏に思い浮かべるのは、彼女にとっては数少ない『混沌の一日』以前からの友人であり、彼女が唯一自宅に招き入れた男だ。日本ではあまり見なかったメッシュヘアーに、鋭い目つきも相まって、最初の菊川の心象はあまり良いものではなかったが、今では軽口を叩けるくらいに打ち解けることが出来た。
(もしお嬢様が家庭を持っているとしたら、それはきっと…)
「菊川、そういえば彼はどうだ?」
菊川がそんなことを考えていると、正真団長は紅茶のお代わりを要求しながら、一つの疑問を投げかけてきた。菊川は流れるような動作で紅茶を用意しつつ、正真団長の疑問に答える。
「天崎君でしたら、現在軍からの依頼を滞りなく完了させています。今は確か、カツロ山の警戒任務に参加中だったはずです」
「ふむ…そうか。その後は?」
「軍の動向次第ですが、恐らくはマーティンに戻るのではないかと」
先日の葛城総司令とのやり取りを見る限り、英夢は早くここでの任務を終わらせたがっているように見えた。彼の胸中の一片を知る菊川としても、そうなるだろうなという予想があった。
「なるほど。ならば、それまでに手を打たねばな」
「彼に何か?」
「…彼のパーティーが我が団に加われば、軍との関係を逆転させられる。そう思わないか?」
英夢はこの街の最高戦力である葛城総司令や菊川を凌駕するほどの逸材、そしてその両翼を担う二人も、他の軍人とは比べようもないほどの実力者である。正真団長が彼らを取り込もうと動くことは、自然なことだと言えるだろう。
「…それは、そうかもしれませんが」
「何か思うところが?」
「いえ…ただ、彼がこの街に留まるようなメリットを、こちらから提示できるでしょうか?」
英夢がこの街に残留し、この街で活動していく。それは菊川自身も望むことであるが、今の彼はただの高校生ではない。彼の実力を高く評価しているのは、この街だけではないのだ。
「それに彼を引き抜けば、マーティンとの関係悪化は免れません」
「それはどうとでもなる。…が、確かに彼の望む物をコチラが用意するのは難しい」
菊川はこれまで、彼らと共に生活し、その様子を正真団長に報告してきた。だが、英夢はとにかく欲が無い。英夢がトウキョウに、そして調査団に所属するなら、確かに多少の無理をするだけの価値があるだろうが、そもそも望む物が無ければどうしようもない。
「ふむ…娘はどうだ?」
「…正気ですか?」
突然の団長の言葉に、菊川は言葉を選ぶことなく返答してしまう。瞬時に自分の失態に気付いた菊川だったが、そうなってしまうのも無理はない。
正真団長の『混沌の一日』以前に生きていた世界では、取引で「婚姻」というカードが使われることは確かに珍しくなかった。だが団長は今までそのカードを使用することなく、財閥をあそこまで成長させた。
だが正真団長は今、そのカードを切るところまで選択肢に加えている。その事実に菊川は、大きな驚きを覚えていた。
「彼にはそれだけの価値がある…それに、誠に遺憾ではあるが、桜にとっても幸せだと思うのだよ」
こういった取引での婚姻関係というのは、大抵取引を持ち掛けた側にとっては幸せな結末が待ち受けていないもの。だが今回のケースで言えば、両者ともが円満に取引出来るのではないかと、正真団長は考えていた。
(…ですが、天崎君はきっと、この街を選ばないでしょう)
菊川が自らの主に隠している一つの事実。彼はこれを報告するべきか、未だに悩んでいた。彼の立場を考えれば確実に話すべきことなのであろうが、あの時の英夢の変わりようを思い出し、口が止まってしまっていた。
「一度、桜をここに呼んでくれ。私から話す」
「…承知いたしました」
結局この日も菊川は、その事実を話すことが出来ないまま、一日を終える。渦巻く靄のような何かを、自身の胸に秘めながら。
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