136.過去 後編

「…ただいま」

「お帰りなさい、今日は遅かったのね?」



 父がいなくなり、あの地下室での地獄の日々は唐突に終わりを告げた。だがそのせいで…



「なるべく早く帰って来てね?お母さん心配しちゃうから」

「うん、ごめん」



 父の収入が無くなり、パートを始めた母。だが元々精神的に疾患を抱えていた母は、父の薬が無くなったこともあり、どんどん精神を擦り減らしていった。今思えば、父の作る薬には中毒性もあったのかもしれない。


 母の負担を少しでも減らそうと、俺は中学に進学すると同時にバイトを始めた。手段を選ばなければ中学生でも収入を得ることは不可能じゃない。



 姉は中学を卒業したタイミングで、そそくさと家を出た。家の金銭的負担を減らすために出て行ったことが後々分かったが、この時の俺にはこの家に嫌気が差したようにしか見えなかった。



「すぐにご飯にするわね」

「いや、僕が作るよ。疲れてるでしょ?」

「…お母さんの作るご飯、嫌?」

「…ううん、そんなことないよ。じゃあ任せてもいい?」

「ええ、勿論よ」



 普段はいつも通りの優しい母親だったが、一度地雷を踏むと当時の俺にはどうしようもなくなってしまう。家では母の挙動、言動を常に気にするようになった。



「…英夢」

「ん?」

「大丈夫なのか?ここ最近、明らかに普通じゃないぞ」

「…さぁ?」

「おいおい」



 この頃から、俊やなぎさとの交流も徐々に減っていった。なぎさに関しては思春期的な要因もある気がするが、やはり俺自身、母のことに手一杯で、人間関係に疲れていたことがあると思う。



「本当に限界なら言えよ、僕の出来る限りで手助けするから」

「…ああ、サンキューな」



(…めんどくせぇ)



 それから少なからず、二人への嫉妬があったことも否定できない。『普通』の生活を送れていた二人に、嫉妬していたんだ。二人だって苦労してないはずないのにな。



 そしてそんな糸をピンと張りつめたような生活は、それほど長く続かなかった。俺にとっては、ある意味で救いの手だったかもしれない。





♢ ♢ ♢



「英夢、わざわざありがとうね」

「いいよ、どうせやることもないから」



 この日、俺は母と二人で銀行に向かっていた。なんの用だったのかは覚えてない。


 トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、母の外出は出来る限り俺が代わりに行って、どうしようもないときは同行するようにしていた。



 銀行に入り、整理券を貰って紙に書かれた番号が呼ばれるのを待っていると…



「きゃ!?」



 一人の係員が悲鳴を上げた。その女性の前には中年の小太りの男がいて…黒い掌サイズの物体──拳銃を女性に突きつけていた。



「ここに金を入れろ…早くしろお!!」

「は、はい…!」

「お前らも妙な真似はするなよ!全員、手を俺の見える範囲に置いておけ!…おい!何やってる!!」



 おそらく通報ボタンを押そうとしたのであろう係員に銃口を向け、男は引き金を引く。



「ひっ!…え、英夢…」

「…大丈夫。大人しくしていれば、僕達が標的になることはないよ」



(よりによって、なんで俺達が来たタイミングで…!)



 内心で歯噛みするが、表情に出しては母を心配させてしまうだけ。必死のそれを抑え込む。



 銃弾は幸いにも命中しなかったが、係員は目の前に着弾した銃弾にすっかり怯えてしまった様子。あの様子では、もう一度挑戦する勇気はないだろう。


 銃の反動で痛めたのか、反対の手で手首を擦りながらも、男は銃口を突きつけることをやめない。



「お、お前らも…ぜってぇ妙な真似するんじゃねぇぞ!!」

「「きゃあああああああ!」」

「うるせえええ!!」



 母の鞄から携帯を取り出そうとしたが、忌々しくもそのタイミングで男はこちらに注意を向けてきた。悲鳴が癇に障ったのか、男はもう銃口を上に向け、もう一度引き金を引く。



「英夢、英夢…!」

「おいそこ!何話してる!」

「な、なにも話してない!」

「口答えするなぁ!!」



 男が引いた三度目の引き金、そこから放たれた銃弾は…



「ぐ…!」

「英夢!?」

「お、俺は躊躇しねぇ!!分かったか…お前らも何をちんたらしてる、はやくしろお!!」



 俺の左肩に命中し、服に赤い染みをつくる。痛みというより、体が熱くなるのを感じるが、我慢できないほどじゃない。



「大丈夫なの!?英夢、英夢!?」

「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて母さん…!」



 俺は必死に母親を鎮めようとするが、気が動転した母には全く聞く耳を持ってくれない。



(まずい、あの男がもう一度を向いたら…)



 俺を撃った後に男は、その銃口を再び係員の方へと向けているが、この様子に気付けばまた怒鳴り散らすに違いない。


 もう母親の精神は限界、いつ崩れ落ちてもおかしくない。



(俺が動くしかない)



 俺の傷口を抑える母の手を振り払い、俺は男の方へと走り出す。男がこちらを向いていない今こそ、最大の好機。



「な!?てめ、離せ!」

「……」



 男の手首を掴んで思い切り捻り、男と銃を切り離し、その銃をすぐさま拾う。これがおもちゃじゃないことは、己の身をもって実感している。銃を奪った後に面積の広い腹を思い切り蹴りつけ、男との距離を離す。



(誰か今のうちに…!)



 俺はそう願いながら係員の方へと視線を向けるが、その願いは叶いそうにない。



「それを返せえええええ!!」

「返すわけが…!」



 懐から取り出したナイフを持って突貫してくる男を見て、俺は後半の言葉を飲みこむ。



(………)



 体の異常を訴える左肩を押さえつけながら、今度は俺が男に向け銃口を向ける。



 当たらなくてもいいと思っていた。当たらなくても、男の突貫が止まればそれでいいと。


 だが、俺のその思惑は、全く別の形で成功した。



「あ…え…?」

「え……」



 俺の放った銃弾は、男の眉間を寸分のずれもなく貫いた。男は困惑の声を上げた後、大きく瞳を開き、その後に俺を視界に捉えて…



「この、人殺しが」



 その言葉を最後に、男は倒れ込んだ。

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