135.過去 前編
「うぅ…うあああああ!!!」
「………」
───今日は焼き
「うああああああああ!!」
「……」
自分の子供が悲鳴を上げているというのに、男は焼き鏝を息子から離そうとしない。無機物を見るような瞳でジッと俺のことを見据えながら、一言も発さずに押し付け続ける。
必死にその痛みから逃れようと体を捩るが、鎖で吊るされた状態でどうすることも出来ず、むしろ痛みが増すだけ。
「…あまり大声を出すな、近所に聞こえる」
「うぅ……」
この場所は家の地下深くにあるため、俺がどれだけ大声を出そうと一階にいる人間にすら聞こえない。父の目的は、俺をどんな痛みであろうと耐えられる体にすること。世間体を気にしてではない。
「何事にも目を背けるな、英夢。今自分の身に起こっていることを理解しろ」
痛みに悶え、もがき、歯を食いしばりながら、俺はその無限に等しい地獄の時間をただ耐えることしかできない。己の無力、そして目の前の男を恨みながら、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。
意識が朦朧となり始め、そろそろ命の灯が消えそうになったタイミングで、鉄の悪魔が俺の体から離れる。
「…夕食の時間だ、すぐに戻るぞ」
「……」
もう声を出す気力は残っていない。父はそんな俺を一瞥して、一人階段を上る。
(…早く戻らないと)
他の人間が見れば異常極まりない日常、そんなことは幼い俺でも分かっていた。何度家を抜け出そうと思ったか分からない。だが…
「お疲れ様、英夢」
「……うん」
罪悪感が見え隠れする笑顔で俺を迎え入れたのは、俺の姉。
初めはなんで俺だけなんだと思っていた、俺がこんなに辛い思いをしているのに、何故母や姉は幸せな生活を送れているのか、と。
だが、俺はある時気付いた。姉が一度も自分の肌を見せなかったことを、どれだけ暑い夏の日でも、長袖を着ていたことを。
俺は二番目だったのだと。体が屈強に育つ男が生まれたから、姉は地獄から解放されたのだと。
今の俺なら、姉を見捨てる選択肢を取ったかもしれない。だが当時の俺の中には、まだ「家族愛」なる感情が存在していた。
「おかえりなさい、今日はオムレツよ。好きでしょ?オムレツ」
「うん、好き」
母は精神を患っていた。何故か製薬知識があった父の力無しでは、普通の生活を送れないレベルで重い病気だったらしい。だから母は、自分の子供に対して行われる非行の数々にも目を瞑った。自分が生きるために。
「さ、冷めないうちに食べよう。母さんの料理は絶品だからな」
「もう、褒めても何も出ないわよ?」
父は地下室以外では普通の父親だった。何の仕事をしていたのかは最後まで分からなかったが、生活に困ったことはなかったし、一緒に遊んでくれたりもした。あの異常な行動さえ除けば、良き父親だったと思う。
「「いただきます」」
♢ ♢ ♢
「あぐ……」
──今日は鉄球だ。そんなものどこで手に入れたんだと思わずにはいられない鎖に繋がれた巨大な鉄球をひたすら体に打ち付けられる。声を上げることはなくなったが、それでも痛いものは痛い。
地獄は小学生になっても続いた。俺の傷だらけの体に担任は気付いていたはずだが、救いの手は差し伸べられなかった。
「英夢はプールしないの?」
「…うん」
「ええ~?楽しいのに」
だがこの時から変化が起きた。同世代の子とイマイチ波長が合わなかった俺だが、なぎさと俊と出会い、友人というものが俺にもできた。学校で二人と過ごす時間は、俺の束の間の癒しだった。
「なんで~」
「怪我してるから」
「ふ~ん」
嘘ではないが、それが理由なわけじゃない。だが純真ななぎさには、それで通じた。
「英夢、何かあったら言ってね?友達なんだから」
「…うん」
一方で俊は、この時から俺の体の傷に気付いていたんだと思う。それでも俊は、何も言わなかった。
小学生の時から何も言わない優しさというものを理解していた俊も、俺とは違う意味で異常だったと思う。
あの地下室が地獄なのは相変わらずだったが、痛みに徐々に慣れてきたこと、外での生活に癒しができたこともあり、俺の心には少しずつ余裕が出来ていった。
そんな生活を、俺は小学三年まで送った。そしてある日、
「限界…だな」
「…父さん、外出?」
「…英夢、もう帰ったのか。今日は早いな」
「うん」
父の外出姿を見るのは随分久しぶりだ。と、この時思ったのを俺は今でも憶えている。
「英夢」
「ん?」
「頼んだぞ」
「……?分かった、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
会話に合わない奇妙な一言。この言葉の意味を理解するまで、それほど時間はかからなかった。
父は帰らなかった。その日を境に、父は姿を消した。
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