ラン フォー ランチ

 チャイムと同時に財布を引っ掴み走り出す。

 廊下ですれ違った先輩が、手にした資料を示しながら「おい、この決裁だけど……」と話しかけてきたけれど、「今は休憩時間ですよ!!!」と叫びながら足は止めない。全力疾走しながらだったので、先輩がどこまで聞き取れたのかは分からない。


 会社を飛び出す。目的地までの距離と信号の数と歩道の混み具合から、最適なルートを導き出す。とは言ってもいつものことなので、いつもと同じルートになる。歩行者にぶつからないよう、でもスピードを落とさぬよう、ステップを効かせながら縫うように走る。


 目的地、「定食 はんだ」に到着。腕時計を確認。12:07。まずまずのタイムだ。引き戸を開けて、おばあちゃんの「いらっしゃあい」の声を受ける。

 店内を見回すと、2人掛けのテーブルが一つだけ空いていた。胸をなでおろして、席について、長く息を吐いた。

 おばあちゃんが震える手で、熱いお茶とおしぼりを運んできてくれた。メニューも見ずに「日替わり定食!」と注文する。おばあちゃんが「あいよぉ」と返し、厨房へと「日替わり~」と声をかけた。


 私の後からもチラホラと、近隣のサラリーマンが店にやってくる。皆一様に席が埋まっているのを見て、あちゃ~という顔をしていたので、心持ちドヤ顔をしてしまう。今日も全力疾走をしたかいがあった。

 だけど、すぐにおばあちゃんが「相席でもいいかね?」と言って、来店してきた人々を空いている席に振り分け始めたので、あんまり意味がない。私の前にもスーツを着た知らないお兄さんが座ったので、心の中で、あ~あ、とため息をついた。


 暫くして、おばあちゃんが「はい日替わりぃ」と言いながら、お盆が運ばれてきた。今日のメニューはトンカツとクリームコロッケだった。小鉢は、ピーマンとじゃこの炒め物と、ポテトサラダ。ここ数か月の中で最高の組み合わせだ。ああ、神よ、感謝します……と心の中で祈りを捧げ、手を合わせて小さく「いただきます」と言ってから、食べ始める。

 トンカツは、私好みの脂の載り具合。衣もサクッとしていて、ハフハフ言いながら、ご飯を追加で口の中に押し込んでいく。いったん小鉢を挟んでから、クリームコロッケにもかぶりつく。こちらも揚げたてだったようで、口の中を軽くやけどしそうになる。慌ててぬるくなり始めていた味噌汁を口の中に流し込み、消火を図った。


 頭の中で、何をどの順で、どのくらいずつ食べ勧めるか、スパコン並みに頭を働かせながら食べる。私の視界には、もうこのお盆の上のご馳走しかうつっていない。なのに。

「美味しそうに食べますね」

 いきなり前に座るお兄さんに話しかけられる。

 私の完璧なペースを乱されて、イラっとしてしまう。チラリ見ただけで、頷いて終わらせた。

「この近くで働いてらっしゃるんですか?」

 お兄さんがめげずに話しかけてきたので、私に出来うる最大限の殺気を視線に込めて、睨みつけた。お兄さんはやっと肩を小さくして、下を向いた。


 すべて綺麗に完食し、手を合わせて「ご馳走様でした」と言って、伝票と財布を手に席を立った。腕時計を確認。12:45。よしよし。帰りは全力疾走せずとも間に合いそうだ。

 レジに立つおばあちゃんに、「ご馳走様です」と言いながら伝票を渡す。

「うちも、キャッシュレス?言うんか?入れたんだよぉ」

 おばあちゃんが、先日までなかった小さな機械を手で示した。心の中で、最高!と喝采を上げながら、「じゃあ、これで」と、ICカードを見せた。おばあちゃんが、「はいよぉ」と言いながら、機械の操作を始める。途端に、不安がよぎる。おばあちゃんの手元が、実にたどたどしい。「ん?」とか「おかしいねぇ」とか「違った違った」とか言い始めたあたりで、冷や汗が流れた。

 会計に時間を取ってしまっていることに気まずさを感じたのか、おばあちゃんが、「そおんな靴で、ようけ毎日走るよねぇ」と言った。そんな靴とは、私の履いているヒールは低めのパンプスのことだ。

 雑談なんて良いから急いで!、という言葉は、胸の内の奥深くに、なんとかしまい込んだ。



 結局、帰りも全力疾走になってしまった。

 チャイムが鳴り終わると同時に倒れこむように席に着き、荒い呼吸を整えた。

「おなか痛い……」

「食後に全力疾走するからだろ」

 1時間前にすれ違った先輩が、呆れたように声をかけてきた。

「ほら。この決裁、こんだけ間違ってたぞ。付箋貼ってるから」

「おなか痛い……」

「月末だから、今日中に再提出な」


 先輩は私の嘆きは無視して歩き去る。


 私は、夕飯は何にしようかなあ、と、思いを馳せ始めていた。



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