ロング・ロング・ヘアー

浜能来

第1話

 GPA4.0。それは僕の預かり知らぬところで自慢となった、僕の自慢であるし、同時にやっかみのタネだ。

 厳密には3.6くらいなのだが、誰かが四捨五入したら4.0じゃないかと言い出し、別に嘘でもないので放っておいたら、勝手に僕のGPAは4.0になっていた。


「別に、普通にやっていただけだけど」


 噂に引き寄せられてきた同級生に、高い成績を出す秘訣を聞かれるたびにこう答えた。そして、嫌味なやつだと視線で返事をもらう。実際のところ、全ての科目を予習復習して、わからないところは質問に行き、全ての課題を期日通りに完成させ、提出しただけなのだ。もし、特別なことがあったとすれば。新入生歓迎会で悪評の聞こえてきた教授の講義だけは避けたという、それくらい。

 大学一年生の基礎科目なら、そう難しくもないはずだ。

 遊ぶために講義をフケるとか、夜更かししすぎて一限に遅刻するとか、なんだとか。そういうことさえなければ。


 要は、社会人として当然のことができればいいだけなのだ。


 きっとそれが難しいのだろうと、近頃思う。

 なんとかという流行病で大学の授業すら自粛されて久しいこの冬。二限にすら終了ギリギリで滑り込んでくる同期の名前が、視界の端に映り込んだ。通学時間すらない映像授業でこの時間ということは、きっと今起きたに違いない。

 真っ黒な彼の画面は、授業最後の出欠の時だけパッとついて、消えた。


「バカらしい」


 そんな彼と、僕の評価は同じになってしまう。

 この自粛期間、長いこと続いているが、いいことはひとつもない。無遅刻無欠席の価値は凋落し、教授への質問はしにくくなり、課題は増えた。

 講義が終わると、僕は素早くウィンドウを閉じて台所へ向かった。同期の面々が、今回の課題のカンニングの当てを探しているのを、スマホの画面で確認してしまうと、何か食べなければやっていられない。


 大学生でも借りられる安アパートだ。台所と居間に区切りなんてなく、立ち上がって背伸びをして、肩を揉みほぐしながら歩けばもう冷蔵庫の前。

 今日は何にしよう。無駄に家にいるものだから、すっかり自炊のレパートリーは増えている。


 しゃがみこんで冷蔵庫の中を漁り回していると、背後で脱衣所の扉が開く音がした。


「おつかれ」

「あぁ、お疲れ」


 ノートパソコンを抱えて出てきた同居人は、素っ気ない挨拶をよこす。彼女はこの自粛期間に入ってから、バイトをクビになったとかでうちに転がり込んできた、幼馴染という名の居候だ。

 だぼっとしたスウェットの上にとんでもない長髪を垂らす彼女は、その黒い艶やかをかきあげ、僕の後ろに顔を寄せた。


「何か作る?」


 彼女の囁き。同じ部屋で過ごしているのに、僕とは違うシャンプーの匂い。


「いや、何作ろうかなって」

「たまご」

「スクランブルエッグ?」

「目玉焼き」


 それだけの言葉を交わすと、僕の後ろからすらりと手が伸びてきて、卵を二つ掴んでいく。勝手知ったるという様子で彼女はガスコンロの前に立って、フライパンを温め始めた。

 目玉焼きなんて、そんなめんどくさいものをわざわざ作らなくてもいいのに。出てきそうになった言葉を飲み込んで、代わりに僕は後ろに置き去りにされていた彼女のノートパソコンを、片付けてやった。

 彼女は頑固なのだ。映像授業を受けるにあたって居間を譲ると言っても、居候だからと脱衣所の洗濯機の上にノートパソコンを置いているし、この昼食についても「居候だから」と一蹴されてしまうに違いない。


 手持ち無沙汰の僕は、冷蔵庫から昨日の残りのお米を取り出して、電子レンジにかける。お茶も入れよう。電気ケトルに水を注いでスイッチを入れる。

 隣ではちょうどフライパンを温め終わったようで、卵の下敷きとして入れられたハムがじゅうじゅうと音を立て始めていた。


 こつこつ、かぱっ。こつこつ、かぱっ。


 二つの目玉が仲良く並び入れられて、水を注ぐと共に蓋がされる。


「くぁ」


 気が抜けたのか、彼女は珍しく僕の前で欠伸をした。つい彼女の横顔を見つめてしまって、フライ返しの柄で顔をぐりっとされる。その姿がなんだか愛おしくて、僕は彼女の黒髪に手を伸ばしていた。


「なに」

「いや、何となく」

「何となくでさわらないで」

「じゃあ、触りたくなったから」

「せくはら。ぱわはら」


 口では散々に言うが、彼女のフライ返しはもう引っ込められている。

 彼女の髪を掬い、一本一本をくしけずるように。指の間を滑り抜ける感触はくすぐったく、万が一絡まりがあった時に彼女の地肌を引っ張ってはいけないから、それはもうじっくりと堪能していく。

 肩甲骨すら通り越して、腰にまで届きそうな彼女の髪。たまにくすぐったそうにする体の動きを見ていると、なにかイヤラシイことをしている気持ちにもなる。

 彼女の息遣いが、不思議と耳についた。


「ねぇ」

「なに?」

「そろそろ焼けるけど」

「……あぁ、そっか」


 彼女の言葉に意識を戻すと、台所の上には二人分の皿と塩胡椒が用意されていた。彼女のじっとりとした視線は、いい加減食卓を片付けてこいと言っている。

 名残惜しく指を引き抜いて、背を向けると、後ろから温かな香気が鼻をついた。フライパンの蓋を開けたのだろう。

 居間に置かれた丸テーブルから僕のパソコンを下ろして、ティッシュで簡単に拭く。彼女がそこに目玉焼きとご飯粒を持ってきてくれて、僕は入れ替わりに二人分の箸を持ってくる。


 自分の手元に、彼女の箸と僕の箸が並んでいるのを見ると、何だか可笑しかった。

 僕らは別に付き合ってもいない。恋人じゃない。お互い好きだと言ったことすらない。だのに、こうしてお箸は隣り合っている。


 彼女にお箸を渡そうと声をかける。振り返った時に揺れる彼女の髪も、もとはこんなに長くはなかった。同居し始めてから、僕が長髪が好きだと漏らしてから、「どうせ外にも出ないし」と彼女は髪を伸ばしている。

 こういう関係は、何と呼ぶのだろう。僕は考えながら食卓についた。

 向かい合い、二人で手を合わせて、いただきます。とりあえず、同じ釜の飯を食う仲ではある。

 テレビもなく、窓からも住宅街しか見えない退屈な居間だから。僕らは黙々と食事を進めた。


「そういえば、今日はバイト早いんじゃないの?」

「え?」


 目玉焼きの白身を箸先で小さく切り分けていく彼女が、ふと口にする。虚を突かれて、僕の思考は暫しフリーズしたが、やがて先週の会話が思い出される。

 バイト先の先輩がどうしても早退したいからと言うので、今日だけなら引き受けると言った気がした。二限が終わってすぐに家を出れば間に合うという算段で。


「早く行きなよ」


 呆れ顔の彼女は目を伏せて言う。

 僕は手元の皿に視線を落とした。最後の楽しみに取っておいた黄身が、僕を見つめ返す。彼女の作った目玉焼きは、黄身がとろとろの半熟になっていて絶品なのだ。


「いや、いいよ」


 これを食べないのはもったいない。


「え、うそ。ほんとに言ってる?」

「いやもう、どうせ遅刻だし。美味しいものをちゃんと食べてからの方がバリバリ働ける」

「……まぁ、あんたがそういうなら」


 どうせ、私は居候だし。

 彼女はそう言うと、お湯が沸きましたとスイッチの音で主張する電気ケトルに呼ばれて、台所へ行ってしまった。それに合わせて揺れる毛先を、僕は目で追いかけ。


 最近、時間をゆっくりに感じるなぁ。そう独り言ちる。

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ロング・ロング・ヘアー 浜能来 @hama_yoshiki

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