わたしだけの、おうち時間

ナツキふみ

わたしだけの、おうち時間

 今日は朝から落ち着かなくて、なんだかそわそわしてしまった。


「いってらっしゃい」と、夫に言った声は、いつもと違っていなかったかな。


 りくが急に「今日は幼稚園お休みしたい!」なんて言い出したらどうしようなんて、ちょっと心配もしたけれど、機嫌よく登園してくれてほっとした。


 時計を、見る。


 幼稚園にお迎えに行く時間まで、あと1時間半。


 このくらい、あればいいのかな……。


 わたしは、クローゼットの隅からを取り出した。


 すべすべとした手触りの、白い箱。


 きのう、宅配便で届いたばかり。


 テーブルの上に置いて、ふぅと息を吐き出した。


 なんだかどきどき、してきてしまった。


 A4サイズの紙を重ねて束にしたみたいな大きさの箱に、そっと手をかけて、あけてみる。


 中には、1冊の本と、ちいさな紙の包み。

 その上に、1枚、メッセージカードが添えられていた。


『素敵なおうち時間を、お過ごしください』


 見知らぬその人の書いた文字は、すっと流れるようなきれいな線で書かれていて、どこかあたたかみを感じるものだった。


 この本を、作ってくれた人の、メッセージ……そう思うと、なんとなくじっとそのカードを見つめたくなってしまう。


 由香ちゃんのママに「あのね、内緒なんだけど……」と、そっと教えてもらった、ハンドメイドサイトにときどき現れる、作家さん。

 いつもは【お休み中】になっているのに、頻繁にサイトをチェックして【オーダー受付中】の文字を見つけたときには、心臓が飛び出すかと思うくらい、嬉しかった。


 由香ちゃんのママの話も、正直半信半疑だと思いながら聞いていたのに、だんだんと、どうしても自分で手にとってみたくてたまらなくなってしまった。


 いま、がわたしの目の前にある。


 メッセージカードをそっと脇に置き、箱のなかの本を、手にとった。

どきどきして、指が、ふるえてしまいそう……。

 

 布張りされた本の、さらっとした表紙の感触が、心地よかった。


 テーブルに置いて、見つめ、そっと開いてみる。


「わぁ……」


 思わず、声が、こぼれた。


 本を開くと、そこには精巧に作られた紙の家が、立体となって現れる。


 花でいっぱいの庭。


 草木にかこまれたその中に建つ、ログハウスみたいな見た目のおうち。


 リビングには、大きな掃き出し窓がついていて、そこから庭へと続くウッドデッキが備えられている。


 あたたかい陽のひかりが入ってきているみたいに、リビングは、ぽってりと明るい色で塗られていた。


 可愛らしい色の、小物が並ぶキッチンや、おおきな暖炉。


 何もかもが、わたしの好みで、作家さんに伝えたイメージそのまま……いや、想像していた以上に、素敵だった。


 うっとりとその家を眺めて、それから、この仕掛け絵本に同梱されていたちいさな紙の袋をかさりと開いた。


 中には、ティーバッグが、1、2、3……数えてみると7包、入っていた。


 これも作家さんオリジナルのハーブティー。

 このお茶にこそ、秘密がある。


 わたしは、いそいそとティーバッグを取り出して、お茶を入れた。


 ふわっとかぐわしい香りが、ひろがる。


 仕掛け絵本を開いたまま目の前に置き、わたしはそのお茶を、口もとへと運んだ。


 初夏の緑を思わせるような、爽やかな香り。

 それから、花のような甘い香りも、かすかに感じられる。


 どきどきしながら、そのお茶を、口に含んだ。


――次の瞬間。

 ぐわんと、何かに引っ張られるように意識が遠くなり、ぷつりと記憶が途切れてしまった。


 目を覚ましたとき、最初に耳にしたのは、パチパチと暖炉の火が燃える音。


 わたしは、そっと目をひらく。


 丸太で組まれた部屋。

 大きな窓のそばの陽当りのいい場所で、わたしは、ゆらゆらとロッキングチェアに座り、揺れていた。

 ほほにじんわりと陽が当たって、あたたかい。


 また、パチパチっと暖炉の音が耳に届く。


 わたしは立ち上がり、周りを見渡した。


 広く、手入れの行き届いた花が咲く庭。

 やわらかく火が燃える、暖炉。


 まさにあの、仕掛け絵本そのままの家のなかにわたしは、いた。


「……ほんとう、だったんだ」


 思わず呟いた言葉は、他の誰もいない、たっぷりとした空間にやわらかく溶けて、消えていった。


 なんて、静かなんだろう。


 そう思った瞬間、びりびりと胸を痺れさせるような嬉しさが、身体の奥から込み上がってきた。


 ここは、わたしだけの場所。

 何をしても、どう過ごしたっていいんだ。


 リビングルームの床は、塵ひとつ落ちていない。

 素足で触れると、さらさらとした木の感触が心地よかった。


 部屋全体が、ふんわりと木の香りに満たされてる。


 掃き出し窓を開け、ウッドデッキに出てみた。

 庭に咲く、花の香りがする。

 わたしがすきな、沈丁花じんちょうげの香りも。


 空はどこまでも蒼く、澄んでいて、ひろい。

 めいっぱいに空気を吸い込みたくなって、何度か深呼吸をした。


 花の香りをまとう空気が、わたしの内側を満たしていく。


 それから、キッチンでコーヒーを淹れた。

 マグカップも、お湯をわかすポットの色も、わたしの好みにぴったりで、嬉しくなる。


 リビングの一角は本棚になっていて、そこには、わたしがワクワクするような本たちが、ぎっしりと詰められていた。


 わたしはうきうきした気持ちでその本棚を眺め、そこから、一冊の本を取り出した。


 リビングの真ん中に据えられた、大きなソファにゆったりと寝転んで、本をひらく。

 色とりどりのクッションに、うずまるようだった。


 それは女の子が、冒険をする物語だった。

 絵本でもなく、育児書でもなく――自分のためだけに”物語”を読むだなんて、本当に久しぶりだった。


 大きなソファの上で、わたしは寝そべったり、座ったり……ときどき体勢を変えて、ちびちびとコーヒーを飲みながら、本の世界に没頭した。


 たっぷりと奥行きのある物語を、ヒロインの女の子に寄り添うように進んでいく。


 まるで宇宙のなかにぽつんとひとり、佇むような孤独も、静けさも。

 どきどきと高鳴る胸の鼓動も。

 ずっと遠くの光を見つけて、まっすぐに突き進んでいくような、切ない想いも。


 今はすべてが、わたしひとりのためのものだった。


「ああー!面白かった……!」


 そういってぱたんと本を閉じたとき、気づいたらもう、夕暮れだった。


 窓のそばへ行くと、空はもう、オレンジとすみれ色が混ざったようなグラデーションに染まっていた。

 桃色の雲が、浮かんでいる。

 空の高いところはもう暗く、夜の気配がひろがりはじめていて、きらりと一番星が光るのが見えた。


 澄み切った空の色は、いつまでもいつまでも見ていたいと思うくらい、綺麗だった。


――ピピピピ。ピピピピピ。


 アラームの音にはっとすると、わたしは、いつもの自分の家の、リビングにいた。


 いつもと、何も変わらない景色。

 目の前には仕掛け絵本が開かれたまま置かれていて、手に持ったカップの中身は空になっていた。


「……あ。迎えに、いかなくちゃ。」


 あわてて立ち上がる。カップを片付けて、本をぱたんと閉じたとき、胸のなかにふわわっと込み上がるものが、確かに、あった。

 満足感。充足感。……いろんな言葉で、言い表せそうな気がするけれど、そのどれとも違う気が、する。

 わたしだけの、大切な気持ちだった。


 そっと丁寧に、本と、ティーバッグの入った包みを箱にしまう。


 箱はまた、クローゼットの隅へひっそりと片付けた。


 ……これは、わたしだけの、ひみつ。

 もしかしたらいつか、夫や子供に、話すかもしれないけれど。

 今は、まだ。


「さて、と」


 手早く、りくを幼稚園に迎えに行く準備をした。


 午前中のうちに、キッチンは綺麗に片付けてあるし、床に散らばってしまっていたりくのおもちゃも、お行事よくあるべき場所へ収まっている。

 きっと、帰ってきたら1時間もしないうちにまた、たくさんのおもちゃがあちらこちらに転がるだろうけど。


 シチューの仕込みもできているから、お夕飯は、だいじょうぶ。


 わたしは、帰ってきてからの手順や、夜にりくを寝かすまでにやるべくことをなんとなく頭に思い浮かべながら、もう一度、ぐるりと家のなかを見渡した。


 わたしと、家族の、大切な家。


 ここでの日々を、今のこの生活につながる道を、わたしはひとつひとつ、自分で選んできた。


 だからここは、とても大切で、愛しい場所。

 何よりも、大事で、守りたいもの。


 だけど、ときどき、ちょっぴりだけ……あの場所で「わたしだけの、おうち時間」を楽しんでも、いいよ、ね?


 玄関で靴を履きながら、あのハーブティー、なくなっちゃったら確かリピート購入できたはずだけどいくらだったかなぁ……あとで調べてみなくっちゃ、なんて考えて。


 ああそうだ。

 由香ちゃんママに、試してみたよって伝えよう。

 ありがとうって言わなくちゃ。


 ふと、あの不思議な場所で吸い込んだ、花の香りをまとう空気が、鼻先によみがってきた気がした。


 くちびるに笑みをうかべて、わたしは、玄関の扉をひらく。


 さて。――いってきます。



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