おうちでゆっくり話をしよう、ケーキでも食べながら

今福シノ

短編

 在宅勤務が増えて喜んでいる人なんて、本当にいるんだろうか。


 もちろん、一定数の人がそう感じているのは理解している。通勤ストレスが減っただの、上司と顔を合わせなくていいだの。だけどそれは全部テレビ画面の向こう側の話――ワイドショーのインタビューで目にするだけで、俺の住んでいる世界には実在しないんじゃないかと思ってしまう。


「ちょっとパパ!」


 ママの声が響いてきた。在宅とはいえ仕事中なことなどお構いなしといった風に。俺が寝室(やむなく仕事部屋を兼ねることになった)の扉を開くと、


「みーちゃんを送ってくるからその間にお風呂掃除しておいてって言ったでしょ?」

「さっきまでWeb会議だったんだよ」


 Zoomが終了したばかりのパソコン画面を指して答える。が、それで引き下がってくれるような相手ではないことは、結婚してからの3年間でいやというほど味わっていた。


「そんなこと言って、会社に行ってないんだから、少しは家のことも手伝ってよ」


 そして一度機嫌を損ねると、俺が何を言ったところで効果がないことも。


「わかった、あとでやっておくから」

「ちゃんとやっておいてよ? 私だって忙しいんだから」

「わかったよ」

「それと私、今日は夕方までパートだから、お昼は適当に済ませてね」

「ああ」

「それから、みーちゃんのお迎えも忘れないでよね」

「大丈夫だって。5時に保育園だろ――」


 バタン。玄関が閉まる音。それは俺の言葉が最後まで届かなかったことを意味していた。


「はあ」


 静けさを取り戻した家に、俺の吐息だけが沈殿ちんでんしていく。

 部屋に戻って仕事を再開――する前に、俺は風呂場へ向かった。風呂掃除だ。

 スポンジに洗剤をつけて、一心不乱に浴槽を洗う。ごしごし、ごしごしと。


 突如として訪れた自粛の波。そんな風潮の中、俺の勤める会社もご多分に漏れず、こうして在宅勤務――いわゆる「おうち時間」が増えたわけだが。


「うまくいかないもんだな……」


 どうやら俺の場合は「在宅勤務が増えてやったぜ!」の部類には当てはまらないらしい。


 理由のひとつは、仕事の形が変わったのに今までと同じ成果を求められること。

 今こうやって風呂掃除にいそしむことになったりと、家にいればほかのことに否が応でも時間をかれることになる。それなのに締切は変わらず、そんな都合よく仕事などできるわけもないのに。


 もうひとつは――家族のことだ。

 いきなり一緒にいる時間が増えたのだ。正直、戸惑いの方が勝っていた。これまで家に帰るのが遅くて休日くらいしかまともに話すことがなかったから、どう会話していいのかわからなくなってしまっている。

 さっきみたいにイライラされて言い返したくなっても、黙って聞いてやり過ごせばいいか、なんて安易な方に流されているし。


 昔はちょっとすれ違いがあっても、好きな食べ物で仲直り、みたいに簡単だったのに。いつまでも若いころのようにはいかないってことか。


「はあ」


 再びため息。だけど今度は沈んでいかず、洗剤の柑橘系の香りと一緒に俺の周囲をまとわりつき、漂っている気がした。



 * * *



「すみません、少し遅くなりました」


 急きょ舞い込んだ仕事に四苦八苦してしまい、保育園に着いたのは5時を少し過ぎてしまっていた。

 いくら在宅勤務とはいえ、この調子じゃ保育園に預けずに仕事のかたわらで面倒を見る、なんて選択肢は夢のまた夢だな。


「斎藤さん。いえいえ、大丈夫ですよ」


 若い保育士さんは柔らかい笑みで応えてくれる。すると、背後からにょきっと小さな影が出てきて、


「あっ、パパ」


 みーちゃんが顔をほころばせる。


「いい子にしてたか? それじゃあ帰ろうか」


 チャイルドシートに乗せてから保育士に礼を言い、保育園を後にする。


「……」

「……」


 車内は控えめの音量にしたラジオが細々と流れるだけだった。迎えにきたのが俺じゃなかったら、もっと楽しそうに今日あったことを話してくれたりするんだろうか。

 会話のない空間、後ろ向きな気持ちを無理やり取り払うべく、俺は思いついたことを口にする。


「そうだ、ケーキでも買って帰るか」

「ケーキっ!?」


 ころりと表情が変わった。姑息こそくな手だなと思いつつも、向けてくれる笑みにうれしくなる。


「たべたいっ」

「よーし」


 ハンドルをきり少しだけ寄り道。向かったのは、おしゃれな外観の洋菓子店へ。店があることは前から知っていたが、入るのは初めてだった。

 俺たちを迎えてくれるのは、まさに色とりどりのケーキが並んだショーケース。


「どれがいい?」

「んーっとね……これ!」


 少し迷ったあと、みーちゃんは元気よく指さす。

 その先にあるのは、モンブランだった。


「みーちゃん、モンブランが好きだったっけ?」

「んーん」


 みーちゃんは首を振る。


「これは、ママの分!」

「ママの?」


 たしかに好きなケーキだったと思うが。


「あとね、これ!」


 首をかしげる俺をよそに、今度は隣にあるチーズケーキに指を向けた。俺は好きだけど、娘が好んで食べる種類ではないはず。


「これたべてげんきだして?」

「え?」


 すると、少しだけ顔を伏せて、


「パパがおうちにいてくれるのに、パパもママもげんきないから……ケーキたべたら、たくさんわらってくれるかなって……」

「みーちゃん……」


 まったく、俺は何をしてるんだか。

 自分のことばかりで、まだ小学生にもなっていない娘に心配をかけさせるなんて。


 だけど同時に、うれしくもあった。

 小さかった娘がいつの間にか、人を思いやれる子に成長していたのだ。

 そしてそれは、俺が家にいない間ずっと面倒を見てくれていた、彼女のおかげなのだ。


「ありがとう」


 俺は優しく頭をなでる。


「よし、それじゃあモンブランにチーズケーキ、買って帰ろう」

「うんっ」

「でもみーちゃん、いいの?」

「え?」


 かわいらしくもあるきょとんとした表情に、俺はにやりと笑って、


「みーちゃんのほしいケーキ、言わなくて」

「あっ、まって! いまかんがえるから! ちょっとまって!」

「あはは、はいはい」

「わたしこれにする! いちごしょーと!」


 帰ったら、話をしよう。

 せっかく「おうち時間」が増えたんだ。いくら話しても時間は十分にある。子どものこと。保育園のこと。それから、お互いのこと。

 お互いに、向き合って。時間をかけて、話すんだ。


 その夜、俺たち家族はひとりふたつずつ、ケーキを食べた。

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