冬の時代

渦黎深

第1話

冬、私がまだ明蕾と同じくらいの年の頃、私は仕事から帰ったばかりの父に抱きついて、父と、父の真っ黒なコートが纏っている冬の夜気を胸いっぱいに吸い込むのが好きだった。それは効き過ぎた暖房で火照った体に心地よく、凛とした気をみなぎらせてくれた。冬があまり好きでなかった私にとってこの儀式は数少ない冬の楽しみだった。意地悪な冬が父の力によって征服されたような妄想をしながら、私はその匂いを楽しんでいた。

出勤中、冷たい風にたなびいたコートを見てそんなことを思い出した。

除菌室、エントランスを経由してオフィスに入ると、すでにおおかた出社してきていた同僚たちは皆揃って浮かない顔をしていた。

「知ってるかもしれんが、また新しいのが出たらしい。今年は多いな」

「もう驚かんさ、また腕に新しい穴を開けるだけだ」

「でも君は心配だろう。ほら、その……」

 気のいい同僚は伏目がちになり、言葉を濁した。

「明蕾のことなら心配いらんよ、私が気をつけていさえすれば問題ない」

「そうか。何かあったら言ってくれよ。出来る限り力になる」

「ありがとう。でも大丈夫だ。なんせ我が家の除菌室は超高性能だからな」

 努めて明るく言った私の言葉を聞いて、同僚はほっとしたように目に笑みを浮かべ、仕事に戻っていった。

 人類が積極的に内に篭るようになって以来、免疫不全をもって生まれてくる子どもが増えたと聞く。過度の滅菌が関連していると指摘する研究者が大勢を占めているが、正確な原因は明らかになっていない。明蕾は生まれつき体が弱かった。予防接種にも耐えられない体ではほとんど外に出ることもできず、学校を含めた、ほとんど全ての交友関係をオンライン上ですませている。

 玄関を開け除菌室に入ると頑丈なコートをすぐさま脱ぐ。そのまま残りの服を除菌機に放り込み、全身を除菌した後、除菌済みの部屋着に着替えて除菌室を出て家に入る。

「おかえり、父さん」

廊下の壁に取り付けられたスクリーンから声がする。飯にしようと声をかけると返答を待たずにリビングに向かった。 

「今日は学校でねぇ————」

食卓ではいつも通り他愛もない会話をした。私にとってこの時間はもっとも大切なものだ。   

コミュニケーションのほとんどをオンライン上で行う明蕾の会話方法は口調こそ子供らしいが、リズムが老成している。矢継ぎ早に捲し立てることもなければ、こちらの発言を途中で遮ることもない。身振り手振りも控えめで、極力言葉だけで意志を伝えようとする。     

これは明蕾たちのようなリモートネイティブ世代に顕著なんだと、同じく子を持つ同僚が言っていた。より性能の良い通信機器を使えば実際に対面しているようなコミュニケーションが可能なそうだが、私の収入では明蕾の健康を保つだけで精一杯だった。だから私は、明蕾が実際に体温と裏切りを感じることができる数少ない相手として積極的に対話をする。

夜半、私はベッドの振動と不快な警報音に叩き起こされた。明蕾の部屋に入るとベッド脇の液晶が警告を発していた。熱が39度を超えている。当人は液晶よりも顔を真っ赤にさせ、玉の汗をかいて、苦しそうな呼吸をしていた。

私は大急ぎでかかりつけの病院に電話し迎えを呼んだ。数分後、一時的に除菌室と接続された救急車に明蕾は運び込まれた。救急隊員は私に患者以外は乗せることができないので、自分で来るようにという旨を伝え、走り去った。私は自家用車に飛び乗りエンジンをかける。いつの間にか降り始めていた雪がフロントガラスにうすく、うすく、うすく……

病院に着くとすぐに主治医に呼ばれた。

「お子さんは大丈夫ですよ。もう落ち着いています。今は向こうの部屋で寝ていますよ」

私は心の底から安堵の息を吐いた。

「それと、同時に軽い検査を行いましたがね、免疫治療の効果が出ています。来年の春ごろには段階的に外に出られるようになるでしょう」

 部屋を出ると廊下の先の窓の近くに明蕾が立っていた。窓の外では勢いを増した雪が夜の闇を反転させている。明蕾はじっと雪を見つめていた。

「明蕾」

私に気づいた明蕾は窓と私とに交互に顔を向けながら手招きした。

「パパ見て。ご飯の時に言い忘れたけど、雪の中にはねぇ、華が咲いてるんだよ。今日先生が教えてくれた」

 明蕾の視線の先では窓に張り付いた雪の結晶が複雑に重なり合い、この世に存在しない華を作り出していた。それは風が吹くたびに万華鏡のように変化した。

「触りたいか?」

明蕾は遠慮がちにうなづいた。「でも無理だよね。また父さんに心配かける」

 わたしは小さな体を抱きしめた。

「明蕾が頑張ったからな、来年の冬には外に出てもいいって」

「ほんとう?でも、外はちょっとこわい」

「ゆっくり慣れればいいさ。来年も再来年も、きっと雪は降る」

 明蕾は大きく呼吸した。胸元に感じる息がこそばゆかった。

「父さん、いい匂いする」

「そんなはずない、病院に入ったときに除菌したし」

 明蕾はかぶりかぶり言った。

「ううんするよ。多分、冬の匂い」

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冬の時代 渦黎深 @atuwasabibi

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