僕のおうち時間はいつもやり直し

兵藤晴佳

第1話

 ひとつの戦いが、また、終わった。


「パルチヴァール、起きなさい」

 部屋いっぱいの白い光の中で目を覚ますと、清らかな川の流れのような青い髪に櫛をかける女の人が、寝椅子にもたれて僕を見つめていました。

 澄んだ瞳の向こうには、どこか別の世界が透けて見えそうな気がします

「パルチヴァール? それが僕の名前なの?」

 真っ先に気になったのは、僕が誰かということです。

 目を覚ましたということは、それまで眠っていたということで、それはどこかで寝てしまったということで、寝てしまったということは起きていたときがあるということです。

 ところが、僕は「起きていたとき」のことをすっかり忘れていました。

 自分が何者か思い出そうとしてもできませんし、思い出そうという気も起こらないのです。

 ただ、清々しい気持ちでパジャマ姿のままベッドから跳ね起きると、その勢いで床に飛び降りてみました。

 女の人は、くすくす笑います。

「危ないわよ、パルチヴァール」

 すってんころりと転がりそうになって、何か魔法にでもかけられたんじゃないかという気がしました。

 眠っている間に、背の高さがベッドくらいしかない子どもにされたんじゃないかと。

 だから、尋ねてみました。

「君は、誰? 僕のおかあさん?」

 いちばん手っ取り早いところから確かめてみることにしたのです。

 ところが。

「今何て言った? あ?」

 そのきれいな女の人のきれいな顔は、瞬く間に鬼か悪魔のものに変わりました。

 ここはしらばっくれるに限ります。

「僕のおねえちゃん? って聞いたんだ」

 怖い顔は、お姉さんの優しい笑顔に変わりました。

「私はリュカリエール。あなたの永遠の恋人」

 恋?

 子どもにとって、こんなに恥ずかしくて恐ろしい言葉はありません。

 僕は慌てて、見るからに丈夫そうな扉めがけて走り出しました。

 後ろからリュカリエールが、ものすごく怖い声で呼び止めます。

「待ちなさい!」

 思わず立ち止まると、まだ夢の中にいるかのように、どこからか聞こえる声があります。


 ……おうち時間を過ごしましょう。

 そのときでした。

 僕の頭の中に浮かんだ、別の女の人の姿がありました。

 温かい夕闇の中で、ほのかに光るヴェールに包まれた、優しい顔立ちの……。

 どこからか聞こえるのは、その人の声のようでもありました。

 でも、いったい、この人は何を言っているのでしょうか。

「おうち時間ってなあに?」

 振り向いてリュカリエールに聞いてみると、真面目くさった顔で答えてくれました。

「おうちと同じ時間のことよ。起きたいときに起きて、寝たいときに寝ればいいの」

「じゃあ、遊びたいときに遊んでいいんだね」

 僕は理屈をこねて外へ飛び出しました。


 気持ちのいい、ひんやりした朝の空気の中を僕はパジャマ姿のまま走っていきます。石畳の歩道もアスファルトの道路も、どこまで続くのかは分かりません。

 そのうち、おかしなことに気が付きました。

 広い道の両脇にそびえる高い建物からして、ここは大きな町のようです。

 それなのに、外に出ているのは僕しかいません。

 遠くにそびえるひときわ高く、大きな厳めしい建物への道は、がらんとして静まり返っています。

 見れば、それほど大きくない道端の家々は、円い筒を縦に切って伏せたような形をしています。

 不思議なのは、どの家にも窓がないことでした。僕の目覚めた家は朝の光で一杯でしたが、他の家はどこも真っ暗闇なのでしょうか。

 それに気付いたとき、また、あの声が、聞えてきました。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 僕の頭の中にまた、あの女の人の姿が浮かびました。

 何だか、胸の内が温かくなってきましたが、それでいて、苦しいのです。

 きゅうっと、締め付けられるように。

「プシケノース?」

 頭の中に閃いた言葉を口にしたとき、僕の身体はすくみました。

 その場にしゃがみこむと、懐かしい、それでいて何か切ない気持ちで身体がいっぱいになってくるような気がします。

 そこで、僕を呼び止める声がしました。

「やっと見つけたわ、パルチヴァール」

 駆け寄ってきたのは、青い髪をたなびかせた、あの美しい女の人です。

 僕は逃げてきたはずなのに、息をするのもやっとになってみると、どうしても助けを求めずにはいられませんでした。

「苦しいよ、リュカリエール」

「大丈夫、大丈夫よ……もう、外へ出ちゃダメ」

 しなやかな腕と柔らかい身体が、すがりつく僕を包み込んでくれます。

 高鳴る胸は次第に収まってきましたが、あの女の人の姿は頭の中から消えません。

 リュカリエールの腕の中で、僕は尋ねないではいられませんでした。

「どうして? どうして外へ出ちゃダメなの? あの声は、誰の声? あの人? プシケーノスっていう人?」

 最後の一言を口にしたとき、僕の身体は引き剥がされました。

 あの、美しいけど恐ろしい顔が、じっと見つめてきます。

「いい子は、むやみにものを尋ねるものじゃないわ」

 そこで突然、リュカリエールの目に光るものが浮かびました。

 それは涙でした。

 もう、知らん顔はできません。

「……分かった。ごめんね」

 逆らうのは、やめにしました。

 その手に轢かれて、僕のうちへと歩いていくことにします。

 でも、頭の中からは、あの女の人の声と姿が消えることはありませんでした。


 ……おうち時間を過ごしましょう。


 その日、僕とリュカリエールは家の中で、僕たちだけの時間を好きなように過ごしました。

 一緒にご飯を作ったり、家の中を掃除したり、たわいもない話をして笑いあったり。

 でも、外で何が起こっているのか、どうして街にはだれもいないのか、聞くのだけはやめにしました。

 彼女の、あんなに悲しい顔を見るのは嫌だったからです。

 それなのに、知りたいことをどうしても知らないではいられなかったのもまた、本当です。

 すっかり日が暮れて暗くなって、僕たちは早めにベッドへ入りました。

 今朝は寝椅子でまどろんでいたリュカリエールは、僕をしっかりと抱きしめます。

「どこへも行っちゃダメよ……わたしのそばにいて」

 そう囁きながら、いつのまにか先に寝息をたてているのでした。

 だから、僕は本当にいけない子です。

 ベッドの中でひとり目を覚ましているうちに、プシケノースに会いに行かないではいられなくなったのです。

 僕はこっそり、家を抜け出しました。街灯の光をたよりに、あの巨大な建物に向かったのです。

 誰もいない夜の道は、日が昇っている時にくらべて、闇がしっとりと身体になじんでくるような気がします。それを感じると、僕の身体の中で何かが変わってくるような気がしました。

 何か燃え上がるものを心に秘めているのがどうにも重苦しく、僕は服を手当たり次第に、ゴミひとつ落ちていない街に放り出していきます。

 やがて、僕の眼の前には、夜闇そのもののように真っ黒なものが立ちはだかりました。

 

……おうち時間を過ごしましょう。


 あの声は、確かにここから聞こえます。僕は思い切って、その巨大な暗黒の中へと駆け込んでいきました。

 まるで自ら招き入れようとするかのように、その建物は扉を大きく開いたのです。

身を躍らせて飛び込んだ暗闇の奥に、小さく光るものがあります。駆け寄ってみると、透明なガラスの棺がありました。

中にいるのは……。

「プシケノース」

 その名を呼んだとき、僕は初めて、自分の身体がもう子どもではないのに気付きました。棺のガラスには、僕の姿が映し出されています。

「とうとう、見つけてしまったのね……」

 振り向くと、そこにはリュカリエールがいました。

「ごめん……」 

 ついうつむくと、頭の上から僕を叱る声が聞こえてきます。

「知りたいことがあれば、聞いたらどう? でも、聞いたらあなたは、また子供のまま、無垢な記憶と共にベッドの中で眠ることになるわ」

 どうしたらいいのでしょう? やはり諦めるしかないのでしょうか。このプシケノースが何者か分からないまま、勝手気ままな「おうち時間」を生きるしかないのでしょうか。

「そうだね、むやみにものを尋ねちゃいけないよね」

 知らないでいるのは、幸せなことです。子どものまま、リュカリエールと一緒に同じような毎日を過ごすのも悪くはありません。

 でも、それには飽き足らない自分が今、ここにいました。

 傷ついてもいいから、知りたいことがあったのです。

「プシケノース! これがあなたの名前ですか? あなたは、何者ですか? 私にとっての何なんですか?」

 それは、私自身を問うことでもあった。

 パルチヴァールとは、本当に僕の名前なのか? 彼女から見た僕は、何者なのか? 彼女にとっての何者なのか?

 そのときでした。


 僕の視界で光の幕が弾けて、全てが明らかになった。

「原子炉が……暴走している?」

 思い出した。

 この町は、原子炉の暴走に晒されている。これを止められるのは、この宇宙でもぼくだけだ。原子・電子の操作から自分の肉体年齢のコントロールまで自由にできる。人知を超えた力が僕にはあった。だが、暴走の規模は意外に大きく、僕は強い放射線にさらされて、いつ死んでもおかしくない身体になってしまったのだった。

 放射線障害の進行を食い止める方法はただひとつ。身体を回復力の高い子供に戻すしかない。ただし、記憶はリセットされるが。元にもどるスイッチは、不思議なことへの質問だ。

 プシケノースとリュカリエールはというと、僕のパートナーだった。

 プシケノースは、自らが制御装置となって原子炉の暴走を食い止め、リュカリエールは子どもになった僕のお守りをすることになったというわけだ。

 リュカリエールがぼやく。

「あーあ、またやり直しか……いいわ、パルチヴァール。また添い寝してあげるから」

 プシケノースは、制御装置の蓋を開けて、文句を言う。

「今度は私の番だからね、リュカリエール」

 僕は睨み合う二人を交互に見やりながら、きっぱりと言った。

「どっちでもいい! 住民が気付かないよう自宅退避させて。それから僕のお守り、頼んだぞ」

 僕に恋する二人の美女が不敵に、そして妖艶に笑う。

 さあ、これからが本当の戦いだ。

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僕のおうち時間はいつもやり直し 兵藤晴佳 @hyoudo

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