第22話 再会

 ぼんやりと浮かび上がる提灯の灯りが、持ち手の下顎から胸元までを淡く照らす。こわばる肩はちいさく、丸みを帯びたやわらかい曲線。本間米屋のひとり娘──こいとは、足音を忍ばせて、月明かりも細々と心許ない宵闇のなかを駆けてゆく。

(はやく。はやく。──三郎治さまを助けて。たすけて、無慚さまッ)

 こうなったわけは突然のことだった。

 時は、岡部を見送ったあとまで遡る。


 おもえば、岡部が帰る間際からおかしかった。三郎治はずっと薄ら笑いを浮かべ、岡部を見送ったのちもへらへらと焦点の定まらぬようすで、微動だにせず。

 あのう、と声をかけると、彼は五、六回ほどまばたきを繰り返して、やがてこっくりとうつむいた。それからすぐに顔をあげた彼は、こいとを見るやたちまち顔色を変え、逃げるように駆け出したのである。野田村とは別の方向へ。

 尋常ではないようすに、こいともおもわず駆け出した。物騒な世情は承知だが、あれほど蒼い顔をした彼を放っておけるわけもなし。

 淀川の向こう側。

 懸命に駆けたこいとが三郎治に追い付いたのは、この辺り。以前父親に、

「この付近には廃寺がある。不逞な輩が潜んでおるから近づくな」

 と言われた。

 いまおもえば、ここは無慚がかつて育った慈光和尚の持寺だったのであろう。思いがけずたどり着いた場所に、こいとの胸はじんと熱くなる。が、それに浸る余裕はない。

 三郎治は廃寺本堂内にいた。

 本尊の前に身を投げ出し、しきりに念仏を唱える。その身は遠目から見ても分かるほどふるえており、こいとはすかさずそばに寄った。

「三郎治さま、三郎治さまッ。お気をたしかに!」

「あ。あ。あ──こ、こわい。怖い」

「三郎治さま!」

「な、南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏──ダメだ、だ、誰。だ?」

「三郎治さま、こいとです。大丈夫、此処は大丈夫ですよ!」

「こ、こい。と、こいと」

「三郎治さま?」

「…………こいとちゃん」

 三郎治がパッと顔をあげる。その表情はこいとのよく知る精悍な彼そのものであった。よかった。気が触れたわけではなかった。と、こいとがホッとするも束の間。

 彼は必死の形相でこいとの腕を掴み、さけぶ。


「はよう逃げェ、やつがくる!」

 

 と。

 同時に強く突き飛ばされたこいとは、本堂入口前に尻餅をつく。ふたたび三郎治に近寄ろうと腰を上げるが、彼がそれをゆるさなかった。

「こいとちゃん、たのむ。無慚の兄貴を──兄貴を呼んできてくれ」

「さ、三郎治さま──」

「やつがくる。こいとちゃんは此処から逃げェ。はよう、はよう!」

「三郎治さまは!?」

「俺がなんとか留め置く。はよう兄貴を! ええ加減兄貴に──裁いてもらうんやッ」

「…………む、無慚さまを呼んでまいります」

 だから、とこいとはさけぶ。

「三郎治さま。こいとが戻るまで、しばしのご辛抱を!」

 身を翻し、駆け出した。

 夜の帳。闇が迫る。怖くて胸が張り裂けそうだった。それでもこいとは駆けた。道中、捨てられた提灯を見つけて拾う。物は意外にも新しく、火をつけるとすっかり使い物になった。

(無慚さま。無慚さま!)

 どこにいるだろう。

 彼はたしか、惣兵衛とともに天満宮の方へ向かったはず。あれからだいぶ時間が経ってしまったが、まだいるだろうか──。

 にゃあ。

 声が聞こえた。猫?

 うしろからだ。振り返る。瞬間、こいとは腰が抜けた。

 猫。猫。猫。

 こいとの背後をたち塞ぐように並ぶ野良猫が、闇のなかで瞳を光らせ、みな一様にこいとを見つめていたからである。彼らはにゃあ、にゃあと一斉に鳴き出すと、これまた一斉に反対方向へと駆け出した。縦列に連なる猫の道は、まるでこいとを導くかのよう。

 ごくりと息を呑み、最後尾の猫のうしろにつく。この方角は天満宮ではない。西町奉行所のある方だ──。

 それからまたしばらく駆けた。

 けれど今度はこわくなかった。猫たちがともにいる。彼らがきっと無慚のもとへ連れていってくれる。

 アッ、と。

 足がもつれた。体勢を崩し、顔から地面へ倒れ臥さんとしたときである。ガッと腕を掴まれた。それからやさしく抱き留められた。ふわりと薫る白檀の香。この薫りには覚えがある。

 こいとはいまにも泣きそうな目で、見上げた。

「もう──もう、この人でなし~ッ」

「なんだ。この人騒がせのお転婆め、出会い頭に失礼なこと言いやがって」

 無慚がいた。

 とは言いつつも、こいとを見下ろす瞳の優しさに絆されて、こいとは一気に腰が抜けてしまった。安心感と疲労感で、がくがくと膝がふるえる。

 おまけに涙までこぼれてきた。

 みるみるうちに涙にまみれるこいとに、無慚は苦笑する。

「ようく頑張ったじゃねえか。エッ、本間米屋」

「こ──こいと、やもんッ。う、ッヒグ」

「わかったわかった。ったくしょうがねえ。岡部、今度こそきっちり家のなかまで送ってこい」

「心得た」

「待って!」

 と。

 こいとは涙をぬぐい、立ち上がった。

 ふるえる膝を叱咤して無慚の腕に掴まり、さけぶ。

「うちまだ帰られへん。三郎治さまに無慚さま連れて必ず戻るって約束したんや!」

「分かってる。だからおれはこれから三郎治の元へゆく。だがお前さんはさっさと帰ェるんだよ」

「イヤ。私、帰らへん。無慚さまといっしょに行く。ぜったいぜったい。絶対!」

「…………」

「ゼッタイ!」

 と。

 聞く耳持たぬこいとに困惑し、無慚はちらと惣兵衛を見た。彼は肩をすくめてすっかり諦めているようす。

 それから、無慚が折れるのは早かった。

「分かったよ。だがひとつだけ、このおれと約束しろ」

「はい」

「──ゼッタイ、おれから離れるなよ」

「…………ッはい!」

 こいとは頬を染めてうなずいた。


 ※

 狐憑きィ、と。

 岡部がすっとんきょうな声をあげる。

 廃寺までの道中で無慚が語るは、妖怪変化や怪奇噺が嫌いな岡部にとってひじょうに腹立たしいものであった。

 ──犯人には三つの顔がある。

 ──ひとつは、女を誑かす『徳兵衛』の顔。

 ──ふたつは、誑かした女をころす者の顔。

 ──みっつは、普段の澄ました人の顔。

 ──これは狐の仕業かもしらん。

 と。

 突飛な意見にすぐさまあり得ない、と言いかけて、岡部はやめた。

 本来ならあり得ぬはずの山川草木や鳥獣の声を実際に聴く男が目の前にいる。ならば、狐が人に取り憑き、人をころすことがあり得ぬことだとなぜ言える?

 無慚はつづけた。

「草木が言った。乞われて目覚める。奴を起こすな──と。憑いた狐はなにかしらの言葉に反応して目を覚ますのかもしらん。とかくはように三郎治のもとへ行かねばなるめえ。ヤツは、おれを待っているのだろ」

「はい。無慚さまに、ええ加減裁いてもらうんやって。やつが来るからはよう逃げえと、こいとを逃がしてくださいました」

 ちょっと待て、と岡部が眉をつり上げる。

「どういうことや。三郎治は犯人を知っとるんか? それに無慚に裁いてもらうってのがどういう意味かもわからんぞ。貴様には思い当たる節があるのかえ、無慚」

「フ、──おれがなにを裁く。本来裁かれるべきはおれだろうに」

「む。…………」

「三郎治も、下手人をはっきり知っとるわけじゃあるめえだろが、……もう薄々気付いとるんじゃねえか」

「え?」

 こいとが顔をあげる。

 無慚はひどく悲しげに眉をひそめ、網代笠を深くかぶった。


「もしかすると自分が、娘たちをころしてきたのではあるまいか、とよ」

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