最終章
第23話 三人の声
時折、頭がぼうっとする。
意識が遠退くといつも、深い深い暗闇のなか、一筋の光のなかに立っている。周囲にはふたりの人間がいて、ひとりはつねに惰眠を貪る子ども、もうひとりはいつでもにやにやわらって暗闇に座る男である。
光のなかに立つことが許されるのは、自分だけ。しかし時折、にやつく男がここに立ちたがる。ふだんはすこしの抵抗で諦めてくれるが、たまにいくら抵抗しても聞く耳持たぬときもある。
その際は仕方なくこの場を譲る。
暗闇のなかへ行くと、途端眠気に襲われて、たちまち深くねむってしまう。
──十年前。
あの方が手酷く折檻されているのを見たときからだ。もうずっと、頭のなかでこんなことを繰り返している。
「どうするよ。三郎治」
にやつく男はたまに話しかけてくる。
たしか名を徳兵衛といった。その軽薄な雰囲気が気に入らず、あまり親しく接することを避けてきた。が、今宵はめずらしく真剣な顔で、俺の背後に立っている。
どうとは、と光を浴びたまま、闇のなかの男と向き合う。闇に紛れて男の顔は口元からしか見えない。
「なにをすっとぼけよって。まもなく目覚めるぞ、そこの」
と、男はそこの子どもを顎でしゃくった。
「化け物」
「…………」
よくない。
男の正体も、子どもの顔だってよく知らぬが、この子どもを光のなかへ立ち入らせることが非常によくないことだというのは、知っている。
それがなぜ良くないのかも、ここへ来ると思い出す。この子どもは化け物なのである。
「まもなく兄貴がやって来る。裁いてもらおう」
「この化け物をかえ」
「俺たちのことを、さ」
「心外極まりないのう。オレたちァなんにもしとらんちゅうのに。とくに貴様は」
「それでも──裁かれるべきなんや。それに俺ももう、疲れた」
と。
俺が言う間に、子どもがぴくりと目を覚ます。
もぞもぞと身体を動かして、ゆっくりと上半身を起こす。俺と徳兵衛は哀れみの目でそれを見る。
徳兵衛はわらった。
「……ちくと甘やかせすぎたかもしれんの」
「そうやな。そうかもしれん」
「けど、それも致し方あるまい?」
「それも、そうかもしれん」
「眠るかェ」
子どもはやがて立ち上がる。
俺のからだが、無条件に光の外へ歩み出す。子どもがおぼつかない足取りで光のなかへ一歩を踏み入れた。
「眠ったらまた、貴様が起こしてくれ」
「無茶を言うとることは自覚せえよ」
「承知しとる」
俺の意識は、暗転した。
※
三郎治は廃寺のなか、蹲る。
駆けつけた無慚と一行は本堂入口にて足を止めた。彼が連続通り魔だと断言した無慚のことばを受け、迂闊に近付けなくなった。
こいとがキュッと胸の前で拳を握る。
「三郎治」
呼び掛けた。
無慚である。それまでぴくりとも動かなかった三郎治のからだが、大きく跳ねた。
そのままぐるりとこちらを向く。その顔は、いつもの三郎治よりずっと幼い。へらへらと薄ら笑いを浮かべ、口からは涎を垂らしている。
「──三郎治」
「ア。あ、アニキ…………」
「こんなとこで何していやがる。おまえってやつは」
と。
無慚がどかどかと本堂へ踏み入れた。
しかし、背後に連なる一行に対しては外で待て、と手振りで伝える。おもわず身体を前につんのめらせたこいとを、惣兵衛が抑えてやった。
そのまま三郎治のそばに膝をつき、無慚はやさしく三郎治の肩を撫でてやる。
「久しぶりじゃねえか。なあ、……」
「あに。アニキやっ、無慚のアニキ。へへ、へ」
「あの三郎治──」泰吉がつぶやいた。「むかしに戻ったみたいや」
しかしどういうわけだろう、と。
岡部は首をかしげる。先ほどから、三郎治に対する無慚の接し方を見ていると気味がわるい。年頃の男に対して、まるで齢五つほどの子どもに接するような。
無慚はつづけた。
「なあ三郎治」
「へいっ」
「……おれのせいか」
「エ?」
「おれが、あんなことをしたばかりに、おまえさんを歪めちまったのか」
「ア、う」
三郎治は、途端に泣き出した。
その様はまるで親に叱られた五歳児のよう。わんわんと一目も憚らず泣き暮れて、やがてしゃくりあげながら、ちがう、と口をひらいた。
「オレ知っとる。アニキはわるないんや。あの、あのオンナ……オンナがわるいんや。あのことばは、のろいや」
「…………」
「村のみんなは知らへんのや。あのオンナはおばけや。物の怪や!」
「三郎治」
「オンナはオトコを狂わすんや。アニキが、おのれのハラワタかっ切るわけないんやッ」
「三郎治ッ」
「ハ、」
三郎治がハッと顔をあげた。
涙にまみれた瞳は、熱に浮かされたようにおぼろげで、無垢と悋気の混ざった視線が無慚をとらえる。
怒鳴った無慚は、しかし閉口した。
やがては項垂れて力なく本堂の板に座り込む。彼の手は、三郎治の腕をしっかと掴んで離さぬ。
声をふるわせて無慚が言った。
「三郎治、こたえろよ?」
「う」
「四人の女──おまえが、殺ったのか」
「ア。あ」
「……殺ったんだな」
「や。って、せやって。せやってな。アニキのことたくさんぶったんやんか。たくさん蹴って、痛めつけて、ほんでアニキの耳まで、聞こえへんくなってんやんか。オレ、知らんもん。オレ知らん──」
「おれをぶったのも蹴ったのも、死んだ女たちじゃねえだろう。怒らねえから。おれは、怒らねえから、言ってみな」
「や、やって──せやって、徳兵衛が言うんや。子どもが死んだら、ぶたれるより痛いんやて。蹴られるよりずっと痛いんやて!」
「だから殺ったのか」
「せやって」
三郎治は泣きながらさけぶ。
「みんな言うんや。ころしてって!」
ハッ、と。
だれかの息を呑む音が響く。おそらくはこいとだろう。岡部も惣兵衛も泰吉も、みな一様にくちびるを噛みしめて三郎治を見つめている。
とたん、三郎治は堰を切ったように話しはじめた。嗚咽を交えて。
「ころして。ころしてって。ころして言われたら、ころすんやろ。アニキがそうしててんで。ころして言うてオレ、起こされんねん。ほしたら徳兵衛がこのオンナなら死んでくれるて、ほんで、…………」
「ではなぜ目玉を抉りとった? 動物たちもだ。あやつらに罪はねえはずだ」
「せやって──く、供養せにゃ。お念珠さげて、ご供養せにゃ──あの日から、アニキずっとこの寺こもって念珠を繰ろうてたんやんか。オンナのためにお経あげて、ほやから──オレ、オレも」
念珠集めたらなアカンやろ、と。
三郎治は消え入りそうな声でつぶやく。
「分かった。分かったよ三郎治」
無慚が手で制した。
すると、三郎治はまるで五歳児のごとく無慚にすがり付き、さらに大声をあげて泣き出した。本堂入口に立ちすくむ一行のなか、泰吉が三郎治のそばに寄る。
膝をつき、その顔をまじまじと見つめた。
「こいつワシのよう知る三郎治や。昔々の、薄気味わるかったあのガキや」
「……この三郎治じゃあ話にならねえ。オイ狐。この三郎治のなかにおるのかいな」
「ア。う」
つい、いままで泣きわめいていた三郎治が口をつぐむ。それからコックリと項垂れて、やがて顔をあげた彼の表情は、涙にまみれてこそいたが、いつもの三郎治であった。
「嗚呼──兄貴」
が、無慚は首を振る。
「おめえに会いたいんじゃねえのさ、三郎治。貴様だよ。……徳兵衛とやら」
と。
無慚の問いかけに答えるように、ふたたび三郎治は項垂れ、やがてクックッと肩を揺らした。
「────」
「貴様が狐か」
「狐なものかよ。わしも三郎治じゃて」
といってゆっくり顔をあげる。
その顔つきを見た無慚と泰吉は、ギョッと目を剥いた。いつもの三郎治の面影はどこにもない。目はつり上がり、すこし老け込んだようにも見える。なにより声もちがう。
よく知る三郎治のそれより幾分か低くしわがれ、それが妙な色気も放っている。
無慚は苛立ったようにつぶやいた。
「童の三郎治が泣いて言うたぞ。徳兵衛という親爺が、死にてえ女を連れてくるんだと」
「女はみな、永久の愛を求めたがる。狂おしい愛を与えりゃァコロッと掌中に落ちてきよる。ともに死なんかと聞けば、嬉々として死を求めよるのよ」
「貴様──」
「きさんが無慚の兄貴かえ」
「ああ? だったらどうした」
「────」
三郎治、いや徳兵衛はふたたびクックッと肩を揺らし、
「狐はきさんや、無慚」
と言って立ち上がった。
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