第10話 野田村一の色男
弥市はいわゆるすけこましである。
野田村に住まう娘たちはたいてい彼のお手付きだと、以前三郎治も聞いたことがある。とはいえあまり色恋に積極的でない三郎治にとっては、そうかとうなずく程度の話でもある。しかしこいとは違った。
ただでさえ箱入り娘に育てられ、異性に対して潔癖な理想を抱く彼女はもともと弥市のような軽い男が好きではなかった。もちろんいまも好意はない。が、彼の性格はよくいえば女にやさしいとも言える。こいとの恋を前進させるにはうってつけのだし、利用せぬ手はない──と、なんとか友人関係にまでこぎつけたのだった。
うれしい顔ぶれやなァ、と弥市は両手をひらく。
「こいとちゃん、とうとう陥落?」
「変な言い方おやめよし。本日は別件で参りましたのや」
「別件て──なんや三郎治」
「無慚の兄貴の遣いでな」
と。
聞くや弥市はパッと瞳をかがやかせた。
かつて野田村で育った無慚という男──彼はとある件以来、大坂の町中から嫌われた。が、嫌うはおもに親世代の年寄りで、むしろ三郎治や弥市のような若者たちは無慚を英雄視する節がある。
弥市もまたそのひとり。無慚とはほとんど交流こそなかったものの、若者衆のなかでは人一倍無慚へのあこがれを強くする青年である。
「無慚の兄貴から遣いをわたされるなんてうらやましい。なんや、なんでも言うてみい」
「んまあ弥市はん、あんな素浪人のようなお人がお好きなん」
「なに言うてん。兄貴ほど愛の深ェお方はいてへんやろう。それにあのうわさ──ホンマのことやったらなおさら神童みたいでかっこええやんか」
「うわさ?」
こいとは首をかしげる。
代わりにうなずくは三郎治。彼はうっすら笑みを浮かべて腕組みをした。
「『無慚という男、人ならざるものの声を聴くことあり』──」
「人ならざるものの、声?」
こいとの背筋が冷える。
そういえば以前、父のぼやきを聞いたことがある。無慚は薄気味悪い。あやかしかもしらん──と。触らぬ神にたたりなし。むかしから無慚のことになるとおそろしく不機嫌になる父ゆえ、深くその真意を問う機会はなかった。しかし、……。
町の人間が抱く彼への忌避感も、そのうわさに所以するのだろうか。
それもあろうな、と弥市はこいとの問いかけに深くうなずく。
「しかし爺婆どもと兄貴との因縁はべつにある。どうせ十年前の事件を引きずっとんのやろう」
「十年前の事件て?」
「はははは。こいとちゃんはホンマになんも知らへんのやな。まあ、その方がええわいな。所詮過ぎた話よ」
「……さ、三郎治さまは知ったはります?」こいとは頬を染めた。
「もちろん。──でも」三郎治の目が細まる。
「とにかくいまは、はよう兄貴の遣いを終わらせなあかん。弥市、すこし聞かせてくれへんか」
「おうともよ」
────。
聞いた限り、であるが。
町衆がそうと信じていた娘たちの身持ちの堅さは、あっけなく覆された。
まずは一人目の被害者、水茶屋娘のおけいについてである。彼女は一見すると
その実、裏でははげしい男漁りをする面もあったとか。それを裏付けるは弥市の実体験であるという。
「男を知らぬと、彼女は言うたがね。いちど臥せてみればそれが嘘やと一発で分かったわ。一発とは、アレとコレを掛けとるわけやけど──かなりの手練れやったぞ。なにせ、百戦錬磨の鬼魔羅が三こすり半でイッてもうたくらいやからな」
「鬼まら……みこすり?」
こいとが首をかしげる。
箱入り娘の耳には聞き慣れぬ単語らしい。三郎治はあわててこいとの耳を塞ぐ。
「ええんや、こいとちゃんは聞かんでエエ話やった。で、ほしたらおけいちゃんはどこぞのわるい男に取っ捕まって、ころされた可能性もあるんか」
「どうやろなぁ。まあ、あんましおつむは良くなさそうやったし。口車に乗せられてどうにかされてしもたんかもなぁ──辰巳屋のとこで見つかるまで三日ほど、冷たい水ンなかでかわいそうな話やで」
「三日?」
三郎治がこいとの耳から手を離す。
突然の接触にどぎまぎしたこいとも、三日ということばにおどろいて弥市を見た。三日も前に死んでいたということは、その間おけいは水茶屋にいなかったことになる。親は娘の不在に気付かなかったのか──と。
その疑問に対し、弥市は彫りの深い眉と目をきゅっと引き締めてかぶりを振った。
「あの親にしてこの子ありという言葉があるやろ」
「うん?」
「つまりは、あの娘にしてその親ありってこと。うまく化けとったみたいやけど、おけいはかなりの放蕩娘やった。それに気付きもせず……いや、気づいとったにしても放っておくような親やったちゅうことや。三郎治なら納得できるやろ」
「え、俺が──?」
「あそこの大旦那、つまりおけいの父親がどういうヤツかって、ワシらは十年前に見たやんか。あのすがたを見たときから──ワシはどうもあの大旦那のことは信用でけへんやってん。やっぱりこうなったわ」
「十年前」
こいとはつぶやく。
また出た。十年前ということば。彼らのいう十年前というのはおそらく無慚がかかわる事件のことなのだろう。しかしどれほどこいとがくわしく話してほしいとせがもうと、弥市も三郎治も頑なに口をひらこうとはしなかった。
また「それより」と三郎治が話を逸らし、今度は三人目の被害者である北堀江青物屋の娘、とみ子についての話題に切り替わる。
「二人目の長浜についてはよう知らへんさかい。とみ子ちゃんのことで勘弁やけど、あの子はホンマもんの生娘やったとおもう。……ワシが手ェ出すまではな」
「そっちも出しとったんかい」
「そらそうや。『めんこいと評判聞きしに集いしは野田村若衆の色男』ってなもんで。なあ」
「それはいつごろ」
「半月ほど前やったかなァ。再三今宵こそ夜這うぞ、と声をかけつづけたら、とうとうある日裏戸を開けておいてくれてよ。そらまあたのしい一夜やった。あっこは母親がうるさい人やさかい、閨に忍び入るは冷や汗もんやったけどな」
「事の詳細を聞きたいんちゃうねん」
三郎治がにがにがしくつぶやく。
そうやった、と弥市はおどけて額を手で打った。とはいえ、こういう話は若い衆同士のあいだならばひじょうに盛り上がるものだが、この渋面を見るに本気で嫌気が差しているらしい。やはり三郎治はちょっとおかしいなと弥市は内心わらう。
「すまんすまん。ほんで、まあその後はとくに店にも行っとらんさかいに。あの晩っきり会うてへんもんで、とみ子のくわしいあれこれはようも知らん。ほんでもあの身持ちの堅さ、男の味をおぼえたからと夜鷹もどきにでもならんかぎりは、わるい男に引っかかる娘ではないと思うたぞ」
「そうか──男の線ばかりで考えん方がええっちゅうことかな」
「せやな。おけいはともかく、とみ子ちゃんはホンマに水鏡のようなやさしい子ォやった。誰かから恨みつらみを覚えられるいわれもないとおもう。あえていうならあそこの母親が口達者の癇癪持ちで、敵が多いといったところか。まあそんなもんは関係あらへんやろうけど」
と、弥市は締めくくる。
それからもしばらく、弥市からひととおりの話を聞いた。しかし分かったことといったら、弥市がまことに大坂中の女に手を付けていたということくらい。おけいもとみ子も決まった男がいたわけではない。彼女たちのすこし裏の顔を垣間見たくらいで、たいした情報ではなかった。こいとはすこしムッとした顔で弥市を見た。
「なんや、不細工で助かりましたわ。わたしがめんこい顔しとったら弥市はんが夜這いにきていたかも分かりまへんもの」
「なに言うてまんねん。こいとちゃんがええ言うたらワシはいつでも夜這いに行ったるがな。あの本間の主人の目を掻いくぐらんとあかんのやで、こいとちゃんの手助けがないことにはちとむずかしゅうて」
「べっ──べつに来てほしくて言うたわけとちゃいますッ。一生、来んでええですから!」
「まあ、つってもこいとちゃんは」弥市がちらと三郎治を見る。「こっちの朴念仁のがええんやろうし」
「や、弥市はんッ」
「ワシも健気な男やでェ。かわええこいとちゃんと朴念仁の仲人にいそしんで──」
「弥市はんッ!」
「わっはっはっは」
真っ赤な顔で弥市の腕をはたくこいと。
その反応をからかってたのしむ弥市。
そんなふたりもそっちのけで、三郎治はぼんやりと明後日の方角を向いたまま動かない。彼の瞳にはゆるやかに落ちゆく陽が映り、やがて「申の刻──」とつぶやいた。
「せや。刻限があったんや、こいとちゃんもどろう」
「えっ、あっ」
「弥市、いろいろおおきに。こんど飯でも奢ったる」
「いつでもええでェ」
弥市はひらりと手を振った。
くるりと踵を返した三郎治は、連れにこいとがいることも忘れたか、一心に歩をすすめてふなの団子屋を目指す。
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