第9話 光の君
ザワザワザワザワ。
無慚。ムザン。むざん。
四方八方から呼ぶ声がする。五月蝿い。
無慚! 無慚! 無慚!
「煩ェなぁ」
怒鳴った。
途端、周囲のざわめきが静まる。鬱蒼と生い茂る木々のちょっかいだろうが、まったく鬱陶しいことこの上ない。ふつうの人間にはこれが木々のさざめきに聞こえるのだから、羨ましい限りだ。
ゆえに、ふつうの人間はふたり同時におどろいた。三郎治とこいとである。
「あ、兄貴?」
「わたしたちなんも言うてまへんけど!」
「てめえらに言ってねえ──イッ」
無慚の懐がヂリリと痛む。
団子屋からふたたびついてきた米問屋の黒猫コテツが、無慚の白肌、とくに腹の傷に爪を立てる。大きな声を出したことに対する抗議である。
「イテェなこの!」
「ええぞぉコテツ。もっとやったれ!」
「えろう兄貴に懐いたはりますね、その猫」
「ったく。なんでおれがこんなこと!」
無慚は嘆いた。
──いま向かうは、野田村。
三郎治の仲間である弥市という若者が、大坂中の娘にくわしいというので聞きに行かんとする道中なのだが。
(考えてみらぁ、これはおれの仕事じゃねえ)
と内心でぼやく無慚である。
おもえば岡部から言われたのは、山川草木の力を借りてほしいというものだった。人への聞き込みならば自分でなくともよいのだ。なんだかんだ流れでここまで来たが、かつて古巣であった野田村など無慚にとってはもっとも忌避したい場所でもある。…………。
ヨシ、と無慚がピタリと立ち止まった。
三郎治だけを一心に見つめて歩くこいとが、その背に思いきりぶつかる。しかし無慚は、体幹が鍛えられているからかびくともしない。くるりとふたりへ向き直った。
「弥市への聞き込みはおまえたちふたりに任せよう。おれはその分よそで聞き込むとする」
「よそ、というと?」
「おめえたちじゃ聞き込めねえ奴らよ。いいな、弥市からころされた娘三人について、かならずくわしく聞いてくること。聞き込みを終えたらばふたたびおふなの団子屋に集合だ。そうさな──刻限は申の刻にしとこうか」
似合わぬ笑みをうっすら浮かべ、無慚は網代笠をくいと押しあげる。
とか言うて、とこいとがムッと口をとがらせた。
「ひとり楽しようて魂胆ちゃいますのん?」
「なにをいう本間米屋」
「こ・い・と!」
「おめえはたしかおれの岡っ引き手伝いがやりてえんだったな。いっぱしの仕事を与えられてよろこんでもいい場面じゃねえのかい。まあ、三郎治とふたりっきり、ってのがイヤだと言うなら考え直してやってもいいが──」
「え」
おもわずこいとは三郎治を見る。
すると三郎治の視線は「そうなの?」と言いたげにこいとへ向けられていた。思わぬところで目線がかち合ったこいとは、たちまち頬を染める。ここまでの顔をしてイヤとは言えまい。無慚はしたり顔でふたりの肩をがッと寄せ、
「文句がねえならいい。ふたりでしっかり、つとめるように」
とさわやかにわらった。
肩が触れ合ったことで舞い上がるこいとに対して三郎治は心底残念そうに無慚を見る。どうやらこの三郎治という男、よほど女に興味がないらしい。こうまで熱量がちがうとさすがの無慚もこいとが哀れに思えてくる。
しゃあない、と三郎治は苦笑した。
「こいとちゃん、ふたりで頑張ろな」
「は、はいっ」
とまたも頬を赤く染めるこいとを見て、無慚は網代笠をくいと下げ、おもわずにやつく口元を隠した。
※
さて、こいとは舞い上がっている。
無慚が気を利かせてくれたのか、はたまた偶然の産物か。こうして三郎治と肩を並べて町を歩くなど数日前までは考えられぬことだった。
野田村の若衆、三郎治はたっぱのある色男で評判だった。
対するこいとは豪商本間米屋のひとり娘として生を受けたためか、蝶よ花よと可愛がられ、すっかり箱入り娘に育った。ゆえに世間知らずだと言われると、そのたび口惜しく、こいとはたいそう勤勉を尽くした。その聡明さは近所でも評判となり、いまではすっかり本間米屋の看板娘となった。
反面、源氏物語や御伽草子の公家物語を読んでは、いつか光の君のような素敵なおのこが目前にあらわるのでは──と年頃にもなってずいぶんと夢見がちなところもあった。
三郎治とのはじめての出会いは、およそ半年ほど前になる。
戎橋で道頓堀川を渡るこいとに、観劇帰りの客が絡んできた。この頃の竹本座は座頭を亡くしたばかりで、観劇客も衝撃と哀愁を胸に抱え、それはそれは気の立った輩が多かった。そんな不逞な輩に、その日はすれ違い様、肩をぶつけられて因縁までつけられたのである。
生来、気ばかり強いと親を困らせてきたこいとが黙っていられるわけもない。男を屹っとにらみつけた。輩にはすぐさま、
「なんじゃその目はァ」
と怒鳴られた。
こいとはめげずにくちびるを尖らせて、下からねめつけてやると、とうとう輩はこいとの丸髷をむんずと掴んだのである。痛みに顔を歪めたそのとき、髷をつかむ輩の手首をはし、とへし折らんばかりに掴んだ手があった。
それこそが、帰村するためにたまたま通りがかった三郎治だったのである。
「みっともない」
と。
おおきなたっぱで見下ろす三郎治の、静かな怒りを湛えた瞳の視線に耐えかねて、輩はとたん弱腰になってこいとの髷から手を離し、そそくさと逃げた。
こいとの胸はここで一度跳ねた。
すると今度は、周囲の野次馬がやんやと持ち上げるなか、三郎治はこいとを見もせず、称賛から逃げるようにその場を立ち去ったではないか。こいとの胸はここでふたたび跳ねた。
そのいさぎよい背中からすっかり目が離せなくなって、こいとはおもわずその背を追いかけ、捕まえた。
「御名を」
問うと、
「──三郎治」
と視線を合わせぬまま恥ずかしそうにつぶやいて、会釈をひとつ。今度こそ足早に立ち去ってしまったのであった。
こいとの胸はいよいよ高鳴って、
(私が待ちわびた光の君に違いない)
と確信した。
そうと決まったこいとの行動力はすばらしく、三郎治という男について周囲の人々に聞き回り、彼が野田村の商家治郎吉方の三郎治であることを突き止め、よく店に来るというふなの店にてこっそり待ち伏せするようになったのである。
が、いざ店で顔を合わせるとどうしたことか。恥ずかしくてろくに顔も見れやしない。幾度か挨拶するうちに向こうは「こいとちゃん」と呼んでくれるようになったものの、こちらからは「三郎治さま」の一言もさらりと出ない。
喉を絞って、腹に力を入れてようやく出しても、あまりに弱弱しい声音で三郎治には届かない。おかげで幾度恥ずかしい思いをしたことか。
さてこのままではいかん、と手を打ったのが、ふた月前のこと。
野田村若衆で唯一親しい弥市に、どうにか三郎治とふたりきりで会えるよう手筈をととのえてくれないか──とたのみ込んだ。実現した逢瀬は二度。一度目は、本間屋の店先にて。しかしこのときに、どうもこいとの父が三郎治の父治郎吉と馬が合わぬため息子の三郎治をよくおもっていないことが発覚。ならばと二度目はひと月前、竹本座にて。
竹本座『曾根崎心中』の十周年を記念した特別上演に、弥市が三郎治を誘いだし、そこにこいとも偶然をよそおって居合わせた。しかしその際は三郎治が『曾根崎心中』に釘付けで、仲良くなる隙もなかったのであった。
(これが三度目の正直──)
こいとは下唇をきゅっと噛む。
三歩前を歩く三郎治の背中を見つめて、今日こそはと気合いを入れる。振り返ればすでに、なんだかんだ数言だが会話も出来た。今日のこいとはひと味違うわ、とおのれを奮い立たせる。
直後、背後で高下駄の音がした。
「あらら、ご両人おそろいで」
と。
にんまり笑みを浮かべるは、ふたりの求める野田村若者衆のひとり──弥市であった。
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